夜道を悠理は歩いていた。 魅録と公園で別れ、ひとりきり。 車を呼ぶこともできたが、歩いて行きたかった。 徒歩では距離のある、清四郎の家へ。 ただ、失恋するために。
諦めなければ、ならないと思った。 清四郎は大切な友達。 これまでも、これからも。 なのに、このままでは二度と顔を合わすことができない。
すき。
ただ、そのひとことを、悠理はまだ告げていなかった。 傷つくのがこわくて自分の心からも逃げ出していたから、あんな形であふれだしてしまった。
自分に向き合うことができたのは、魅録のおかげだった。 ただ、黙って泣かせてくれた。 「ちゃんと、失恋してくる。このままだと二度とあいつの顔を見れない。そんなの嫌だから」 思ってたよりもずっと意気地がなかった自分に、さよならするために。 「これから、玉砕してくるよ」 初めての恋に、さよならするために。
ようやく微笑むことができた悠理を、魅録は戸惑った表情で見つめていた。 それは、あのときの清四郎を思い出させた。 「あたい、行くね」 「泣きたくなったら、また来い」 「もう、大丈夫だよ」 悠理の嘘をわかっていたのか。 魅録はつらそうな顔をした。 「一人で泣くんじゃない!」
大好きな親友。 彼の前で、顔を上げられない自分は嫌だった。 勇気を、取り戻したかった。
清四郎が、好きだと言ってくれた自分を、せめて取り戻したかった。 友人としてでいいから。
*****
ことさら急いでいたわけじゃない。 だけど、ずいぶん距離があるはずの道程が、悠理にとってはあっという間に感じられた。 見慣れた門構え。 菊正宗、と書かれた表札の下のインターフォンを押した。 とっくに、覚悟はできていたけれど、指が震えた。 『はい』 「こんばんは、おばちゃん、悠理です。清四郎は居ますか?」 声も震えた。
驚く清四郎の顔だけが脳裏に浮かんでいた。 つらそうな、痛みに耐えるような目で、”ごめん”と言った彼の姿が。
『まぁ、悠理ちゃん?ごめんなさいね、清四郎は出かけてしまったの。だけど丁度いま・・・』 まだ清四郎の母親の言葉が終わらないうちに、悠理の目の前の扉がガチャリと開いた。
どきんと胸が疼く。
「悠理?」 玄関のドアを開けて顔を出したのは、野梨子だった。
灯を背にした野梨子の表情はよく見えない。 だけど、門灯の横に立つ悠理の姿を見て、野梨子が息を飲んだのはわかった。 きっと、まだ目は腫れている。 こんな夜に、泣きはらした顔で清四郎をたずねて来た悠理を、野梨子はどう思っただろう?
まったく予想もしていなかった自分を、悠理は悔やんだ。 清四郎だって携帯電話を持っているのに、不在を確かめなかった。 だって、”これから告白しに行くから、首洗って待ってろ”と電話するわけにもいかない。 隣家の野梨子が清四郎の家に居ることも、予想外。 二人がつきあっているなら、十分に考えられたことなのに。
「・・・・どうしたんですの?」 数秒後、いつも通りの落ち着いた声で野梨子に問われた。 それで悠理は、自分がうつむいてしまっていたことに気づかされた。 唇を噛んで顔を上げる。 弱虫で、卑怯な自分は嫌だった。 いつだって。大好きな友人に対して。 「あたい・・・」 悠理は意を決して口を開いた。 清四郎に告白するのも、野梨子に告げるのも同じことだ。 野梨子に内緒にすることなどできない。 これまで通りの友達でいたいから。
そのとき、突然悠理の携帯が鳴り出した。 着信音で、魅録だとわかった。
*****
「うん・・・うん。出かけちゃったって。でも・・・」 悠理はちらりと野梨子に視線を向けた。 野梨子は首を振る。 「あたい、ここで待ってる。どうしても今日、会いたいんだ。清四郎に」 言ってしまってから悠理は、魅録に失恋の相手の名を告げてはいなかったことに気がついた。 だけど電話の向こうの魅録に、驚いた様子はなかった。 ただ、何度も”一人で泣くな”と魅録は言った。 「わかってる。ありがと、魅録」 悠理は電話を切った。
野梨子が小さく息を吐いた。 「今の電話は、魅録?」 「うん」 「待ってても、清四郎は今夜は帰って来るかどうか、わからないんですのよ」 野梨子は眉を寄せる。 「清四郎と何かあったんですの?悠理」 悠理はごくりと息を飲み込んだ。 野梨子を真っ直ぐ見つめ、小さく肯く。
野梨子は続く言葉を待ち、じっと悠理を見つめている。 黒い黒い瞳。
ドキドキした。 そして、苦しかった。
「・・・あたい、玉砕しに来たんだ」 それでも、悠理は野梨子を真っ直ぐ見つめた。 「”すき”って、言いに来た。そんで、ちゃんと失恋するために」 清四郎に告白するための言葉を、悠理は野梨子に吐き出した。 そうしなければ、もう一歩も動けない。
大きな黒い目を見開いている野梨子は、清四郎と似ていた。 そう。清四郎と野梨子は似ている。 硬質で鋭利な殻。そして、温かな中身。 見た目や雰囲気だけでなく、なにか魂の色が似通っている。 二人でいることが、自然な一対。
「清四郎に好きなひとがいるってことは、知ってんだ。偶然聞いちゃたから。たぶん、あいつにあたいの気持ちも知られちゃったと思う。だけど、ちゃんと言いたかった。だから、来たんだ」 悠理は野梨子に微笑を向けた。 笑みは、自然に浮かんでいた。
野梨子の表情に、驚き以外の色が浮かぶのを待った。 優越感を抱くような野梨子ではない。 清四郎の気持ちを知っていれば、彼女が抱くのは憐れみの気持ちだろう。悠理に対しての。 だけど、大きく目を見開いた野梨子の表情は、動かなかった。
「玉砕・・・して、どうするんですの?」 残酷な問い。 悠理は首を振った。 「わかんない。でも、たぶんそれで諦められると思う。あたい、野梨子も清四郎も大好きだから。ずっと友達でいたいんだ。これまで通りでいたいんだ」
呆然としていた野梨子の目に、落ち着きが戻ってきた。 胸の前で腕を組み、片手を頬に添える。 そんな仕草さえ、どこか清四郎に似通って見えた。 もう胸は痛まなかった。 悠理に隠すものはなにもないから。
「・・・それでわかりましたわ」 「?」 「清四郎が、鞄も放り出したまま、帰宅してしまった理由が」 野梨子は深い色の瞳で悠理を見つめた。 それは、ひどく優しい色だった。
「悠理は訊きたくありませんの?清四郎の好きなひとの名を」 野梨子の言葉はその表情と反対に、いつだって残酷だ。 悠理はふるふる首を振った。 「・・・訊きたくない」 ただ、自分の気持ちを告げたいだけ。自分勝手で一方的な押し付けに過ぎなかったとしても。
「私は訊きたいですわ。そのひとが誰か、知っているような気もしますけど」 野梨子はふわりと微笑んだ。 花のような微笑。 自信と喜びに輝くような笑みは、羨望を通り越すほど美しかった。 しばし悠理は見惚れる。 憐れみよりも、喜びの方がいい。 二人が幸せであればあるほど、諦められる。きっと、いつか。
「だって、清四郎ってばここのところずっとおかしかったのですもの。やけに浮かれてはしゃいだり・・・遊園地などに、どうしても行きたがったり」 野梨子はクスクス笑った。
あの夜の痛みを思い出し、またズキンと胸が疼いた。
野梨子に向けていた微笑が崩れる。 もう泣かないと決めたのに、もう目を背けないと誓ったのに、苦しくて、苦しくて。
「悠理・・・?」 鼻の奥がつんと痛くなる。 悠理は袖で目をぬぐった。 「ごめん、野梨子。ごめん・・・今日だけだから」 「清四郎に、会いたいのでしょう?」 野梨子の言葉に、悠理は肯くしかなかった。
言えなかった言葉を告げる。 答えはわかっていても、自分のために。 そして、思いっきり泣いて、ぐっすり眠って。 前を向いて、顔を上げて。 明日からは、ちゃんと笑えるようになる。 それが、悠理の長所だから。 きっと吹っ切れる。 この気持ちを忘れることなどできなくても。
*****
二人は、まだ菊正宗家の前で立ったままだった。 静かな住宅街。夕刻を過ぎれば行き交う人影はない。 帰宅するつもりで菊正宗家の玄関を出た野梨子も、帰るそぶりを見せなかった。 「何をしているのかしら、清四郎は・・・」 野梨子は組んでいた腕をほどいた。 「そうですわ、携帯を持っているはずでしょう。悠理、ちょっと貸して下さる?」 「え・・・」 「どこに居るのかいつ帰って来るのか、私が聞き出しますわ」 渡された悠理の携帯のアドレス帳の使い方がわからないのだろう。野梨子は空で記憶している清四郎のナンバーを打ち込んだ。 そんな彼女の仕草でさえ、悠理の胸には響いた。 野梨子は悠理の携帯を耳につけ、じっと呼び出し音を聞いている。
野梨子の黒い瞳から解放され、悠理はやっと自然に目を逸らすことができた。 逃げたくなかった。 卑屈にもなりたくなかった。 あの大好きな黒い目の前で。
もう冷たくなった外気に、悠理は身を竦める。 外灯の白い明りさえ、暖かみはなく冴え冴えと冷たく感じられた。 遠く目を凝らしても、明るすぎる外灯の下では星が見えない。 せめて月を見たくて夜空を見渡した。 そのとき。 暗い道を走ってくる人影が目に入った。
携帯の呼び出し音が止まった。 「まぁ、やっと出ましたのね?」 悠理の携帯からの着信を、清四郎はどう思っただろう? そこから聞えてくる野梨子の声に?
野梨子の声を背中で聞きながら。 しかし悠理は、近づいてくる人影から、目が離せなかった。 よろけまろびつ、走って来る男。 ふらふらとした危うい足取り。それは、悠理の知っている彼の盤石な足取りとは似ても似つかなかった。
「・・・魅録?魅録ですの?どうしてあなたが清四郎の携帯に?」 野梨子が携帯に叫んでいる。 急速に遠のく現実感。 反対に近づいて来る人影。
「・・・悠理・・・」 荒い息をつく男は、上気した頬で名を呼んだ。 乱れた髪。 目が霞むのか、手の甲でぬぐっている。 数メートルの距離で足を止め、倒れ掛かるように塀に上体を預けた。
「清四郎・・・!」 悠理は両手で自分の口をふさいでいた。 だから、彼の名を叫んだのは、野梨子だった。
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