進路志望最終調査書。
教室では記入できず、倶楽部の机に置いたそれをまえに、僕はしばし思案していた。
前回、記入したときは、さんざん迷ったすえに親父の出身大学の医学部名を書いた。
しかし。
シュミレーションしてみる。
医学部を出て、大学病院でインターンとしてパシられ、菊正宗病院で姉にこき使われ。
どう考えても、楽しくない未来予想図だ。
―――清四郎は、経営者向きよ。
姉の言葉通り、やはりそちら方面か。
僕の代で菊正宗病院を日本一にする自信はむろんある。が、親父にパシられ、実権は姉ににぎられ。
どう考えても、おもしろくはない。
経営、といえばやはり多方面に興味のある僕にとって、剣菱は魅力的だ。
テーブルのうえに食べかすを散らかしている友人を、一瞥した。
満面の笑みを浮かべた顔ごと、スナック菓子の袋につっこんでいる。
ああもう、おまえは犬か。
僕のほうまで飛んできた食べかすを、顔をしかめて払い落とした。
この犬・・・もとい人間が、日本有数の剣菱財閥の御令嬢とは。
もっとも、剣菱会長とよく似た親子ではある。
剣菱万作氏は、僕のコンプレックスを刺激する、数少ない人物だ。
遊んでるようにしか見えない万作おじさんが、あの巨大コングロマリットをその野生の勘で動かしているのだから。
悠理との婚約騒動のときは、あまりにいきなり剣菱の実権をまかされ、さしもの僕もとまどった。
あのリベンジは、ぜひともしたい。
こんどは、うまくやってみせる。
*****「清四郎も、食う?」
僕の冷ややかな視線に気づいたのか、悠理が袋をさしだした。
食う、たって、もう粉しか残っていないじゃないか。
「いりません」
子供のように、顔も髪も粉だらけだ。いや、やっぱり犬か猫だな。
僕は悠理の髪から食べかすを払い、顔をハンカチでぬぐってやった。
悠理がオヤツをさしだしたというのは、かなりの好意をしめしているということなのだから、邪険にあつかうのも気が引ける。
さきほど野梨子がお茶とともに配っていたチョコが二つ、まだソーサーに残っていた。
「食べますか?」
聞くまでもない。
悠理はあんぐり口をあけた。
こら、内臓が見えそうなほど大口あけて、どうする。
ひとつチョコをほうりこんでやると、嬉しそうな笑顔を見せた。
「えへへ、悪いな清四郎」
ぱたぱたふる尻尾が、見えそうだ。
こいつも、可愛いところはあるんだ。
だけど、僕との婚約のときは、ものすごい拒否反応をしめしてくれた。
死んだほうがマシとわめかれ、決闘まで申し込まれたことは、記憶に新しい。
あんまりじゃないですか。
お人好しで人見知りしない悠理だったが、思えば、ここまでなつくまでには十年ちかくかかった。
あの経験は、僕にとっては、手ずから餌をあたえゆっくりと馴らした野生動物に、思いもかけずガブリとやられたようなもの。
じゃじゃ馬、というレベルを凌駕している悠理。
剣菱を手に入れるとはいっても、もうさすがにあの手は使えそうにない。
また雲海和尚に出てこられても、面倒だ。
――――厭なことを思いだしてしまった。
知り合って十五年、(男とは)浮いた噂ひとつなかった悠理が、はじめて頬を赤らめ求愛した相手は、あの和尚だった。
幽霊憑きとはいえ。
自分より強い男が好みの悠理の基準からすれば、武道の神様、人間国宝の雲海和尚は確かに高ポイントだ。
――――僕だって、悠理より強い。
婚約会見のときのぶすくれた顔と、目をハートマークにして和尚にすりすりしていた顔をくらべ、気分を害した。
あっちは夜這いで、こちらは決闘ですか。
悠理は二つ目のチョコを期待して、パカ、と僕のまえで口を開けて待っている。
「・・・あんなにいつもがっついているのに、虫歯ひとつないのは、さすがですね」
そしらぬふうを装い、悠理に見せつけるように二つ目のチョコは、自分の口に入れた。
婚約破棄したいまも、万作おじさんや豊作さんは剣菱に僕をかかわらせたがっている。
それは、たとえば時宗おじさんが難事件のときに僕の意見を聞きにくるのと、同じレベルだけど。
悠理とは関係なく、僕が積極的にかかわりたいと言えば、少なくとも喜んでくれるくらいには、実績も作った。
そろそろ将来のことを真剣に考えなければならないと、僕も思っている。
雇われ人になるなら、一から他の企業ではじめたり姉貴に牛耳られるより、剣菱のほうが自由にできそうだ。
起業するという選択肢もあるが、剣菱でする新規事業のフィールドの広さと大きさに及ぶべくもない。
しかし。
「意地悪。チョコ好きじゃないくせにー」
ふくれっつらの悠理は、ジト目で僕をにらんでいる。
もう、おまえと結婚しようなんて無謀な考えはないから、そんなににらむな。
天井知らずの驚異的馬鹿なうえ、食欲しか存在しない悠理。
がさつでトラブルメーカーのこいつに、嫁の貰い手があるはずもない。
が。
あのおばさんが、一人娘が嫁きおくれるのを、黙ってみているだろうか。
花嫁の母、可愛い孫。
悠理も顔だけは美形だから、ウエディングドレスがよく似合うだろう。
あの無敵のおばさんが、それをあきらめるとは思えなかった。
おばさんが世界中からあつめるだろう花婿候補をシュミレートしてみる。
悠理より強くて、剣菱を支えられる男。
考えると、眉根にしわが寄ってきた。
僕が剣菱に入っても、悠理の夫がその上に立ったりすれば最悪の事態だ。
悠理にそうそう言い寄る男はいないだろうと、安心してはいけないかもしれない。
とんでもない馬鹿だが、無邪気で可愛いといえなくもない。
人外のバイタリティと不屈の意思には、脱帽させられる。
愛嬌ある表情はいつまで見ていても見飽きることはない。
涙もろくて、情に厚い悠理。つきあいが長い僕でも、いたいけな瞳に、胸をつかれることもある。
いや、僕は悠理なんて女と思ったこともないが――――
――――どこかに物好きな男がいないとも限らないじゃないか。
剣菱を舞台に、世界をまたに駆け活躍する僕の未来が、どこぞの悪趣味男にじゃまされる事態は、避けたい。
気づけば、さっきまで僕の隣にいた悠理の姿が消えていた。
少々焦って、姿をさがす。
いた。
悠理は部室のすみで工具をいじっている魅録の横で、尻尾をふっていた。(ように見えた)
工具で手の汚れている魅録は、コーヒーにもチョコにもまだ手をつけていなかったようだ。
魅録のあきれたような表情がすべてを物語っている。
僕に背を向けている悠理の顔は見えなかったが、また、池の鯉のように口をパックリ開けているのが容易に想像できた。
だから、内臓まで見せるんじゃないって。
たったひとつの希望は、悠理の抵抗だ。
僕のときと同じく、悠理は結婚を拒否して暴れまわるだろう。
そして、同じく決闘だ。
あいつの和尚仕込の身のこなしはほんとうに凄い。
悠理はどんな男にも捉まえられないだろう。
僕でさえ、無理だったのだから。
でももし万が一、その悪趣味男(決定)が、悠理よりもほんとうに強かったら。
それならば、あのときの和尚のように、こんどは僕が代わりに出てやってもいい。
そうだ、そうしよう。
「ふ・・・」
自分の名案に、僕はほくそ笑んだ。
いまはまだ師匠にはかなわないものの、おばさんがしびれを切らして男を差し向ける(予測)悠理の適齢期は、五年、十年後だ。
僕は人間国宝雲海和尚の一番弟子なのだ。
僕より強い男を探すなんて、無理と言うものです、百合子おばさん!
身の程知らずの悪趣味男を、ギッタンギッタンにちぎって捨てて、二度と悠理に近寄らせない。
完璧だ。
「・・・ふふふ、はっはっは!」
高らかに笑ってみたものの、一番弟子、という言葉に、ある人物を連想した。
高揚していた気分が、引く。
たしかに、あいつならば僕と同等か、それ以上に強いかも知れない。
悠理以外で、僕の高いプライドを粉々に粉砕してくれた、唯一の人物。
しかも、あいつは悠理に興味をもっていた。
頭も良い。かなり。
「いや、しかし・・・」
落ち着け、自分! あいつは、モルダビアは、女じゃないか!
――――ほんとうか?
誰かたしかめた者がいるのだろうか。アレがほんとうに女かどうか。
「美童!」
思わず、美童に救いをもとめた。
美童ならば男女を見誤るはずはない。モルダビアとは浅からぬ因縁もある。
「な、なに?」
可憐と雑誌をのぞきこんでいた美童は、僕のするどい声に目をまるくしている。
「・・・いや、いい」
美童の(百合子おばさん好みにちがいない)ハンサムな顔を見て、僕は我にかえった。
よく考えれば、いくらおばさんとはいえ――――いやおばさんだからこそ、モルダビアを選ぶわけはない。
大丈夫だ。やつのことは、忘れよう。
だいいち、悠理が女に惚れるはずはないじゃないか。
ほとんど性別不明の洗濯板とはいえ、そっちの趣味はないはずだ。
あれば、この聖プレジデント学園は魅惑の花園、悠理の巨大ハーレムが築かれているだろう。
悠理の惚れる男――――そこで連想したのは、悠理の部屋に張られたポスターの顔だった。
たしかに、あの男なら、条件にぴったりだった。かなり年上だが。
いや、大丈夫。
いかに剣菱家だとて、現職カリフォルニア州知事を離婚させてまで悠理の夫にはしないだろう。
あそこの嫁さんはたしかケネディ一族の出だし。
ただのハリウッド俳優でなくなってくれて、助かった。
やはり、完璧。
僕の野望を阻む者はない。
悠理は――――もとい、剣菱は近い将来、僕のものとなる!
***** 僕は決着した思考に満足し、初志にもどることにした。
机のうえの、志望調査票だ。
HBの鉛筆を手に、しばし考える。
さて。
経済経営学に関しては、理論はすでに押さえているし、実践に勝るものはない。
剣菱に入って必要とされるのは、それよりも国際政治学だろうか。
万作おじさんのように、国際的人脈を広げるほうが大事だろう。
すると、やはりケンブリッジやオックスフォード、ハーバードあたりかな。
僕が鉛筆をかまえると、紙の上に影が差した。
「ん?」
顔をあげると、いつの間にか仲間たち全員に取り囲まれていた。
「なんですか?」
「ナンデスカって」
「突然、笑い出したり、百面相してると思えば」
「志望校調査票かぁ」
「清四郎でも、将来のことで悩むんだ」
「あら、医学部に決めてたのじゃないんですの」
この閑人どもめ。
「ま、親の敷いたレールを行くタマじゃねーよな、考えてみりゃ」
手を拭きながら、魅録が笑った。
「あ、その気持ちわかる!」
悠理が、ぴょんと跳ねた。
――――あたいの人生は、あたいのもんだ!
かつてそう叫んだ悠理の声が、頭の中に響きわたった。
そうだ。いつだって悠理は、そう主張していたじゃないか。
悠理はそれでいい。
一度、自分勝手に縛ろうとした僕が言うのもなんだけど。
悠理は自由奔放なのがいいところ。
そんなところも、好き――――もとい、自立心旺盛なのは良いことだ。
しかし。
そんなことはあるはずもないが。
どんな天変地異より確率が低いとはいえ。
万が一、憶が一、兆が一ではあっても――――悠理が、真剣に、恋をしたら?
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
僕が剣菱に入ることで、悠理の夫に経営能力が問われなくなったら。
なにより尊重されるのは、悠理の意思だ。
娘に甘いあの両親は、好きな相手と結婚するという悠理を、祝福するだろう。
それが、どんな相手であっても。
どうする、どうする、どうする。
悠理は糸の切れた凧だ。とても縛ることなんてできはしない。
そんなこと、僕はいやっていうぐらい知っている。
今日にも悠理は運命の相手と出会ってしまうかもしれない。
いや、明日かも。
落ち着け! 考えるんだ、菊正宗清四郎!
不快な汗が背中をつたった。
僕の頭脳は、これ以上はないくらい高速回転していた。
あらゆる事態を想定する。
「・・・ふぅ」
僕は小さくため息をついた。
結論がでた。
僕の計算では九割の確率で、万が一、悠理が恋に落ちても、そのことに自分では気づかないと出た。
あいつは、恋愛オンチだ。
好きな男ができても、それが恋だとは、気づくまい。
またぞろなにかの霊に憑依されたとでも僕が説明してやれば、簡単に信じるだろう。
もしも、相手の男が悠理の気持ちに気づいたら。
その悪趣味男が悠理に告げるまえに、徹底的に、完膚なきまでに、あらゆる手段を駆使して、阻止してみせる。
僕は完璧主義者なのだ。
「――――。」
留学なんぞしている場合ではない。
危機管理能力は、経営者として必須だ。
悠理を縛ることはできなくても、害虫駆除はせねばなるまい。
そのために、僕のとるべき選択肢は、ただひとつだ。
僕はガタンと立ち上がった。
「悠理!」
「・・・ひっ」
なんだ、その青い顔。悪いものでも食ったのか?
「おまえ、大学は何学部にするんだ?」
「・・・・・・・・・・・。」
悠理だけでなく、なにやら友人たちは唖然とした表情で僕を見ていた。
「フム!」
答えない悠理にかまわず、気合を入れ直してふたたび座った。
サラサラと鉛筆を走らせる。
僕の迷いは完全に払拭された。
決意も新たに、未来予想図に思いをはせる。
とりあえず、来春もこのメンバーと迎えることになりそうだ。
悠理が入れる大学は、聖プレジデントしかありえないからな。
2004.7.11