5.
死んでもいいと、思った――――一緒なら。 でも、生きてゆきたいと思った――――ずっと、二人で。
悠理を包んでいたぬくもりが消えた。 屋上の強い風が、ふたたび悠理の体に吹きつける。 清四郎の体が離れて、初めて悠理は肌寒さを感じた。
「さすがの腕だな。両手を撃ち抜いているだけだ」 清四郎は兼六聖吾の足元に立ち、ヘリから狙撃された男を見下ろしていた。 肩から手に四発。魅録の正確な射撃で銃を弾かれた男を、清四郎が瞬時に昏倒させた。 清四郎の手刀と蹴りで、両手両足を折られた男は、力なく横たわっている。
ピリリと携帯が鳴った。 「ああ、魅録。大丈夫です。首の骨は折っちゃいません。両手足は使えないでしょうが。ええ、止血はしておきます。とりあえず…」 清四郎は通話しながら、悠理を振り返った。探るような目で、悠理を見つめる。 「…悠理にも大して怪我はなさそうだ。この男、生かしておいてもいいでしょう」 酷薄な声。清四郎もこんな声を出せるのだと、悠理は初めて知った。 一見、無表情に見える顔に、抑えた激しい怒り。 本当に、清四郎は人殺しも辞さない気で、この屋上に飛び降りたのだ。 携帯を耳から離しているところを見ると、魅録が喚いているのだろう。
怪我人の搬送方法を打ち合わせし、清四郎は電話を切った。 「悠理、手伝ってください。ここにヘリは着陸できないので、とりあえず早急に治療の必要な怪我人だけ、ヘリに吊り上げて回収してもらいます。警察の爆発物処理班がもうビルに入ったそうですから、時間はかかるかもしれませんが、僕らはここで待って、階段で降りましょう」 「う、うん」
二人がかりで、兼六親子をヘリから降ろされた搬送器具に縛り付けた。 二人とも意識がなくて幸いだ。風の強い超高層ビルの上に吊り上げられたのだから。
ヘリを見送り、悠理は清四郎と屋上に残された。 もちろん、二人きりではない。 瓦礫の間には、バラバラになった死体と、その仲間三人。 悠理は昏倒しているテロリストに目をやる。 「…大丈夫か?あいつらは」 「彼らは、当分目を覚ましません」 清四郎が、無表情に請け負う。 「そういう意味じゃないよ。手加減、ちゃんとした?」 清四郎は冷たい目で、男達を見た。 「手加減の必要が?」 悠理は苦笑した。 「おまえ…怖いよ、ちょっと」 清四郎は片眉を上げる。
清四郎の顔に、表情が戻った。目を細め、悠理を見つめる。 「悠理も、奮闘のあとが忍ばれる格好ですね」 じろじろ無遠慮に見られ、悠理は初めて自分の姿を意識した。 足は裸足。ドレスの裾は太腿まで破れ、肩ひもも一部千切れている。破かれた胸元からはブラが覗き、髪は爆風でぐしゃぐしゃ。 仕上げに、頬に血の痕と、全身埃まみれ煤まみれ。
悠理は羞恥と肌寒さのため、両手で自分の体を抱きしめた。 清四郎は、自分の上着を脱いで悠理の肩に着せ掛けた。 黒のフォーマルスーツ。 ネクタイは外しているものの、表情が戻れば、いつもの清四郎だった。 落ち着いた黒い瞳。 少し目を細め、悠理を案じている、友人の顔。 悠理は清四郎のぬくもりの宿った上着を、ぎゅ、と握りしめる。 ここが、凄惨な血塗れの事件現場であることを、悠理は一瞬、忘れた。
兼六聖吾が、銃を向けたとき。 悠理に覆いかぶさってきた、大きな体。 それが友情からであっても、命がけで悠理を庇ってくれた清四郎。 胸のうちで、抑えようとしても抑えきれない恋心が、叫んでいた。
”もう一度、抱きしめて”
二度と言ってはいけないのだと、わかっているのに。
悠理は清四郎から目を逸らせた。 きっと、愛されたい女の顔で、清四郎を見つめていただろう。 この鈍感な男が、それに気づいたはずはないだろうけれど。
*****
悠理は上着の中で、腕に着けたチョーカーに触れた。 隣に立ちながら、触れられない男の代わりに。 これだけが、悠理にあたえられた武器だった。 一緒に戦っていると思うことができた。清四郎の存在を、感じることができた。
「…よく、あたしたちが屋上だってわかったな。爆発が起きてすぐに来たろ?」 清四郎は、肩をわずかにすくめた。 「実は――――それ、発信機が仕込んであったんです」 「なっ」 後生大事にチョーカーを握りしめていた悠理は、赤面する。 本当に、これは清四郎と繋がっていたのだ。
悠理は憤慨して、チョーカーを清四郎に投げつけた。 清四郎は苦笑しつつ、それを受け取る。 「ああ、やっぱり。壊れてる」 清四郎はチョーカーを裏返し、ダイヤの間に仕込んだ発信機を取った。 壊れた金具を調節しながら、悠理の背後に回る。 「これは、誕生日プレゼントなんだから、受け取ってください。可憐のところで直してもらいます。今度は発信機抜きでね」 そう言って、清四郎は悠理の首に、再びチョーカーを回した。 清四郎の上着の中で、悠理は身を震わせた。 わずかに触れる男の指が、胸を締め付ける。 金具に手間取っている清四郎の手を、思わず悠理はつかんでいた。
「清四郎…」 肩に触れた手を握りしめたまま、清四郎の顔を見上げた。 少し驚いたような顔をした清四郎。 悠理の手を外さないまま、清四郎の手に力がこもった。 清四郎は、俯いて目を伏せる。
「この発信機が壊れて…目の前で屋上の爆発が起きたとき、おまえを失ったかと思った」 囁くような低い声。 目を閉じているため、内心は読めない。だけど、痛みに耐えるように、表情はゆがんでいた。 悠理は清四郎の手を、強く握りしめた。 あたたかい、大きな手。 いつでもこの手が、悠理を押し上げ、支えてくれる。 目を開けて欲しかった。 清四郎の心を、少しでも感じたかった。
「あたしは、死なないよ。ビルから落ちようが、飛行機が落ちようが」 ――――おまえは、大丈夫だ。 そう言ったのは、かつての清四郎。だから、悠理も自分を信じる事ができたのだ。
清四郎は目を開けた。 揺れる瞳が、悠理を見つめている。
悠理は微笑んだ。 「それに、もしあたしが死んでも…おまえが弔い合戦してくれるって、信じてる」 それは、本気だった。 剣菱も清四郎がいれば、大丈夫。聖吾やテロリストたちの顛末を見れば、悠理が殺されたあと、清四郎が彼らを放っておかないであろうことも明白だ。
だけど。 そう言った瞬間、悠理は清四郎に抱きしめられていた。 息が止まるほど、強い力で。
*****
胸が痛い。気を失ってしまいそうだった。 このまま、死んでもいいと思った――――清四郎に抱きしめられたまま。
「おまえが死んだら、僕も生きている意味がない…!」 清四郎の、搾り出すような声。 初めて、清四郎が内心を吐露していた。 衝動に負けたように。
信じられなかった。 だけど。 震える腕が、声が、悠理に告げている。 清四郎の心を。
――――悠理を、愛していると。
*****
初めて抱きしめられたのは、卒業式。 清四郎の腕の中で、大泣きしながら、悠理は子供時代に別れを告げた。
二度目は、雨の夜。 清四郎を愛していると、はっきり思い知らされた、あの夜。
恋は、破れたはずだった。 一生、清四郎とは距離を保って、背中合わせに生きてゆく覚悟だった。 片恋を思い出に変え、いつか笑って永過ぎた初恋を話せる日まで。
それなのに、三度目の抱擁が、すべてを壊す。
清四郎の瞳を見たくて、顔を上げた。 背に回っていた手が、悠理の髪をすき上げる。 悠理を見下ろした黒い瞳は、熱すぎる熱を含んでいた。
目眩のするほどの幸福感。 清四郎の心を、疑う余地はない。
ゆっくり近づいた唇は、悠理に触れる直前で止まった。 触れそうで触れない唇。吐息だけが絡む。 至近距離の瞳が揺れ、唇が音のない言葉を発した。
”悠理”
そう名を紡がれただけで、また意識が遠のきそうになる。 抱きしめられたままの体が震えた。
そして、それよりも激しく、心が震えた。 いつも、清四郎の腕の中で、悠理は生まれ変わる。 新しい自分が、胸の奥から悠理を衝き動かした。 愛されたいと泣きじゃくる女のかわりに、生まれたのは――――。
*****
どれくらい、抱き合っていたのか。 「…ごめん」 清四郎は悠理から身を離した。 ずっと、抑え続けていた想い。それを吐露してしまった自分に、気がついていた。 あれほど、自分を制してきたのに、すべてを壊してしまうところだった。 悠理を抱きしめ、想いをぶつけて。
悠理は下を向いて、唇を噛んでいた。 友情では説明がつかないほどの心情を漏らした清四郎に戸惑っているのか。 そう思い、清四郎は気まずい思いで、悠理から離れた。 これまで、慎重にそうしてきたように、心の距離を取ろうと模索する。 「悠理…僕は」
悠理は顔を上げた。 真っ直ぐな目が、清四郎を射抜く。 「あたしは、死なないよ、清四郎」 悠理はふわりと笑みを浮かべた。 「あたしが強いこと、知ってるだろう?」 その笑みに、魅入られながら。 悠理から、先ほどの清四郎の言葉をなかったことにしてくれたのだと、清四郎は安堵した。 「ええ、そうだな。おまえは強い」 清四郎も、悠理に微笑んだ。いつもの自分を取り戻す。 視界を巡らせば、屋上の惨状と、180度目に入る遥かな下界。 「おまえは、ここまで一人で来たんですね」 諦めず、挫けず、戦って。
女戦士は、誇らしげな笑みを浮かべた。 着けなおしたダイヤモンドのチョーカーに、光が反射する。
「あたしが強いのは、おまえが居てくれるからだよ」 悠理の言葉に、清四郎の息が止まった。 「おまえがそばに居てくれるから、あたしは強くなれる。あたしには、おまえが必要なんだ…清四郎」
届かなかった想いが、届いた瞬間だった。 それは、清四郎にとっては、永い恋の成就だった。
悠理は微笑んでいる。女神のように。 眩しい女。 触れることはなくても、彼女の一番近い位置に、これからも彼は在り続けられる。
幸せに――――それだけを、願っていた。 だから、清四郎は悠理の前から逃げ出した。 かつて、彼の手で彼女を閉じ込めようとしてしまったときに。 それなのに、あの頃思いもしなかったほど、悠理は自らの翼で羽ばたきだした。 清四郎が望んだのは、彼の手に収まらないほどの夢の女。 そうでなければ、隣にいることなどできはしなかったから。 そして、その夢は叶った。
愛して欲しい、などと身の程知らずな思いはいらない。 悠理が、こうして輝いているのだから。
彼女のそばにいたい――――そして、必要とされる存在になりたい。 それだけが、望みだった。
青い空が、目に染みた。 東京で一番、空に近い場所。 まるで、世界にふたりきりのような錯覚。
さきほど抱きしめた悠理の肌のぬくもりが、ゆっくりと手から消えてゆく。 それで、いいと思った。 胸を締め付けるのは、泣きたくなるほどの喜びだった。 手を伸ばせば届く、だけど永遠に縮まることのないこの距離で、ずっと彼女を見つめて生きてゆけるなら。
だけど、悠理は裸足の爪先を一歩、前に出した。 彼女の香りが届くほど、息がかかるほどの、近さ。 ふいにつめられた距離に、清四郎は戸惑う。 「悠理?」 「さっきわかったよ」 悠理は挑戦的に、清四郎を見上げた。 瞳が強い磁力を放つ。
「おまえは、あたしを愛してる」
悠理は女神の託宣のように、そう告げた。 清四郎の心を射抜くような強い視線で。
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