あれは真夏のことだ。

風と雨の夏。

憂いを帯びた少年の夏。

あたい達の夏。

ここで語られる物語の夏。

 

 

澄んだ泉で

                 BY こたん様 

 

1

 

 

雨が降っている。

海に降っている。

森の上にも、人気のない砂にも降っている。

夜来の雨。

細かいこぬかの雨。

 

 

「僕達は、何の話をしてきたんでしょうね」

 

大学ニ年の夏、剣菱家の持つ海辺の別荘で、清四郎は言った。

友人の枠を越え、付き合いだした頃と違って、悠理と清四郎は何だか疲れていた。

医大に通っている清四郎と違って、プレジデント大に通う悠理は高校生活の延長のようだった。

だから高校時代のように、毎日会う事は不可能だった。

 

ニ人で会えた週末は何処かで食事をし、酒を少しだけ飲み、品のよいホテルで身体を繋いで朝を迎えた。街をぶらぶらし、つまらない喧嘩をしては仲直りし、また身体を繋いで日曜日の夜に別れた。

 

そんな日々の繰り返しだった。

なんの進歩も進展も無かった。

清四郎に抱かれていても、それは意味を持たない義務だった。

 

そんな時にニ人で別荘に来るなんて致命的だった。

 

「少し距離をおきましょう。僕達にはそういう時間が必要だ」

 

 

2

 

 

時々悠理は、清四郎を知らない人として見ていた。

全くの赤の他人として、この砂浜から遠く離れたよその場所、時によっては遠いよその国にいる人として見てしまう。

清四郎の思い出というのは、すでに彼の目の前に存在しているのだけれども、彼の手に、もう見覚えが無くなってしまうのだ。

清四郎の手をまだ一度も見た事が無いように思えてくる。

彼の眼は残るだろう。それに彼の笑い声。

とてつもなく無邪気な彼の顔から常に溢れ出ようとしながら、表には出てこないあの笑顔。

 

海辺の朝、と言っても充分に日が昇り、日差しと暑さが息苦しいと感じられる時刻に達した頃、悠理は目を覚ました。

別荘には誰もいない。

エアコンディショナーを切り、窓を締め切って眠った為に、じっとりとした汗を掻いて目覚めた。

昨夜降っていた雨は止んでいた。

両親の持つ別荘にしては比較的小さな別荘の全ての窓を開け放し、シャワーを浴び、キッチンで立ったまま朝食を取る。

サンドイッチ用のパンに、ハムとチーズを挟んだだけのもの。それをアイスコーヒーで流し込む。

それから洗面所で丁寧に歯を磨き、彼女は外へ出た。

 

暑さは彼女の身体中にねっとりと巻きついた。

風は無かった。

砂浜に降り立つ。

夏のパラソルはまだ出ていない。

 

広大な砂浜の唯一の動きは、臨海学校の子供達だ。とても小さな子供達。

悠理はその中の一人の少年、はみ出し者の少年を見つける。

 

少年は紺色の無地の海水パンツを履いていた。

やせっぽちだ。彼の身体ははっきり見えるが、硝子細工、板ガラスみたいで背が異常に高く、成長した姿は今からでも想像がつく。

プロポーション、つなぎ目、筋肉の長さとも申し分の無い点が目に付く。骨同士、脚、手といった中継部の不可思議な不安定性。それが目に付く。

そして、進化の過程で当然の出現として保持されている、灯台のような頭。

一輪の花という到達点。

 

穏やかな、でも生暖かい風が広大な砂地を通り過ぎる。

 

悠理は少年を見て、ふと誰かに似ていると思う。

その端正な顔立ち、肢体・・・

そう、初めて幼稚舎で出会った頃の清四郎に似ているのだ。

 

 

少年は知らない。

この浜辺に彼を見、彼を眺めている者がいる事に気付いていない。

あたいのことだ。

彼は振りかえって、自分の背後を、風を眺めた。

方向が変わった風を眺めているみたいなのだ。

 

 

子供達の群れからはみ出し、一人砂浜に立つ少年に距離をおき、悠理は彼の横を通り過ぎる。タンクトップにショートパンツ姿の彼女も、少年と幾分も変わらない。

痩せていて、とても疲れている。

悠理は砂浜に腰をおろし、膝頭の間から乳色がかった青い海を見つめた。

空には所々に不気味な雲が浮いていた。

 

少年もまた、遠慮がちにその場所に座り込んだ。

彼女と同じ格好をして。

 

「ねぇ、皆と一緒に泳がないの?」

 

少年は不安そうな眼差しを悠理に向け、答えない。

 

「お前、いくつ?」

 

少年は申し訳無さそうな微笑みを浮かべ、答える。

 

「七歳」

 

もう一度聞く。

 

「何で泳がないの?」

 

やはり少年は答えない。

 

悠理は立ち上がり、少年に近づく。

彼はやはり、悠理を悩ませるあの男の幼い頃に良く似ていた。

 

「名前は何て言うの?」

 

少年は悲しそうに首を振り、いきなり立ち上がると子供達の群れに走り去った。

 

 

突然風が吹き始め、空も暗くなった。

海は見渡す限り、雨の舞台となった。

 

 

別荘に戻り、リビングの窓から暗い海を、空を見つめる。

少年の姿はない。

臨海学校の子供達も、もう砂浜に存在しないのだ。

 

 

3

 

 

灼熱の太陽がその翌日に戻ってきた。

海は澄んだような青で、空も同様に無垢で滑らかだった。

 

悠理は先日と同様に砂浜を歩き、少年を見つけ出す。

さがさなくても分る。少年はいつも群れからはみ出しているからだ。

彼の視線を感じながら同じように腰をおろす。

程なくして少年は彼女の横に、それは先日よりもかなり距離を縮めた場所に腰をおろした。

 

「あたい、泳いでくるよ」

 

立ち上がり、海に向かって走る。

ここの海に来てからというもの、一度だって泳いでいない。

水着すら持ってきていない。

そうするには余りにも疲れていたから。

 

泡の海に入り、思ったより荒い波に身体を沈める。

長く、長く、長く。

衣服の重さが負担となり、上手く泳げない。

顔を水面に出して大きく息を吐き、少年の方を向くと、彼は恐怖に慄いていた。

悠理はおかしくなって、また海に潜り、今度は上手く沈んだ。

海の中で、先程見た少年の凍りついた瞳を思い出し、それ以上深い泡の中に進むのを思いとどまった。

 

手で髪の毛を梳き、悠理は少年の横に力任せに座った。両足を砂浜に投げ出して。

彼の美しい顔は生気を失い、身体は小刻みに震えていた。

 

「寒いの?」

少年は寒くない、と答えた。ちょっと驚いただけ。

「まだ怖い?」

ううん、今度は微笑すら浮かべ首を振った。

 

少年は悠理に、もっと波の砕けているあたりまで行けないか、と訊いてきた。

僕は浮き輪でついて行くから。

「そんなことしたら海の力であたい達、離れ離れにされちゃうよ。お前、波にさらわれちゃうかも知れないぞ」

 

少年は彼女の言う事を、冗談みたいに笑った。

その笑みすら、男に良く似ていた。

 

二人はしばらくの間、寄せては返す波を依然として見つめていた。

二人は肩を並べ、そうしていることが同然のように思えた。

今では悠理は、少年の気持ちを知る事ができた。

名前すら知らない少年の心が

 

 

「僕達は、何の話をしてきたんでしょうね」

 

何について?

二人で育む愛について。その行く末について。

互いの身体について。セックスについて。

仲間と過ごす長い休暇について。

暑い夏について。

 

 

「あたい、お前によく似た奴を知っているよ」

 

少年は澄んだ黒い瞳で悠理を見つめていた。

彼女は最近読んで、読後の興奮のいまださめやらぬ本の話をしてやった。

それはあの男に、二人で会った最後の日に、彼の部屋の本棚からそっと抜き取った本だった。

 

彼との繋がりを失いたくなくて

二人の間が事実であったことを忘れたくなくて

 

その本は本当に短い小説で、

欲望を通して体験されるよりもはるかに激しい愛をとりあげた話だった。

 

少年は同じ瞳で、憂いを帯びた表情で悠理を見つめていた。

彼に彼女の言う事が分らなくても、話を続けて欲しがっているのだ。

 

だからあたいは、あいつのと間は、今のままでいる方が良いと思うんだ。

あたいとお前との関係のようにね。

 

少年はじっと耳を傾けている。

 

全く不可能なままがいい。

全く絶望的なままがいい。

 

もしお前がもっとずっと大きかったら、今度のようなことがことは起こりもしなかっただろうし、あたい自身、こんなことは想像できなかった。

あたいとあいつの間は、このままでいる方が良いのだ。

 

 

悠理は海を見つめたまま、なおも彼に話しかけ、

この夏の日をあたい達は生涯わすれないだろう、と言う。

 

彼女は少年にいつか、彼女の言っている事が理解できるようになったら、ここに来てみるといいと言う。

あたいも来ているから。

 

悠理は少年に、

今日の何もかも、海や砂浜や向こうの町、ヨットも全て一つ残らずよく見ておくように、

物音も全てよく聞くように、

これが彼の七歳の夏なのだから、と言う。

 

少年は彼女の瞳の奥を見つめ、その言葉をそのまま頭に焼き付けた。

 

そして歌を口ずさむ。

 

澄んだ泉で彼女は休み

どんなことがあっても彼のことは忘れない

 

 

悠理はその旋律に震え、記憶し、自分も口ずさんだ。

余りにも淋しい旋律だった。

 

 

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