澄んだ泉で

                 BY こたん様 

 

4

 

 

「悠理、風邪をひきますよ。起きなさい」

 

強い口調で言われ、目覚める。

 

「ん・・・」

 

「雨が降り始めたのですよ」

 

あたいはその声の主を、憂いを帯びた男の顔を見、ゆっくり周囲を見渡し、自分の姿を見つめた。

あたいはハンモックの中にいた。

 

仲間と別荘で昼食を取った後、ここで眠ったのだ。

 

柔らかな雨が、生い茂る木々や草原を、あたいと清四郎をしっとりと濡らしていく。

生暖かな風が頬に触れる。

 

「早く降りなさい」

 

表情を読み取る前にあたいに背を向け、歩き始める。

ハンモックからのろのろ降り立ち、その動作と同様にぼんやりとした頭をゆっくりとめぐらした。

 

 

大学四年、そう、学生最後の夏休み。

仲間達六人が、このあたいの両親が持つ別荘にやって来たのだ。

高校の頃と違い、大学もばらばらで、それぞれに忙しい悪友達が何とか時間を取り、こうして最後の時間を共用する。

期間はたったの五日間。清四郎に関しては、三日間。それ以上スケジュールが取れないのだ。

 

あたいと清四郎が付き合い始め、一年半でその関係がギクシャクし始めたのは他のメンバーも知っている。

そしてその状態が二年も続いているのだ。

恋人同士でもなく、完全に別れた状態でもない。

でも二人きりで会う事はなかった。顔を合わせる時はいつも誰か傍にいたし、メールも電話も必要な時以外、する事もなかった。

 

その不自然な状態に、でも、けっして慣れる事はなかった。

 

「全く、皆心配してますよ。早く戻りましょう」

今度の口調は優しく、振り向き、あたいを待つ為に立ち止まって向ける表情は、先程のそれと違い幾分柔らかだった。

形の良い黒い眉毛が、困ったような、笑ったよう感じに下がっていた。

 

「ごめん」

あたいは力なく上目遣いで清四郎を見る。

 

ごめん、夢を見ていたんだ。

お前によく似た少年の夢だった。よく似ていたけど、お前と違ってすぐに心が通じ合えたんだよ。

あたいは少年の、少年はあたいの考えている事が分るんだよ。

あたたかな夢だった。

 

清四郎はあたいが歩調を速めると再び歩き出した。

清潔であったはずの白いシャツがそれを失い、彼の日に焼けた肌が所々に浮き出ていた。それは、醜さの象徴だった。

あの少年のものとは違うその背中、その鍛えられた広い背中を見ていると、無理に冷たい鉛の塊を飲み込んでる気になった。

 

苦しい、苦しい、苦しい。

冷たい、 冷たい、冷たい。

 

かつてはその広い背中に爪を立て、その肩であえぎ、その胸で絶頂を迎えたのに。

今は離れてしまっている。

その距離を埋める術をあたいは知らない。

 

あたいは夢の中で少年に教わった歌を口ずさむ。

その歌が聞こえたのか、清四郎はちらりとあたいを振り向いた。

 

 

5

 

 

友人達の勧めでシャワーを浴びる事にする。

驚いた事にこの真夏の空の下、あたいはかなり冷え切っていた。

雨のせいだ。

別荘のリビングに入った途端、エアコンディショナーの風で身体中に鳥肌がたった。

二階の自室に戻り着替えを取る。手がほんの僅か震えていた。

 

あれは夢だったのだ。

でもあたいは覚えている。

少年の澄んだ黒い瞳。憂いを帯びた顔。痩せた身体。

僅かな動作。

交わされた会話。

 

バスルームから出ると、清四郎がリビングから出てきたところだった。

あたいは顔をタオルでごしごし拭いて目を合わせなかった。

 

「お先」

 

「ああ、次いただきますよ・・・悠理」

 

「あん?」

 

清四郎が何か言いかけた時、リビングのドアから魅録が、あたいの着信音が鳴る携帯電話を掲げながら出てきた。

 

「おーい悠理、携帯なってるぞ!」

 

「サンキュ。ごめん、清四郎」

 

あたいは魅録に駆け寄った。

そうすることであいつからの呪縛が解けるような気がした。

 

 

キッチンではハンバーグステーキの焼ける匂いが充満していた。

リビングの涼やかな空調と違い、キッチンは蒸し返るように暑かった。

 

あたいは巨大な冷蔵庫から缶ビールを取り出し、壁に寄りかかりながらゆっくり飲んだ。

 

「悠理ってば」

 

フライパンと奮闘している可憐は笑みを含みながら睨み付け、挽肉と格闘している野梨子は、昼間からの酒を嗜むようにと言い放った。

 

「もう夕方だよ?それに腹減った」

 

側にあった食パンを厚切りし、更に中途まで切った中に焼きたてのハンバーグステーキを詰め込み、マスタードとケチャップを流し込んだ。瓶の中のピクルスをフォークで荒々しく取り出すと、その異様な食パンの上に載せた。

 

「お行儀が悪い!!」

 

そう言う可憐達をよそにあたいはパンを頬張った。口の中に熱い肉汁が溶け出した。

 

口の中に残るビールとピクルスの味が嫌で、あたいは洗面所に行って歯を丁寧に磨いた。まるで一本一本抜き取って磨くように、時間をかけて磨く。鏡の中のあたいは頬が紅潮し、高校時代の自分を思い出させた。

 

あの頃が一番楽しかった。

見るもの全てが新しく輝いているようで、瞬時瞬時に心がときめいていたように思える。

 

清四郎と付き合いだしてから、あたいの生活は一変した。

ただ苦しいだけの毎日だった。

 

何とか互いの気持ちが通じ合い、付き合いだした頃は毎日が喜びに溢れていた。

清四郎によって知った男の強さ、優しさ、甘え。肉体的痛みの後に、やがてやってくる快楽。精神的安らぎ。

あいつに抱かれる度に瑞々しく潤う素肌。

あたいは女だったんだって・・・

今まで理解出来なかった全ての事が、理解できる気持ちさえした。

 

でも長くは続かなかった。通じ合えたと思っていた気持ちは、そうじゃなかった。

苛立ちと邪推。

会話は途絶えがちなり、やがて会う事すら義務に思えた。

でもあたいは、それでもあいつに抱かれたかった。

それが真実だった。

 

 

あたいが廊下の奥まった場所で、窓にもたれながら雨に濡れる木々を眺めていた。じっと雨を見つめていると、現実感が喪失した。雨は自分の意識の向こう側にあるような気さえしてくる。あるいはあたいが意識の向こう側にいるのかも知れない。

あたいがあちら側にいて、雨がこちら側?

何だ、それ?

 

「やっほ」

 

美童が軽くしなやかに片手をあげて近づいて来た。男にしてはサラリとした長い金髪から、品のよい香水の香がした。

 

「悠理、元気?」

 

「うん」

 

「らしくないね」

 

「そう?そうかも知れない。疲れてるんだ。皆と違う意味で」

 

「あれから変わりない?」

 

あいつとのことだ。

 

「みりゃ分るだろ?」

 

「皆心配してるよ」

 

あたいは美童に背を向け、窓の外に目をやった。雨はまだそこいて、意識のどちら側にあるかなんて、あたいには分らなかった。

ただ、これ以上会話を続けたら、心が砕けそうだった。

 

「分ってる、けどさ」

 

震える口元に、今度は意識を集中させた。

 

「どうしたい?」

 

美童は長く細い両手を窓に伸ばし、あたいを背中から優しく包み込んだ。

 

「そんなのワカンナイよ!」

 

あたいは振り向いて美童を睨み付けた。奴の優しさは、耐えてきた二年間を無駄にさせる。温かいものが左頬に流れた。

 

「悠理の気持ちを伝えなよ。どうしたいのかさ。あいつなら応えてくれるよ。清四郎はきっと悠理を待ってるよ。半端な気持ちで二年間も放ってないよ。悠理を想っているからこそ・・・」

 

「あいつが距離を取りたがったんだ!あいつがあたいをどうしたいか言えばいい!あたい、あたいワカンナイよ。美童の馬鹿!」

 

あたいは美童を突き飛ばし、階段を駆け上り自室に閉じこもった。

皆が気を配っていることなんて、ずっと前から知ってる。そうじゃなきゃ、大学四年の忙しいこんな時期に、こうして時間を取ることなんて、ない。

シングルの小さなベッドに身を投げ出した。

涙はもう出なかった。

ただ友人達の計画に、のこのこついて来た自分が悔しくてならなかった。

 

夕食の時間になってもあたいは階下に行かなかった。

野梨子が心配して来てくれたけど、眠っている振りをした。

彼女の冷たい細い手があたいのおでこに触れたとき、急に咽喉もとに嗚咽が込み上げた。冷たい手が頬を伝い野梨子は囁いた。

 

「ゆっくり休みなさいな。皆あなたを愛してますのよ」

 

野梨子が去り、部屋は暗闇に包まれた。それは月の光によって完全ではなかった。エアコンディショナーのカタカタという音だけが静かに聞こえた。

海鳴りが窓辺まで届く。

雨が止んだのだ。

あたいはもう一度、少年に会う為に目を閉じた。

 

 

目覚めた時、あたいは見た夢すら覚えていなかった。

空腹を覚えキッチンに下りた。

悪友達は大人しくベッドに入ったのか、別荘は静けさに包まれていた。

キッチンの電気を点けると壁掛け時計はもう、夜中の十一時を充分に過ぎていた。

冷蔵庫を開くとあたいの分のハンバーグステーキが、レタスとポテトサラダを添えられてラップフィルムに包まれていた。

それらを胃に詰め込む気にはなれなかった。

あたいはカウンターに置いてあるコーヒーメーカーに、コーヒーの残りを確認するとスイッチを入れた。それから棚からクッキーの缶を取り出し、蓋を開けてそのまま手掴みで齧った。チョコチップクッキーとクリームサンド、バタークッキーを何枚か口に放り込んでいるうちに、コーヒーの煮詰まった匂いが鼻に入った。ハンバーグステーキの残り香とコーヒーの煮詰まった匂いは、一瞬嘔吐を覚えさせた。でもそれは、空腹には勝てなかった。

 

「よお、何してる?」

 

魅録があたいの背後から声をかけてきた。

 

「わっ!びっくりさせんな」

 

「シャワー浴びたら、咽喉乾いちまった」

 

なるほど首にフェイスタオルを掛けた魅録からは、柑橘系のボディソープの匂いがする。この場所にその匂いは不釣合いだった。

 

「ビール、まだあったよな?」

 

「知らないよ」

 

あたいは食器棚からマグカップを取り出し、コーヒーメーカーのスイッチを切ると、コーヒーを注いだ。コーヒーは真っ黒くどろどろし、完全に煮詰まっていた。

 

「お前達、相変わらずだよな?」

 

「美童にも同じような事、言われた」

 

巨大な冷蔵庫にもたれ、魅録はビールの蓋をプシュと開けた。

 

「お前もそうだけど、清四郎、何も言わないのか?」

 

「何も、二年間、何もないよ」

 

「馬鹿だな、お前等」

 

「うるせぇ」

 

沈黙が流れた。

調理台の上に、コツンとビール缶の置く音がキッチンに響いた。

あたいはマグカップを持ったまま食器棚の前の、背もたれの無い椅子に座った。コーヒーは飲めた代物ではなかったけど、沈黙に耐えるには飲むしかなかった。

 

二年前、清四郎に告げられた時、真っ先に魅録の所に飛んで行った。可憐や野梨子に会うよりも、魅録の傍に行きたかった。こいつなら何も聞かずに泣かせてくれると知っていたから。

悪いと思ったけど、あたいは一晩中魅録の部屋で泣いていた。

魅録は何も聞かず、ベッドを与えてくれた。朝までベッドの上で泣くあたいを、ソファから見守ってくれた。

 

魅録はあたいに近づき、ゴツゴツした手で優しく頭を撫でた。

 

「悠理、清四郎を信じるんだ。あいつがお前を信じてるように」

 

「なんで分る?清四郎はあたいを嫌ってるんだ、きっと。だから放ってるんだ。二年間も。二年間だよ?」

 

「お前等には距離をおく時間が必要なんだろう?必要だからこうしてるんだよ」

 

  互いを理解する時がくれば、必ず戻ってくるよ。

 

「どのくらいお前等のダチやってると思う?互いしか見てない事位、俺は知ってる。美童も可憐も、野梨子も」

 

「そうかな?」

 

「そうだよ」

 

あたい達はしばらく冷蔵庫の唸る音と、壁掛け時計の針の音をぼんやりと聞いていた。

 

 

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