すき


2


 

 

駅のベンチで、何台目かの電車を見送る。

まだ、降車する人々の中に彼女の姿はない。

改札の横には駅員が消し忘れた伝言板があったが、清四郎はそちらには顔を向けなかった。

彼は、待ち人とはなんの約束もしていなかったから。

 

もう寒くなる季節だというのに、このところ晴れやかな日が続いている。

砂埃のプラットホーム。もう二週間、雨が降っていない。

誰かが、水をやっているのか。線路脇では、夏の残照のひまわりの花が、健気な首を伸ばし太陽を見つめていた。

真夏の大輪のそれよりも若干か細くはあっても、目を奪われるその黄色い花弁は、彼女を思わせた。

野に咲く花ほどたくましくはないけれど、そうありたいと陽に顔を向ける健気さは、たしかに温室の花ではない。

冷たくなりはじめた風に揺れるその姿に、清四郎は笑みを浮かべていた。

 

まだ着いていない彼女の姿がひまわりの向こうに見えた気がした。

胸が熱くなる。

あれほどずっとそばにいたのに、これまで気づくことのできなかった感情。

特別な存在。

ようやく、清四郎は気づき始めていた。

恋、という言葉の意味を。

 

暗記してしまった時刻表。

駅の時計で確認した時間は、そろそろ夕方であることを示していたが、まだ空は秋の高い青空が広がっている。

昨夜、観覧車からこの空に上がった花火を、野梨子と二人で見た。

万作ランドでは晴れた休日の夜に必ずおこなわれる打ち上げ花火。

何度も仲間たちと見たはずのそれが、昨夜は違って見えた。

始終、野梨子は戸惑ったような笑みを浮かべていた。

清四郎が浮かれてふざけてばかりいたからだろう。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

「おまえは、世間知らずだから」

清四郎がそう言ったせいでもないだろう。悠理がアルバイトをしたいと言い出したのは。

「可憐にさ、誕生日にケーキ焼いてもらったろう。あたいもあいつの誕生日にはなんかやりたいんだけどさ。あたい、なんにも作れないし」

自由になるお金は、桁違い。たぶん悠理はアルバイトどころか、将来、普通に仕事に就く必要はない。

けれど、剣菱夫妻の教育方針か、悠理は妙に庶民的なところがあった。

大判振る舞いで散財することもしばしばだが、心をこめたプレゼントは自分で稼いだお金で、という常識を悠理は持っていた。

「剣菱家の御令嬢だとわかればちゃんとしたところであればあるほど、雇ってくれないでしょうね。それに、ヘタなところで働いたり問題を起こしたりすれば、スキャンダルになっちゃいますよ」

「う〜ん・・・」

それ以前に、悠理がきちんとおとなしく人の下で働く事ができるか、疑問だった。

意地悪く指摘すると、悠理はふくれっ面。

「世間知らずは、言われなくてもわかってらい。だから、バイトしたいんだろ!」

いつまでも子供のようだと思っていただけに、驚かされた。

「さすがですね。感心しました」

そう告げると、意外そうな顔をされた。

「おまえってさー、なんでもできるヤツだから、周りのこと馬鹿にしてるって思ってたよ」

「それは随分ですな」

ムッとした。

倶楽部の仲間のことは、本当に尊敬している。

美童や可憐の恋愛に対する情熱とパワー。

魅録の専門的な知識と顔の広さ、懐の広さ。

野梨子の正義感と屹然とした強さ。

そして、悠理の妥協と諦めを知らない不屈の勇気。

 

「そういうところ、好きですよ」

清四郎の言葉に、悠理は驚いた顔をした。

嫌味とでもとったのかもしれない。

 

だけど、それは本心だった。

彼女の、真っ直ぐで純真な魂が眩しかった。

そして、いつも前を向いて顔を上げる勇気には驚かされた。

未熟さと小心さで震え泣くこともあるのに、彼女はけっして挫けない。

天真爛漫で無邪気なのは、傷つくことを知らないからではない。

温室の花のように守られて来たからではない。

 

誰もいないホームに、清四郎はまだ着いていない悠理の姿を見つめていた。

初めての恋に、高揚する心。

冷静で理性的だと思っていた自分が、あっけなく崩れた。

こんなところで待ち伏せするなど、まるで愚かな男そのものだ。

だけど一方で、自分のこの想いを口にはできないとわかっていた。

面と向かって彼女に想いを告げても、怒らせてしまうだけだろう。

それどころか、軽蔑されるかもしれない。

野梨子と同じく、悠理も男にそんな目で見られることに嫌悪感を感じることはわかっている。

まして、これまで友人として近くに居た清四郎に告白されても、戸惑うばかりだろう。

裏切られたと感じるかもしれない。

 

「悠理ってば、何を考えているのかしら。こんなもの渡されても」

昨日、野梨子は悠理から手渡された風船を、困った顔でにらみつけていた。

ピンク色でハート型。たしかにカップルでもない二人が持って歩くには躊躇する代物だ。

「なにも考えてないんでしょうな、あいつのことだから」

清四郎は苦笑した。あの調子では、老人達や男同士の客にも渡しているに違いない。

風船は、観覧車に乗り込む前に子供に進呈した。

 

悠理がバイトをはじめて、本当は少し淋しかったのも事実。

彼女にはいつまでも世間知らずなまま、手の中にいて欲しいという思いがどこかにあった。

だけど、人を喜ばせ自分も楽しみ、懸命に働いている彼女を見て。

ちっぽけな独占欲が愚かに思えた。

清四郎が浮かれていたのは、そんな自分がたまらなく恥ずかしかったから。

そして、帰りたがる野梨子を強引に観覧車に乗せたのも、少しでも彼女のそばに居たかったからだと自覚している。

夜空に上がる同じ花火を、悠理もまた見ているのだと思うだけで、嬉しかった。

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

秋のつるべ落ちの夕暮れが空を染める。

早番の悠理のバイトが終わる時間はとうに過ぎた。

東京湾にかかる剣菱の引いたモノレールから、JRに乗り換え、一駅。

乗り換えて電車で帰宅するにしろ、車で迎えに来てもらうにしろ、悠理はこの駅で降りるはずだ。

そして、清四郎がここにいることを偶然と装う事もできる駅。

バイトの最終日である今日、悠理を迎えたかった。

そして、この駅からはランドで上がった花火が見える。

あの花火をもう一度悠理と見たかった。

 

電車がホームに入ってきた。

ドアが開く。

一番に降車した乗客の中に、悠理の姿はあった。

バイト仲間らしい、少女と少年数人と一緒だ。

中の一人の少年が、しきりに悠理になにか話しかけている。

しかし、悠理はすぐにベンチに座る清四郎に気づいた。

「・・・せいしろ?」

ポカンとした顔。

 

清四郎は立ち上がった。

偶然通りかかった、とか、花火を見たい、とか、言おうと思っていた言葉は口からは出なかった。

 

好きだ、と告げる気はない。今はまだ。

それなのに、口を開けば想いがこぼれて溢れ出してしまいそうだった。

友達のままでは終われない。

たとえ、傷つけることになっても、想いを伝えたい。

そんな自分勝手で焼けつくような衝動が、一瞬、清四郎を襲った。

 

知らない仲間たちに囲まれてこちらを呆然と見ている悠理。

昨夜は気がつかなかったが、少し痩せたように見える。

細いひまわりのような姿に、清四郎は目を細めた。

自分の中の衝動を抑える。

 

「・・・お疲れ様、悠理」

清四郎はぎこちなく微笑みかけた。

本当に疲れているんだろう。悠理はぼんやりした表情でふらふらして見える。

軽快な足取りで飛んでくる、いつもの子犬のような姿はない。

 

清四郎が会釈すると、バイト仲間たちは顔を見合わせ、挨拶を返した。

そして、悠理の肩を清四郎の方に押し出すように叩く。

「じゃ、キクちゃん、またね!」

「お疲れ様!」

「また一緒にやれたらいいね、キクマサムネさん!」

 

呼ばれた名に、悠理の肩がびくんと揺れる。

よくあの調子で、偽名だとバレなかったものだ。

清四郎自身の胸も、ぎくりとしたが。

 

少年少女たちは、悠理を置いて乗り換え口に去って行った。

先程の少年が、何度も悠理と清四郎を振り返って見ていることに、清四郎は気づいていた。

敵意よりも諦めを含んだ視線。

彼が悠理を好きなことは一目でわかった。

友人達に脇腹を突かれて諦め去って行ったことから、悠理には相手にもされなかったことも。

 

だけど、清四郎だって同じなのだ。

ただの友人。

そして、ここで偶然出くわしただけ。

そうしなければならないことは、悠理の表情でわかった。

 

「なんで、いんの?」

悠理の顔がくしゃりと歪んだ。

怪訝を通りこして、嫌そうな顔。

 

清四郎はため息をついた。

考えたこともなかった。友人としてでさえ、嫌われている可能性は。

「・・・偶然ですよ」

 

おまえなんか大嫌いだと、何度も言われたけれど。

からかって馬鹿にして喧嘩して。そんな気の置けない仲間の言葉だったから、本気には取らなかった。

いつだって、悠理が最後に頼ってくるのは清四郎だったから。

それも、自信家でありすぎたのか。

 

人気のなくなったホームで、数メートルの距離を保ったまま、ふたりはただ立ちすくんでいた。

悠理は歪めた顔をそらせている。

清四郎の足も動かない。

いつの間にか、茜色がまだ裾に残る夜空に、星が輝きはじめた。

遠くで遠雷のような音が聞こえる。

花火だ。

だけど、悠理は顔を上げない。

ひとつ、大きな花火が上がった。

眩しいその輝きが、うつむいた悠理の影を濃くする。

 

ふたりで見たいと願った花火を、清四郎は見ることができなかった。

ただ、悠理の顔を隠す影を見つめていた。

足が動かない。

声も出ない。

胸の痛みだけが、リアルだった。

 

先程の衝動が、ふたたび蘇る。

息ができないほど、激しく。

 

動けば、すべて崩れそうな危ういバランス。

抑えなければ想いが溢れ出しそうだった。

だけど、友人だからそばにいられる。

言ってしまえば、すべて壊れる。

 

――――すき。

 

そのたった一言で。

 

 

 

まだ、初めての恋に気づいたばかりの頃だった。

夢中になりすぎて、幼さと無邪気さの違いに気づかずにいた。

知ったばかりの感情に囚われ、怯えていた。

自分の心に振りまわされ、大切なものが見えなかった。

彼女の瞳に映った花火のように、儚い一瞬の輝きを。

 

 

 

 

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