すき


6


 

 

 

夜道を悠理は歩いていた。
魅録と公園で別れ、ひとりきり。
車を呼ぶこともできたが、歩いて行きたかった。
徒歩では距離のある、清四郎の家へ。
ただ、失恋するために。



諦めなければ、ならないと思った。
清四郎は大切な友達。
これまでも、これからも。
なのに、このままでは二度と顔を合わすことができない。

すき。

ただ、そのひとことを、悠理はまだ告げていなかった。
傷つくのがこわくて自分の心からも逃げ出していたから、あんな形であふれだしてしまった。

自分に向き合うことができたのは、魅録のおかげだった。
ただ、黙って泣かせてくれた。
「ちゃんと、失恋してくる。このままだと二度とあいつの顔を見れない。そんなの嫌だから」
思ってたよりもずっと意気地がなかった自分に、さよならするために。
「これから、玉砕してくるよ」
初めての恋に、さよならするために。

ようやく微笑むことができた悠理を、魅録は戸惑った表情で見つめていた。
それは、あのときの清四郎を思い出させた。
「あたい、行くね」
「泣きたくなったら、また来い」
「もう、大丈夫だよ」
悠理の嘘をわかっていたのか。
魅録はつらそうな顔をした。
「一人で泣くんじゃない!」

大好きな親友。
彼の前で、顔を上げられない自分は嫌だった。
勇気を、取り戻したかった。

清四郎が、好きだと言ってくれた自分を、せめて取り戻したかった。
友人としてでいいから。



*****





ことさら急いでいたわけじゃない。
だけど、ずいぶん距離があるはずの道程が、悠理にとってはあっという間に感じられた。
見慣れた門構え。
菊正宗、と書かれた表札の下のインターフォンを押した。
とっくに、覚悟はできていたけれど、指が震えた。
『はい』
「こんばんは、おばちゃん、悠理です。清四郎は居ますか?」
声も震えた。

驚く清四郎の顔だけが脳裏に浮かんでいた。
つらそうな、痛みに耐えるような目で、”ごめん”と言った彼の姿が。

『まぁ、悠理ちゃん?ごめんなさいね、清四郎は出かけてしまったの。だけど丁度いま・・・』
まだ清四郎の母親の言葉が終わらないうちに、悠理の目の前の扉がガチャリと開いた。

どきんと胸が疼く。

「悠理?」
玄関のドアを開けて顔を出したのは、野梨子だった。

灯を背にした野梨子の表情はよく見えない。
だけど、門灯の横に立つ悠理の姿を見て、野梨子が息を飲んだのはわかった。
きっと、まだ目は腫れている。
こんな夜に、泣きはらした顔で清四郎をたずねて来た悠理を、野梨子はどう思っただろう?

まったく予想もしていなかった自分を、悠理は悔やんだ。
清四郎だって携帯電話を持っているのに、不在を確かめなかった。
だって、”これから告白しに行くから、首洗って待ってろ”と電話するわけにもいかない。
隣家の野梨子が清四郎の家に居ることも、予想外。
二人がつきあっているなら、十分に考えられたことなのに。

「・・・・どうしたんですの?」
数秒後、いつも通りの落ち着いた声で野梨子に問われた。
それで悠理は、自分がうつむいてしまっていたことに気づかされた。
唇を噛んで顔を上げる。
弱虫で、卑怯な自分は嫌だった。
いつだって。大好きな友人に対して。
「あたい・・・」
悠理は意を決して口を開いた。
清四郎に告白するのも、野梨子に告げるのも同じことだ。
野梨子に内緒にすることなどできない。
これまで通りの友達でいたいから。

そのとき、突然悠理の携帯が鳴り出した。
着信音で、魅録だとわかった。



*****





「うん・・・うん。出かけちゃったって。でも・・・」
悠理はちらりと野梨子に視線を向けた。
野梨子は首を振る。
「あたい、ここで待ってる。どうしても今日、会いたいんだ。清四郎に」
言ってしまってから悠理は、魅録に失恋の相手の名を告げてはいなかったことに気がついた。
だけど電話の向こうの魅録に、驚いた様子はなかった。
ただ、何度も”一人で泣くな”と魅録は言った。
「わかってる。ありがと、魅録」
悠理は電話を切った。

野梨子が小さく息を吐いた。
「今の電話は、魅録?」
「うん」
「待ってても、清四郎は今夜は帰って来るかどうか、わからないんですのよ」
野梨子は眉を寄せる。
「清四郎と何かあったんですの?悠理」
悠理はごくりと息を飲み込んだ。
野梨子を真っ直ぐ見つめ、小さく肯く。

野梨子は続く言葉を待ち、じっと悠理を見つめている。
黒い黒い瞳。

ドキドキした。
そして、苦しかった。

「・・・あたい、玉砕しに来たんだ」
それでも、悠理は野梨子を真っ直ぐ見つめた。
「”すき”って、言いに来た。そんで、ちゃんと失恋するために」
清四郎に告白するための言葉を、悠理は野梨子に吐き出した。
そうしなければ、もう一歩も動けない。

大きな黒い目を見開いている野梨子は、清四郎と似ていた。
そう。清四郎と野梨子は似ている。
硬質で鋭利な殻。そして、温かな中身。
見た目や雰囲気だけでなく、なにか魂の色が似通っている。
二人でいることが、自然な一対。

「清四郎に好きなひとがいるってことは、知ってんだ。偶然聞いちゃたから。たぶん、あいつにあたいの気持ちも知られちゃったと思う。だけど、ちゃんと言いたかった。だから、来たんだ」
悠理は野梨子に微笑を向けた。
笑みは、自然に浮かんでいた。

野梨子の表情に、驚き以外の色が浮かぶのを待った。
優越感を抱くような野梨子ではない。
清四郎の気持ちを知っていれば、彼女が抱くのは憐れみの気持ちだろう。悠理に対しての。
だけど、大きく目を見開いた野梨子の表情は、動かなかった。

「玉砕・・・して、どうするんですの?」
残酷な問い。
悠理は首を振った。
「わかんない。でも、たぶんそれで諦められると思う。あたい、野梨子も清四郎も大好きだから。ずっと友達でいたいんだ。これまで通りでいたいんだ」

呆然としていた野梨子の目に、落ち着きが戻ってきた。
胸の前で腕を組み、片手を頬に添える。
そんな仕草さえ、どこか清四郎に似通って見えた。
もう胸は痛まなかった。
悠理に隠すものはなにもないから。

「・・・それでわかりましたわ」
「?」
「清四郎が、鞄も放り出したまま、帰宅してしまった理由が」
野梨子は深い色の瞳で悠理を見つめた。
それは、ひどく優しい色だった。

「悠理は訊きたくありませんの?清四郎の好きなひとの名を」
野梨子の言葉はその表情と反対に、いつだって残酷だ。
悠理はふるふる首を振った。
「・・・訊きたくない」
ただ、自分の気持ちを告げたいだけ。自分勝手で一方的な押し付けに過ぎなかったとしても。

「私は訊きたいですわ。そのひとが誰か、知っているような気もしますけど」
野梨子はふわりと微笑んだ。
花のような微笑。
自信と喜びに輝くような笑みは、羨望を通り越すほど美しかった。
しばし悠理は見惚れる。
憐れみよりも、喜びの方がいい。
二人が幸せであればあるほど、諦められる。きっと、いつか。

「だって、清四郎ってばここのところずっとおかしかったのですもの。やけに浮かれてはしゃいだり・・・遊園地などに、どうしても行きたがったり」
野梨子はクスクス笑った。

あの夜の痛みを思い出し、またズキンと胸が疼いた。

野梨子に向けていた微笑が崩れる。
もう泣かないと決めたのに、もう目を背けないと誓ったのに、苦しくて、苦しくて。

「悠理・・・?」
鼻の奥がつんと痛くなる。
悠理は袖で目をぬぐった。
「ごめん、野梨子。ごめん・・・今日だけだから」
「清四郎に、会いたいのでしょう?」
野梨子の言葉に、悠理は肯くしかなかった。

言えなかった言葉を告げる。
答えはわかっていても、自分のために。
そして、思いっきり泣いて、ぐっすり眠って。
前を向いて、顔を上げて。
明日からは、ちゃんと笑えるようになる。
それが、悠理の長所だから。
きっと吹っ切れる。
この気持ちを忘れることなどできなくても。



*****





二人は、まだ菊正宗家の前で立ったままだった。
静かな住宅街。夕刻を過ぎれば行き交う人影はない。
帰宅するつもりで菊正宗家の玄関を出た野梨子も、帰るそぶりを見せなかった。
「何をしているのかしら、清四郎は・・・」
野梨子は組んでいた腕をほどいた。
「そうですわ、携帯を持っているはずでしょう。悠理、ちょっと貸して下さる?」
「え・・・」
「どこに居るのかいつ帰って来るのか、私が聞き出しますわ」
渡された悠理の携帯のアドレス帳の使い方がわからないのだろう。野梨子は空で記憶している清四郎のナンバーを打ち込んだ。
そんな彼女の仕草でさえ、悠理の胸には響いた。
野梨子は悠理の携帯を耳につけ、じっと呼び出し音を聞いている。

野梨子の黒い瞳から解放され、悠理はやっと自然に目を逸らすことができた。
逃げたくなかった。
卑屈にもなりたくなかった。
あの大好きな黒い目の前で。

もう冷たくなった外気に、悠理は身を竦める。
外灯の白い明りさえ、暖かみはなく冴え冴えと冷たく感じられた。
遠く目を凝らしても、明るすぎる外灯の下では星が見えない。
せめて月を見たくて夜空を見渡した。
そのとき。
暗い道を走ってくる人影が目に入った。

携帯の呼び出し音が止まった。
「まぁ、やっと出ましたのね?」
悠理の携帯からの着信を、清四郎はどう思っただろう?
そこから聞えてくる野梨子の声に?

野梨子の声を背中で聞きながら。
しかし悠理は、近づいてくる人影から、目が離せなかった。
よろけまろびつ、走って来る男。
ふらふらとした危うい足取り。それは、悠理の知っている彼の盤石な足取りとは似ても似つかなかった。

「・・・魅録?魅録ですの?どうしてあなたが清四郎の携帯に?」
野梨子が携帯に叫んでいる。
急速に遠のく現実感。
反対に近づいて来る人影。

「・・・悠理・・・」
荒い息をつく男は、上気した頬で名を呼んだ。
乱れた髪。
目が霞むのか、手の甲でぬぐっている。
数メートルの距離で足を止め、倒れ掛かるように塀に上体を預けた。

「清四郎・・・!」
悠理は両手で自分の口をふさいでいた。
だから、彼の名を叫んだのは、野梨子だった。

 

 

 

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