にゃんこビール作

空蝉 (うつせみ)

9.

 

―――カチコチ カチコチ カチコチ

どこからか古時計が重たく時を刻む音が聞こえてくる。
あの男に通されたこの部屋には時計というものがなかった。
悠理は相変わらず熱い息を吐き、意識は朦朧としたままだ。
あれからどのくらい時間が経ったのだろうか。
清四郎があの男といっしょに出て行ってから十数分かもしれない。
魅録が様子を見に出て行ってたから数分かもしれない。
ただこの重苦しい空気が何年も、何十年も経過しているように思えてならなかった。


「ねぇ… いくらなんでも遅すぎない?」
古時計の音に苛立つように可憐が2人に聞いた。
「き、きっと、遠いんじゃない?台所」
美童は場を和ませようと笑ってみたものの、頬が引きつってうまく笑えなかった。
「遠い?台所まで何時間かかってんのよ!」
可憐はキッと美童を睨んだ。
「ぼくに当たってもしょうがないじゃないか〜」
情けない声をあげて美童はむくれた。
「静かにして下さいな。悠理は具合悪いんですのよ」
野梨子は言い合いを始めた可憐と美童に向かって静かな声で窘めた。
「ごめん…」
美童に八つ当たりをしてしまった可憐は大人しくなった。
野梨子はそんな可憐と美童にできる限りの笑みを見せた。
「もう戻りますわよ…」
まるで自分に言い聞かせるように野梨子は呟いた。
この部屋に充満する陰鬱な空気が仲間たちの気持ちを乱れさせていた。


「…ううっ!」
悠理が突然、呻き声をあげた。
さっきまでは高熱で頬を紅潮させていたのに、今は顔面蒼白で息づかいがいっそう荒くなった。
しかも何かに魘されているのか、苦しそうに首を左右に振っている。
「どうしたんだよ、悠理!」
「悠理!しっかりして下さいな」
「起こした方がいいのかしら、悠理!悠理!」
どんなに呼びかけても、パチ、パチと悠理の頬を軽く叩いても
一向に悠理は目を開けない。
「…はぁ、や、…はぁ、…はぁ」
何かから逃げるように悠理の手は空を切る。
「悠理!」
その手を野梨子と可憐が掴んだ。
「頑張って。もう少しで魅録と清四郎が助けてくれるわ!」
そう可憐が悠理に声を掛けた。
“清四郎”という言葉に、悠理はカッと目を見開いた。

「清四郎っ…!!」

はっきりと、大切な友人の名を悠理は叫んだ。

「悠理ぃぃぃ!!」
「よかったー!気が付いたのね」
美童と可憐は正気を取り戻した悠理に抱きついて喜んだ。
息はまだ乱れていたが、悠理は意識を戻した。
「ここ… どこ…?」
悠理はゆっくりと辺りを見回した。
「あの祠の裏にあるお宅ですわ。悠理が熱を出して倒れてしまって、少し休ませて
 頂いてましたの」
野梨子は微笑んだ。
「… 祠?」
何かを思い出すように悠理は呟いた。
「雨も上がったし、早く2人とも戻ってこないかな」
「本当よ!2人が戻ってきたらすぐに帰りましょうよ」
悠理をゆっくりと起きあがらせ、美童と可憐ははしゃいだ。
「…清四郎は?魅録はどこ?」
悠理の顔が一気に曇る。
「悠理の熱が高くてタオルを水に濡らしに行きましたの。もうすぐ戻るはずですわ」
悠理を不安がらせないように野梨子はそっと悠理の背中をさすった。
「…清四郎」
悠理はいい知れない不安に、ぐっと胸元のシャツを掴んだ。
「そうだ。庭から台所に回れないかな?」
名案とばかりに美童が障子を指した。
「北側に回れば台所に辿り着くかもしれませんわね」
野梨子が頷いた。
一刻も早くこの場所から立ち去りたい。
清四郎と魅録を探して、この歪んだ世界から抜け出さなくては。
ここにいる4人の気持ちは同じだった。
野梨子と可憐が悠理を支え、美童が勢いよく障子を開けた。
「あっ!」
「どうして?」
さっきまで障子越しに日の光が差していたはずなのに。
外は4人の行く手を阻むように暗い雨が激しく降っていた。


「…どこにいくつもりだ!」

突然の声に振り返ると、強雨で薄暗くなった部屋の戸口にあの男が立っていた。
その姿は暗黒の闇のように黒く、周りにはどろどろとした空気が流れているように見えた。
ただ眼光と手に持っている何かだけが鈍く光っていた。

―――ずるり

男が一歩、足を引きずるように近寄った。
よく見ると、男は全身ずぶ濡れで、体から雫が滴り落ちていた。

ぽたり …――

それは雨雫なのか

ぽたり …――

いや、雨雫などではない。
雫は血のように赤く、男の足元にどす黒いしみを作っていた。

「た…」
助けてと可憐が叫ぼうとしたとき、音もない稲光が男の全身を照らした。
シャツは真っ赤に染まり、その手には紅く光る草刈鎌が握られていた。
「「「「!!!!!」」」」
悲鳴は大きな雷の鳴轟にかき消された。
男がずるりとにじり寄る毎に、4人は一層ぴったりと体を寄せて悠理を守った。


いつもは臆病で悠理の後ろに隠れる美童が前に出て立ち塞がった。
「こ、こ、こ、こっちにくるな!」
清四郎や魅録のいない今、女性たちを、奇怪な気を一身に受けている悠理を
自分が守らなくてはという使命感が美童を突き動かしていた。
「近寄るなって言ってるだろう!!」

どんなに美童が凄んでみせても、男の耳には届いていなかった。
男の嫉視は美童の体を通り抜け、悠理だけを捕らえていた。

「有里、こっちにこい」

男は地を這うような怨声で女の名を呼んだ。

悠理は小さく首を振って後ずさりをした。

「茂夫さん…」

悠理が震える声で男の名を呼んだ。

「悠理?」
「どうしちゃったの?」
3人が振り返ると悠理の姿がぼんやりと霞んできた。
それは瞬きをするごとに、悠理の髪は伸び、着物姿に変わっていった。
「悠理!」
目の前には悠理によく似た、“有里”という名の女性が怯えていた。

薄紫の着物の暈かし染めだと思っていた紅い染みが、
鮮血だと気が付いた瞬間、ぐにゃり、と空気が歪んだ。


 

NEXT

TOP