前編
”つまづきながら”って、口で言うほど、簡単じゃない。
本社ビルを出ようとしたところで、小雨が降りだした。
車を先に帰らせたことを、あたしは少しだけ後悔する。
だけど、傘を用意しましょうと言ってくれた警備員に、手を振って断った。
たまには、小雨の中を濡れて歩くのも、悪くない。
時間は深夜一時。もう終電もない。
都心とはいえ、この時間になれば人通りは少ない。
ふりかえって見あげた剣菱商事ビルにはまだいくつも灯りがついていたが。
少しだけ、罪悪感。
そして、解放感。
しばらく、街もろくに歩いていなかったことを思い出す。
企業として情報漏洩の防止と危機管理は必要だが、大げさなセキュリティは、ほんと、うっとうしい。
あたし個人に関するセキュリティは、我がままを言ってかなり緩和してもらったものの。
車道をヘッドライトが通り過ぎた。
霧雨が、アスファルト上に光のイリュージョンを作ってる。
今日はこのまま、歩いて帰ろう。
遅くなっても、構わない。どうせ、明日の仕事はキャンセルになった。
思えば、あたしはいい気になっていたのだ。
剣菱の後継者として、会長の名代で様々な決定を下す立場になってからの、この数ヶ月。
やることなすこと、当たり続けた。周囲の危惧は賞賛に、冷笑は憧憬に変わってゆくことが、
肌で感じられた。
そして、それよりもあたしを酔わせたのは、大きな権力を行使する全能感だった。
あたしの前には、だれもいない。決定はあたしが下す。自由に疾走する感覚に、興奮していた。
だけど、それは父ちゃんの兄ちゃんの、そして、あいつの敷いたレールの上での自由だったのだ。
清四郎の反対を押し切って推し進めたプロジェクトが失敗したのは、必然だった。
あいつは、まだ早い、と言ったのに。
心血をそそいだ、というような仕事ではなかった。あたしにとっては、ちょっとした勇み足。
けれど、あたしの失敗は、莫大な損害と多大な迷惑を生じさせる。
ひとの人生さえ、左右する。
あたしがショックだったのは、初めての判断ミスではない。
責任の重さを認識していなかった、自分自身への幻滅だ。
”あたしは、大丈夫だ”
雨を吸い込んだスーツの胸元を押さえる。
立ち直りが早いのも、あたしの長所。
この間もそうだった。
ヤケ酒飲んで、二日酔いで出社したあの日。
あれは、清四郎に恋人がいると聞いた日のこと。
清四郎が公式な席に恋人同伴であらわれたと聞きつけたのは、あたしの秘書の繁桝(しげます)ちゃん。
清四郎はパートナーが必要な場には、ほとんど母ちゃんか取引先の女性をともなう。
けれどその日はじめて、個人的に親しい女性を連れて行った。
社内にはゲイ疑惑さえあった清四郎のこの行動は、瞬く間にOLネットワークで事件扱い。
「私は副会長と恋人同士なのだと、思ってました。婚約もしてらしたんでしょう」
そう言った繁桝ちゃんには、笑いながら答えることができた。
「バッカ、あいつとは腐れ縁なだけだよ。ありえねぇって」
落ち込みは、夜にきた。
清四郎に恋人ができようと、結婚しようと、あたしたちの関係はかわらない。
あいつが、寿退社するはずもなし。
なんで落ち込んでいるのか、自分でも理解不能だ。
あたしが走り続けるかぎり、清四郎は支えてくれる――――いつの間にか、そう思いはじめていた自分に、
あたしはその夜、気がついた。
そして、それは思い上がりなんかじゃなく。
可愛い嫁さんと子供ができても、あたしの背中を押す手は、変わりはしない。
ずっと欲しかったものを、すでにあたしは手に入れている。
”そばにいて欲しい”
そのひとことが、口にできなかった長い歳月。
いつの間にか、あたしのその望みは、叶っていたのに。
どうしてだか、涙があふれた。
嬉しくて、なぜだか、悲しくて。
いくら飲んでも、酒に酔うことはできなかった。
立ち直りが早いのは、あたしの長所。
しかし、酔えない酒が、なぜか二日目に堪えた。
追い討ちのように待っていたのは、取引先のレセプションだった。
昔は大好きだったパーティも、社会に出てからは楽しさ半減。
あたしは主賓で、乾杯の音頭をとらなければならなかった。
短いスピーチのあとグラスを壇上から掲げたとき、ごったがえす広い会場内で、
あたしは清四郎を見つけてしまった。
そういえば、この取引先の主要部署を束ねている黒竜氏はまだ三十代のやり手で、清四郎とも親しかった。
あいつがこの場にいても、おかしくはない。
そして、別に同伴の必要はない席なのに、清四郎は女性を伴っていた。
連日のパーティ、お疲れ様。
あたしは笑顔で、乾杯を告げた。
「悠理さん、菊正宗クンが噂の女性とあらわれましたね」
言わずもがなのことをわざわざあたしに告げにきたのは、取引相手の黒竜だ。
昨日の今日で、どうしてこいつまで知ってるのかと怪訝に思った。
「私も昨日の米大使館のパーティに、同席してたんですよ」
そうですか、と無理に笑みを作る。
切れる男だと、好感をもっていたこの男が、いまは不快だった。
渡されたシャンペンのせいであることはわかっていた。
せっかくの豪華な料理を前にあたしの皿が空なのは、二日酔いのせいなのだから。
清四郎の隣で、咲き誇る華のような彼女に、視線を流す。
懇意の人々に紹介するときの、清四郎の優しい笑みが目に入った。
清四郎と並んで見劣りしない、ゴージャスな美貌。
質の良いドレスに覆われた艶かしいプロポーション。
あたしの視線に気づいたのか、彼女がこちらに顔を向けた。
彼女の美しい面が、華のようにほころんだ。
それまでは、それでも営業用スマイルだったのだとわかる、心からの笑み。
あたたかな、いたずらげな瞳が、ばちんと片方閉じられた。
あたしも、シャンペンを掲げてウインク。
「悠理さん、ご存知だったんですか?」
あたしの隣で、黒竜が不思議そうな顔をした。
まだ居たのかこの男、と思いつつ笑顔でうなずく。
笑みは自然に浮かんでいた。
なにしろ、立ち直りは早いのだ。
「悠理さん、僕もすっかり騙されていましたよ。
彼があなたの婚約者だという風聞を信じてましたからね」
黒竜が、なにやら話し掛けてくる。いつのまにか一人称が”私”から”僕”に代わっていた。
この男、話し方が清四郎に似ているのだと、その時思った。
少し皮肉気な、こちらを挑発するかのような視線も。
「あいつ・・・菊正宗は、学生時代からの友人なんです」
黒竜に答えながらも、あたしは遠くの彼女に微笑を送っていた。
彼女が清四郎の腕に手をやり、こちらを指差してなにか言っている。
清四郎は彼女にうながされ、あたしの方を見た。
「悠理さん?」
「あ、なんです?」
喋りつづけていたらしい黒竜に、あわてて向き直る。
「いえ、彼をライバルだと思っていたのは、間違いだったなと」
取引先とはいえ、商売敵。会社の規模は違えど、清四郎とは似たような役職につく男は、
ライバルといえないこともないだろう。
あの野郎、なにか失態でもしやがったのか?と、首を傾げたら、黒竜にいきなり手を握られた。
「悠理さん。あなたの地位や立場からすれば、僕など虫けら同然でしょうが、僕は初めて会ったときから、
あなたに夢中でした。いえ、地位など関係はない。あなたの眩しさのまえでは、
僕など取るに足らない男です」
唖然とするあたしにかまわず、男は酔ったような顔で続ける。
「せめて、崇拝者としての僕を認めていただけませんか。僕はいつか、
あなたにふさわしい男になってみせます・・・!」
熱をはらんだ熱い瞳。
手を取ったまま跪かんばかりの黒竜の迫力に、あたしはすっかり呑まれてしまった。
「ええと」
お気持ちはうれしいのですが、と営業スマイルで返さなければ、と思いつつ。
どうも真剣らしい男の言葉に、ほんの少し感動していた。
公衆の面前でこれだけやれるこの男、清四郎似だと思っていたが、どっこい完全、美童似だ。
「失礼」
そのとき、聞きなれた声が、あたしを現実にもどした。
清四郎だ。
「こちらの彼女が、あなたに紹介して欲しいと言うので。いいでしょうか」
あたしはあわてて手をふりはらい、背中に回した。
黒竜もまだ目元を赤く染めたまま、取り繕った笑みを清四郎とその連れに向ける。
「ああ、菊正宗くん。そちらの美しい女性は、昨日もお見掛けしましたね」
「紹介が遅れて申し訳ありませんでした。昨日は堅苦しい席だったですからね」
にっこり微笑む清四郎のいつも通りの横顔に、あたしはなぜか顔が赤らんでくる。
「黄桜可憐と申します。ジュエリーアキという宝石店を銀座で開いておりますの。
ぜひ、なにかの折りにお寄りになってください」
可憐は優雅に一礼し、黒竜に名刺を渡した。
あたしは清四郎から視線をひきはがし、可憐の肩を抱いた。
「彼女はあたしの親友なんです。あたしからも、よろしくお願いします!」
照れ隠しに歯を見せて笑ったら、黒竜は少し驚いたような顔をした。
そのあと、目を輝かせた可憐には「結構いい男じゃな〜い、悠理モテモテねぇ」とからかわれた。
「彼はなかなかできる男ですよ」清四郎もうなずいている。
ううむ、やっぱり見られてたか。
「なかなかお似合いだったわよ。口説かれてたんでしょ」
口元を押さえニヤニヤ笑う可憐は、自分と清四郎のツーショットがどう見られていたのか、
気づいていないらしい。
それはそうだろう。獲物を狙うハンターのごとく営業活動に懸命だったのだろうから。
玉の輿狙いに命をかけていた可憐は、いまでは店に夢中だ。
「どっかにいい男いない〜?あたしも早く結婚したい〜!」は、あいかわらずの口癖だが。
「いいわよね、悠理。あんたに言い寄ってくる男は、上客・・・じゃなくって、上玉一流揃いじゃない?」
可憐の言葉に笑って首をふった。
「あたし、そんなモテねーって」
それは、本当だった。
剣菱の後継者として内外に認知されるまでは降るようにあった縁談は、
いまではほとんどなくなっていた。
社交辞令以外で、今日のように面と向かって女扱いされること自体、めずらしい。
「いまの悠理に言い寄ろうなんて男は、よほど己を知らない馬鹿か、
身の程知らずの野心家か・・・自分に自信のある男だな」
清四郎は少し眉をあげ、黒竜氏は後者ですよ、と付け加えた。
清四郎の言葉は、あたしを認めてくれているようで。それでいて、突き放すような冷たさがあった。
馬鹿だな、とあたしは胸のうちで自分を嘲う。
可憐の営業活動に協力している清四郎を見て、はっきり悟った。
清四郎にとっては、あたしも可憐も同じなのだ。
大切な、親友。そしてそれは、あたしも同じはず。
なにも、期待していたわけじゃない。
そばにいてくれる清四郎の心を、誤解していたわけじゃない。
素直に喜んでいいはずだ。
清四郎は、自ら望んで、ここにいる。
今度はほんとうに、清四郎にとって大切な存在があらわれたとしても、きっとあたしたちはなにも変わらない。
ずっと、欲しかったあの手は、あたしの背中を押してくれるはず。
あたしが前を見ているかぎり。
うれしいはずなのに、淋しかった。
一番近くにいる親友が、一番遠くに感じられた。
あたしは独りなのだと、思った。
霧雨が、スーツを通し肌にふれた。
あたしは歩く速度を速める。
これくらいで風邪などひくようなヤワな体ではないものの、もしもということもある。
体調が良くないと、気が滅入ってしまう。
いや、あたしの場合、もしかして反対かも。気持ちがくじけそうになると、体調が悪くなる。
あのときも、そうだった。
初めての、一人で挑んだ役員会。
日頃は、生理なんてあるのか、と美童などには言われていたあたしが、腹痛に悩まされた。
「そばに、いてよ」
以前なら、絶対に口にできなかった言葉を、だから清四郎に言ってしまった。
”おまえは、大丈夫だ”
あの言葉だけを支えに、あたしは走ってきた。
だけど。
いまのあたしは、もう知っている。ふりかえらなくても、清四郎が見守ってくれていることを。
いつのまにか、あたしが願ったたったひとつのものは、いつも隣にあった。
清四郎は、あたしの甘えを、許してくれた。
じっと、手を握っていてくれた。あの肩を貸してくれた。
清四郎も、わかっていたのだろうか。
あたしにはもう、魔法の呪文はいらなかった。
弱気は、ほんの一時だけ。もう、あたしは一人で立つことができる。
そう信じることで、顔をあげることができる。
それは、清四郎がくれた勇気だったのだけど。
もう、あたしは気づきはじめていた。
ずっと、あたしがほんとうに欲しかったものは・・・・。
濡れたアスファルトに、ライトが煌く。
黒い車体が近づいてきて、あたしの横で止まった。
ライトの加減で濃い緑にも見えるその車は、見慣れたガラムの古い型。
静かに窓が開く。
「こんな夜遅く、酔狂な人間がいると思えば。驚かせないでください、悠理」
「ちょっと、歩きたかったんだ」
あたしは、清四郎に微笑した。
「なにも雨の中。もう十分でしょう、乗って下さい」
スーツのネクタイをゆるめた清四郎は、憮然とした表情で、ドアを開けた。
あたしは素直に助手席に乗り込む。
「いま、仕事終わったんだ?」
「ええ」
まさか、警備員からでも聞いて、あたしを探していたわけじゃないだろう。
きっと、ただの偶然。
少し落ち込んでいたあたしには、こんなちょっとした偶然がうれしかった。
雨、とはいっても霧雨。シートが濡れるほど濡れ鼠ではない。
だけど清四郎はヒーターを入れた。
気づかないうちに冷たくなっていた体に、ぬくもりが戻った。
ゆっくりと、ワイパーがフロントガラスを横切る。
深夜の道路は、オレンジ色の星の降る、天の川を渡るよう。
対向車のライトに照らされた清四郎の横顔を、あたしは見つめた。
清四郎はカーオーディオに凝るタイプではない。
静かな車内に聞こえるのは、エンジンとワイパーの音だけ。
まるで、世界にふたりっきりのようだと――――思った。
「で?剣菱邸まででいいですか、お客さん。深夜料金は割増しですよ」
清四郎はまだしかめっつらをしたまま、あたしを見もせず言った。
「運転手さん、今夜はまっすぐ帰りたくない気分なんだ。イケてる店、紹介してくんない?」
清四郎の口元に、やっと笑みが浮かんだ。
「じゃあ、飲みにいきますか」
清四郎は、当然あたしの失敗を知っている。明日の仕事は、ふたりそろってキャンセルだもんな。
「どうせ、明日は久しぶりに部屋でゆっくりしようと思ってましたから。酒くらいつきあいますよ」
清四郎は剣菱邸に部屋はあるものの、普段は都心のマンションで暮らしている。
会長副会長との同居では、公私の区別がつかなくなる、との理由だった。
たしかに、剣菱に居るときの清四郎は、仕事ばかりしている。
考えてみれば、友人だったはずのあたしたちは、いまではほとんどオフィシャルな関係だ。
あたしは、深くシートに座り直した。
ため息をつく。
「・・・ごめんな」
清四郎は、無言で運転に集中している。
「やれると、思ったんだ。あたし、思い上がってたんだな」
信号につかまった。
清四郎はあたしに顔を向ける。
「悠理、おまえの判断は、間違ってたわけじゃない。ただ、時機尚早だったんだ。だけど、
おまえがリスクを恐れず強行したことで、頭の固い奴等も今後考えを変えるかもしれない」
清四郎は、あたしの頭をくしゃくしゃと、かき混ぜた。
「リスクを恐れるな。失敗を恐れるな」
まるで、昔のようなその仕草に、涙が出そうになった。
あたしは、なにを恐れているのだろう。
決断には、リスクがつきものだ。
失うのが、金や信用ならば、死にもの狂いで取り戻す。
失えないものは、なんだ?
あたしは、どうしてがむしゃらに走っているのか。なにを、目指して?
――――なにを、望んで?
もう、その答えは、心の奥底ではわかっているような気がした。
”リスクを恐れるな。”
清四郎の言葉が、あたしの背中を押した。
信号が青に変わる。
シフトチェンジしようとした清四郎の左手に、あたしは右手を重ねた。
「清四郎」
深夜の道路。発進が遅れたが、後続車はない。
「あたし・・・おまえの部屋に、行きたい」
清四郎は、わずかに目を見開く。
「・・・連れていって」
声が、ふるえた。
清四郎の大きな手に重ねた手も、ふるえている。
時間が止まってしまえばいいと、思った。
ほんとうは、このままずっと。
静かな雨の音に包まれ。世界にふたりだけのような、この空間。
清四郎の黒い瞳に映ったあたしが、泣きそうな顔をしていた。
いまは、それがあたしのすべてだった。
清四郎の目に映ったあたしだけが、ほんとうのあたしだった。
――――おそれないなんて、無理。
怖くて、怖くて、たまらなかった。
なにも言わない清四郎が。
――――迷わないなんて、無理。
清四郎は、アクセルを踏んだ。
重ねた手はそのままに、ハンドルが切られた。
清四郎の迷いが、重ねた手から、伝わってきた。
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