すき4 |
走って、走って。 悠理が本気で駆ければ、清四郎にだって追いつけないはず。
――――好きなひとが、います。
立ち聞きしてしまった言葉。 それは悠理に告げられたものではないのに、衝撃を感じた。 胸に刺さったままの矢が、矢尻ごと引き抜かれる。 傷口から、血が吹きだす。
胸の痛みに、足がもつれた。 階段を駆け降りながら転びかける。 咄嗟に手すりにつかまって、あやうく体を支えた。 そのとき。 目の前に、大きな影が降ってきた。 驚いて、一瞬、息が止まる。 そして、それが階段を飛び降りてきた清四郎だと理解したとき、今度は心臓が動きを止めた。
清四郎は着地の衝撃にかがめていた身を起こした。 まだ息は乱れている。 落ちた前髪を片手でかき上げ、彼は悠理に体を向けた。 「・・・悠理、聞いてたんですね」 苦虫を噛み潰したような顔。 悠理はカッと羞恥に身を火照らせた。 立ち聞きして、邪魔をして。おそらくは秘密だったはずの言葉を聞いてしまった。
本当は、悠理はここで笑うべきだったのだ。
――――いやぁ、悪いな、聞いちゃったよ。この色男! バシバシ清四郎の背中を叩いて。 ――――好きなひとって、やっぱ野梨子か?いいだろ、吐いちまえ、あたいこれでも、口は堅いんだじょ。他のヤツラには、黙っててやっから。
そう言って、めずらしくも照れる清四郎の弱みを握る。 そうすべきだったのだ。
なのに、悠理は動けなかった。 清四郎の顔が、あんまり真剣だったから。 そして。 あんまり、胸が痛かったから。
心に穴が空くってことの意味が分かった気がした。 清四郎の言葉が。野梨子に見せる笑みが。 悠理の心に穴を穿つ。 そして、そこに入ってくるのは、たったひとつの言葉。
――――すき。
見つめる、清四郎の黒い黒い瞳。 キューピッドの矢は、間違って悠理の胸に刺さっていた。 どくんどくんと、血が吹き出る。 悠理の心から、流れ出してくる。 もう、認めるしかなかった。 気づいてしまえばつらくなるばかりだから、知りたくなかった自分の気持ちに。
動揺して、悠理は思わずあとずさっていた。 背中に壁の感触。 また逃げ出すとでも思ったのか。清四郎は悠理に手を伸ばす。 手首をつかまれた。 そんなことをしなくても、悠理はもう逃げることなどできなかったのに。 足がガクガク震えた。 清四郎の瞳に射られ、目を逸らすこともできない。 もう逃げられない。自分の中の恋から。
「悠理、僕は・・・」 清四郎がひどく真剣な目で、悠理を見つめる。 いつからか、真正面から見ることのできなくなっていた清四郎の瞳。 深い深い黒。 胸の奥から、息のつまるほどのかたまりがせりあがってくる。 空いた穴を埋めようと、胸の傷をふさごうと、自然の治癒力が作用する。 涙のかたまりは、生理的な反応。
――――泣いちゃだめだ、泣いちゃだめだ、泣いちゃだめだ。
心の中で、必死で繰り返す。 もう手後れなほど、悠理の心はあふれ出してしまった。 ここで泣けば、清四郎に悟られてしまう。 絶対に知られたくはない、悠理の弱さを。
どうしようもないほど、清四郎が好きだってことを。
*****
まさか、悠理に聞かれてしまうとは思わなかった。 清四郎の意識からは、もう置き去りにしてしまった下級生のことは消えていた。 階段を駆け降りる悠理を必死で追った。 ここで見失えば、彼女を失ってしまうかのように。 友人としての悠理さえ。
告白など、まだするつもりはなかった。 自分勝手に想いをぶつけても、戸惑わせるばかり。 女としては幼すぎる彼女に、受け止められるとは思えなかった。 自分でも抑えがきかないほどの、彼の想いを。
清四郎にとっても、初めての恋だった。 どうすればいいのか、わからなかった。
悠理はひどく怯えた顔をしている。 清四郎は彼女の手首をつかんでいた指を放した。 それでも、悠理を壁に縫い付けるように、両手を壁につける。 逃すつもりはなかった。
清四郎の両手の間で、悠理はウサギのように震えていた。 負けん気が強い彼女だが、時にとても気弱なことがある。 悠理が怯えるのも無理はないと、自嘲した。 ちょっとした興味本位で立ち聞きしたら追いかけられ、捕まえられたのだ。 それも、必死の形相の清四郎に。 自分が必要以上に強張った顔をしている自覚はあった。 なぜなら、清四郎は決意していたから。 こんなふうに知られたくはなかった。 こんな突然に伝えるつもりはなかった。 だけど、聞かれてしまったのなら、もう悠理に言うしかない。
――――おまえが、好きだと。
心の堰が決壊する。 目を見開いている悠理を、熱く見つめた。 もう二度と、無邪気に笑いかけてはもらえないかもしれない。 気の置けない友人としての立場を失うことは覚悟の上。 もう友達のままではいられない。
抑えることのできない、恋情。 勇気よりも衝動が、清四郎の口を促した。 「悠理、僕は・・・」
そのとき。 大きく見開いていた悠理の目が曇った。 瞳を覆う透明な膜。 みるみる盛り上がる涙が大粒をつくり、流れ落ちた。 清四郎の腕の間で、悠理の頭が左右に振られた。 「やだ・・・いやだよ、清四郎」
*****
自由になった手で悠理は自分の耳をふさいだ。 聞きたくなかった。 知りたくなかった。 清四郎の好きなひとの名など。
涙はあとからあとから零れ落ちた。 清四郎が唖然と悠理を見つめている。 その白皙の頬が、わずかに紅潮していた。清四郎も動揺を隠せないでいる。
とうとうバレてしまった。自分さえ、気づかなかった悠理の恋を。 いや、本当はとうにわかっていた。 バイト先でお似合いの二人を見たときに。 あのとき、空いた胸の穴。その理由を心の奥では、分かっていた。 膝をかかえ痛みごと胸を抱きしめ、自分の心から目を塞いだ。 あのとき泣いておけば良かった。 目が腫れるほど。声がかれるほど。 そうしたら、涙も涸れ果てたのに。
抑え込んでいた想いと涙は、あふれ出し、止まらない。 一度あらわになってしまった心は、もう隠せない。
清四郎は怒ったような困ったような顔で、呆然と悠理を見つめている。 目を離すことのできなかった黒い瞳は、いまはもう涙でよく見えない。 頭の両脇に置かれていた手が壁を離れ、悠理の手に触れた。 耳をふさぐ手を、そっと外される。
力任せにつかまれた先程とは違う、思いがけず優しい手。 だけど、その手はすぐに悠理の手から離れた。 清四郎のぬくもりが、ゆっくりと手から消えてゆく。 至近距離で向かい合いながら、清四郎がとても遠い。 力の抜けた手は動かない。 逃げ出せない足と同じように。
「悠理・・・」 清四郎のかすれた声が、ふさぐこともできず耳に入ってきた。 狼狽だけでなく、いたわりさえ、滲んだ声だった。
こんなふうに、気持ちをあらわにして泣いて。 同情されて。 あまりにも、みじめだった。
「・・・ひぃぃっぐ」 悠理は大きくしゃくりあげた。 「うわぁぁぁ・・・」 子供のように大泣きする自分を止められない。 清四郎には、ずいぶんみっともない姿ばかり見せてきた。 だから、いまさらかもしれない。 いつもなら。 大泣きする悠理に、この馬鹿、と降ってくる容赦のない声。 そして、言葉と裏腹に、髪を撫でてくれる優しい手。
あの大きな手のぬくもりが好きだった。 なのに、その手は悠理のものにならない。 二度と、悠理に触れない。 知られてしまったからには、きっともう友人としてさえ。
悠理は駄々っ子のように泣き叫んでいた。 心は好きだと、叫んでいた。
あのひとがすき。 ――――すき。
いつか聴いた歌声のようには、甘くはなかった。 悠理の初めての恋は、気づいた瞬間に、破れてしまったから。 天使が間違えて放った矢に射抜かれた風船のように。
悠理の恋は、壊れて割れた。
*****
泣きじゃくる悠理を前に、清四郎はただ立ち尽くしていた。 熱くなっていた気持ちが、ゆっくりと冷えていく。 子供のように泣く悠理の涙に、清四郎は打ちのめされていた。 告白しても、拒絶されるとは思っていた。 ひどく驚かれ、嫌悪され、殴られることさえ、覚悟していた。 だけどまさか、告白する前に気づかれるとは思わなかったのだ。
下ろした手をきつく握りしめた。 抱きしめたくなる衝動に耐える。 ”いやだ”と悠理は言ったのだ。 異性として見られることに拒否感があるのだと、思いたい。 清四郎だから、とは考えたくはない。 どちらにしろ、これ以上はないはっきりした悠理の拒絶。 覚悟していたはずなのに、その事実に目の前が暗くなった。 ひどく胸が痛い。 それなのに、その痛みも他人事のように感じる。 心のどこかが、麻痺したように固まっている。 目の前で悠理が泣いているのに、いつものように慰めることも、安心させるための笑みも、清四郎は作れなかった。
こんなふうに泣かせたくはなかった。 こんなふうに、知らせたくはなかった。
「・・・・・ごめん」
それだけを、口にするのが精一杯だった。 やっと出せた声は、情けないほど震えていた。
|
背景:Canary様