名前のない夢を見つけて

 

6.



抜けるような青い空。強風に流れる雲。
「おまえは、あたしを、愛してる」
そう言った悠理は、これまで見たこともないほど美しかった。
破れたドレスも煤だらけの姿も、悠理の内面から放射される力を、少しも損なわない。

清四郎は首を振った。
「いや・・・・・悠理」
だけど、その否定の言葉に力が入ってないことは、清四郎自身にもわかっていた。
悠理は清四郎を真っ直ぐな目で見つめてくる。
この目を前にして、嘘をつきとおせる人間なんかいない。

もう、清四郎の願いは叶った。
だから、耐えられる。
愚かで身のほど知らずな想いが、悠理に知られてしまっても。
悠理は、必要だといった――――清四郎がそばにいるから、強くなれると。
それだけで、十分だった。

「・・・おまえは、僕の夢なんだ」
「夢?」
自分の手に触れられなくなるほど美しく彼女が輝くのを、清四郎は待ち続けた。
今、目の前に立つ、圧倒的な存在。
彼自身が望んだ、夢の具現。

「僕はおまえにふさわしくない。おまえを愛する資格がないと、わかっている」
無理やり絞り出した声は、かすれていた。
だけど、かまわない。
もう、彼女に知られてしまったのだ。必死で押し隠してきた、彼の心は。
「僕はおまえをこの腕の中に閉じ込めようとしてしまう。そうして、おまえの自由を奪って、息を詰まらせる。いつかきっと、おまえを傷つける」
だから、もう虚勢を張る必要などはない。
もう彼の怖れも醜さも、彼女に知られてもかまわない。
「おまえには、幸せな恋をして欲しい。おまえとおまえの愛した男を、僕は一生、守ります」
それでも、そばにいることはできる。
彼の押し上げたこの存在を、影からでいい。支え続ける。
触れることはできなくても、彼女の近くに居られれば、それでいい。
命を懸けて、守り続ける。

悠理は目を見開いた。
それは、初めて清四郎が悠理に告げた言葉だった。
「あたしを・・・守る?」
唖然とした悠理の表情。

清四郎は苦笑した。
「いや。おまえが僕に守られているような女じゃないことは、わかってる」
それは、出会った頃から。泣き虫で小心で、お転婆な子供に過ぎなかったあの頃から。
「そういうところが、好きですよ」
笑顔のまま、告げることができた。
あの頃から、悠理の中にこの決して挫けない魂が眠っていることを、清四郎は気づいていた。
愛しているのは、清四郎のものにはならない悠理。自分のものにしてはいけない、鳥。

「あたしが、誰を愛そうと?」
「ええ。願わくば、おまえを高みに押し上げることのできる男と出会えることを。おまえが心から愛する男であれば、僕は決して邪魔はしません」
がんじがらめにしてしまいそうになる彼の愛から、彼女を解放してくれる男なら、誰でも。
影のように彼女を守ることができる位置に、留まれるならば。それで良かった。
それだけが、望みだった。

悠理は清四郎の真意を探るように、黙って瞳を見つめていた。
清四郎の言葉に、嘘はない。だから彼女を、真っ直ぐ見返すことができた。

悠理の目が細められた。
「・・・やっぱり、おまえは鼻持ちならないくらい傲慢な男だな」
吐き出すような口調で、悠理はつぶやいた。
「あたしの気持ちは?」
痛みに耐えるように、表情がゆがむ。
「たしかに、おまえはあたしを傷つけるよ・・・おまえだけが」
悠理は清四郎の胸座をつかんだ。
悠理の肩から上着が落ちる。
強い風の中で、むき出しの肩が震えていた。
激しい怒りに。

「あたしを、舐めるんじゃない!」

怒りに燃える悠理の瞳が、清四郎を焼いた。
「自由に息ができない?このあたしを、閉じ込める?」
悠理の口元に笑みが浮かぶ。不敵な笑み。
彼女は彼を、挑発的に睨みつけた。
「そんなこと、させやしない」

ぐ、と握り締めた清四郎の胸元を自分の方へ引き寄せる。
悠理は裸足の踵を上げた。それだけで、ぶつかりそうなほど顔が近くなる。
押しつけるだけの、くちづけ。
何年も、触れることの叶わなかった唇が、一瞬、触れた。
悠理からのそれは、怒りにまかせた噛みつくようなキス。
余韻もなく、唇は離れた。

呆然とする男を、女は獰猛な瞳で射抜く。
「おまえがあたしにふさわしくないって言うなら・・・ふさわしい男に、あたしがしてやる!」
ドンッ
清四郎の胸に衝撃が走る。悠理が頭をぶつけたのだ。
彼の胸に額を押しつけ、下を向いたまま。
悠理はうなるようにつぶやいた。

「愛してるよ、清四郎」

怒ったような悠理の言葉。
清四郎は耳を疑った。
強風が渦巻く。

天空の孤島。
空はどこまでも青く、近い。
雲が非現実的な速さで流れる。
足元のコンクリートはひび割れ、硝煙の匂いが鼻を刺す。

だけど、胸に頭を押し当てている悠理のぬくもりは、あまりにもリアルだった。

「あたしは、おまえだから・・・おまえがそばにいるから、強くなれる。おまえがいたから、あたしはここまでこれたんだ」
清四郎は黙って悠理の言葉を聞いていた。
「ほんとうに、あたしが他の男のものになってもかまわないのか?それでも、そばにいてくれるのか?」

悠理は答えない男に焦れた。
清四郎の愛が、女としての悠理に対してではないのなら。
それならば、また、悠理は空回りしているのだ。
だって、悠理はもう耐えられない。
清四郎が他の女を愛する姿など、想像しただけで。

悠理は意を決して顔を上げる。
清四郎は、愕然とした表情で悠理を見つめていた。
悠理の肩に力なく置かれた手が、わずかに震えている。
禁忌に、触れたように。
「清四郎・・・?」
見慣れたポーカーフェイスが、完全に外れていた。
もう逃れることができないところまで、悠理が清四郎を追いつめたのだ。

「……できると、思っていました」
他の男のものとなっても。悠理と彼女の愛するものを守ると、誓った言葉に嘘はなかったのだけど。
悠理の肩に置かれた清四郎の手に、力がこもった。

――――もう、逃げられない。

「だけど、いまはもう自信がない・・・・気が狂うかもしれません」
言葉通り、狂おしいほど熱を宿した瞳が、悠理を見つめていた。

――――逃げられないのは、どちらなのか。

清四郎の長い指が悠理の頬を滑り、血をぬぐう。赤く染まった指先が、唇をたどる。
「…触れてはいけないと、思っていた」
「どうして?」
澄んだ悠理の瞳に、清四郎は首を振った。
何年も何年も、押し殺してきた言葉。触れることのなかった唇。
縮めてはいけなかった距離。
それを、悠理は一瞬で踏み越えてしまった。

「僕は、おまえを愛しすぎているから」
輪郭をたどるように移動した指が、顎を持ち上げた。
「もう二度と、放せなくなるから」

彼女の前では、彼はただの恋する男だった。
いつでも、その想いに気づいたときから、ずっと。

「放さなくていい…離れたくない」
悠理は微笑んだ。
やっと、愛する男を手に入れたことを知って。

夢でも見たことはない――――こんな彼女の笑顔を。

青い空に、悠理の笑みが融けた。
言葉はもういらなかった。
ふたりは、自然に唇を合わせていた。
それは、長すぎた片恋の終止符。

溢れてしまった想いは、もう止まらない。
激情を、彼は隠さなかった。
くちづけは、深く激しく。
もう、手加減できない。彼女のすべてを奪いつくすまで。

抱きしめる腕が、悠理の腰を持ち上げる。
裸足の爪先が、地面を離れた。
呼吸をすべて独占しようとするように唇をむさぼりながら、彼は彼女を抱き上げる。

男の肩に白い腕が回された。
浮遊感に目眩を感じ、悠理は清四郎の頭を抱きしめた。
愛おしさに、飲み込まれながら。
すべて、奪われはしない。彼女があたえる。

名前のない空を見上げて、いつも求めつづけていた。
彼女を押し上げてくれる、たったひとつのこの風を。

名前のない星をかぞえて、いつも彼は迷っていた。
彼女の名を呼ぶことができずに。
あまりにも、愛し過ぎていたから。

唇が離れても、悠理の腰を抱き上げたまま、清四郎は離さなかった。
なおも高く、空にかかげるように、悠理を持ち上げる。
彼にとっては、軽すぎる彼女の体。
だけど、誰よりも大きく稀有な魂。

「おまえは、僕の夢だ」

ぐるりと回すと、悠理は声を上げた。
「空も、飛べそうだ」
強風に吹かれ髪を乱しながら、悠理は笑う。
かつてのような、無邪気な笑顔で。

振り仰げば、どこまでも広い空。
両手を空に伸ばした悠理を、清四郎は見上げた。
ほんとうに、このまま空に放りなげれば、飛んでいってしまいそうだ。
彼に繋がれたのではない。腕に収まるような、女じゃない。

「あたしの夢は・・・まだわからない」
なんだって、できる気がする。
だけど、彼女には彼が必要だった。
彼にとって、彼女が必要なのと同じくらい。

もう、一人で走らなくていい。
背を追わせるのではなく、支えるだけでなく。
隣に並んで、歩いてゆけばいい。

「一緒に、見つけよう」

それは、誓いだった。
なにももう怖くない。
名前のない夢だって、捕まえられる。
ふたり、一緒なら。



*****





『以上、まだ騒然とする現場からの中継でした』

人死にが出た凄惨な事件現場にもかかわらず、心なしか頬を染めている取材記者。
TV画面がスタジオに移る。
可憐と野梨子は強張っていた肩の力をやっと抜いた。

「あいつら・・・日本中に中継されてたって、絶対、気づいてないわよね・・・」
可憐がため息をつく。
野梨子は真っ赤に染まった頬に手をやった。
「でも、ほんとうに良かったですわ」
悠理の身を案じ、ふたりの無事を祈り。
野梨子の目にも可憐の目にも、涙が浮かんでいた。

気を失ったままの万作は、娘の無事も恋の成就も、いまだ知らない。



*****





ヘリの中で、魅録はシートにもたれ吐息をついた。
「見事な腕でした」
同僚に肩を叩かれる。
後部座席には意識のない兼六親子。
被害者なのか、加害者なのか。兼六聖吾の蒼白な顔色に、今更のように魅録の背に冷や汗が流れる。
悠理にもしものことがあれば、清四郎は間違いなく、この男を殺していた。
警察の前であろうと、TVカメラの前であろうと。
「俺に、おまえを逮捕させないでくれよな、親友・・・」
魅録は、残してきた屋上のふたりを想った。
爆発を見たときの清四郎の狼狽を知るのは、自分だけでいい。
すれ違うふたりの恋は、もう見たくなかった。
悠理を抱きしめるのは、今後、彼の役目ではない。
ため息をつき、魅録は煙草に火を点けた。
すぐに、「禁煙です」と同僚に奪われた。



*****





「ひぇぇぇ・・・衛星中継されてるんだってば」
パリのアパルトマン。
深夜ニュース映像の画面に、美童は整った顔を崩した。
ヘリからの望遠映像の中には、抱きあうふたりの映像。
「うわ、ばっちしキスシーンまで・・・清四郎、悠理を抱き上げてくるくる回してる場合じゃないよ」
彼らの恋を見守ってきた美童にしても、かなり気恥ずかしい映像だった。
全世界に向けて映し出された恋人達は、翌日から世界一有名なカップルとなる。

その後、各国テレビの”事件特集”のたびに取り上げられることになるその映像は、すでにもみ消すこともできず、ふたりを悩ませることになった。
数々の冒険や事件を乗り越えてきた彼らにしても、忘れがたい思い出だ。

てっぺんで、笑みを浮かべた愛するひととの誓いとともに。








END 2004.10.18


 


私の清×悠処女長編シリアスが、やっと完結です。毎朝、NHK連ドラのオープニングテーマ「名前のない空を見上げて」を聴きながら洗濯物干して出勤準備。頭の中では、こんな清×悠妄想を繰り広げておりました。
しかし、永遠に片思いで終わるはずだったシリーズが、なんとか大団円を迎えることができたのは、最初の三連作を読んで感想をくださった、皆様のおかげです。
特に、もっぷさま。すでに共著。完全合作シリーズと化し、設定から萌えシーンのアドバイスまで、最強の後押し。おかげで、ラストにはバカップル化達成(笑)。ほんとうに、ありがとうございました!



ちょっぴりおまけ

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