すき


7


 

 

 

清四郎はなかなか息が整わず、塀に身を預けたまま喘いでいた。

どれくらいの距離を走ってきたのか。

体力持久力とも常人離れしているはずの彼のこんな姿は、めずらしい。

悠理も野梨子も清四郎の憔悴ぶりに、しばし呆気に取られて言葉を失っていた。

 

染まった頬。浮かんだ汗。乱れた髪。

だけど、目は悠理をじっと凝視していた。

 

「悠理・・・この馬鹿」

やっと口を開いた彼が言ったのは、罵倒の台詞。

「な・・・」

悠理は口を抑えたまま、まだ絶句していた。

清四郎の黒い瞳に、何かの熱が浮かんでいた。

まるで、怒りに似たそれ。

 

携帯を握り締めていた野梨子が、そっとその場を離れる。

だけど、それに悠理も清四郎も気づかなかった。

お互いしか、目に入っていなかったから。

 

「魅録のところに、行ってたんですよ」

清四郎は、吐き捨てるように言った。

やはり、彼は怒っているようだった。

 

 

 

*****

 

 

 

ひとりでいたくなかったから、魅録の家へ行った。

だけど、プライドの高い清四郎が、失恋も傷心も、表に出せるわけはなく。

ただ馬鹿話をしながら、持参した酒の杯を重ねた。

しかし、魅録にはすぐに看破されてしまった。

 

悠理が魅録の前で流した涙を、清四郎は知らなかった。

そして、悲痛な覚悟で、彼の家へ向かったことを。

 

「俺が、ライバルになってやってもいいんだけどよ」

鈍感で早とちり。恋に不器用な清四郎に、魅録が突きつけた言葉。

それに、どこまでの真実が含まれていたのかはわからない。

だけど魅録はそうして、清四郎の背中を押した。

 

悠理の元へ。

 

 

 

*****

 

 

 

「バカだアホだとは、思ってたけど・・・」

清四郎は思いきり嘆息した。

「いや、おまえがバカだってわかってたはずなのに、伝わってしまったと早とちりした僕の方がバカだったんだ」

いきなり、バカバカ連発され、悠理の頭は真っ白になった。

 

清四郎に会ったら。

ちゃんと、告白するつもりだった。

そして、ちゃんと失恋するつもりだった。

 

「ちょ・・・ちょっと、待て!」

悠理はようやっと声を絞り出した。

「何怒ってんのか知らないけど、放課後のことなら・・・」

「おまえに、怒ってるんじゃない。自分に怒ってるだけだ」

清四郎は悠理の言葉を遮った。

「おまえに言わなければならないことがある」

 

清四郎の真剣な瞳。

あのときと同じ。

”好きなひとがいる”と、聞かされたときと。

 

思わず、悠理は震えた。

身を切るような既視感。

胸を抉られる痛み。

 

清四郎は口を開いた。

「悠理、僕は・・・」

次の瞬間。

悠理は飛びつくような勢いで清四郎と距離を詰めた。

そして、自分の手のひらを押し付けた。

清四郎は驚きに目を見開いている。悠理の手に口をふさがれたまま。

 

それは無意識の行動だった。

あのときは、自分の耳をふさいだ。

聞きたくはなかったから。清四郎の口から、最後通牒を。

 

とうに覚悟は決まっていたはずなのに。

野梨子には顔を上げ、はっきりと告げることができたのに。

いざ清四郎の顔を見た途端、悠理の決意は脆くも崩れた。

 

思わずとった自分の行動が、情けなくて悔しくて。

清四郎に両手を押しつけたまま、悠理の目に涙が滲んだ。

結局、そうありたかった自分には悠理はなれないのだ。

 

「・・・黙って。あたいの話を聞いて」

かすれる声で、なんとかそれだけ言った。

だけど。

喉がつまった。

続く言葉のかわりに、涙が零れ落ちた。

 

――――すき。

 

もう清四郎には知られてしまっている。

それなのに、そのたった一言が、どうしても出てこなかった。

代わりに、鳴咽が込み上げた。

 

清四郎の瞳が曇る。

手のひらを押しつけた唇が動いた。

温かい息がかかる。

凍えた体と心。手のひらだけが熱かった。

 

悠理の手首を清四郎の指がつかんだ。

引き寄せられる。

 

悠理の手は清四郎の唇を離れ。

体は、抱きしめられていた。清四郎の腕の中に。

 

「・・・ごめん、悠理」

 

それは、一番、聞きたくなかった言葉。

胸の傷から血が吹きだす。

あまりの痛みに、目が眩む。

 

「僕には、好きなひとがいます」

悠理の耳元で囁かれたのは、二番目に、聞きたくなかった言葉。

 

「ひとの話は全然聞かない。バカのくせに早とちり。気が強いのに、泣き虫で・・・」

――――それが、悠理のことだということはわかった。

「ごめん、もっと早くに言えば良かった」

――――だけど、清四郎が何を言いたいのかは、わからない。

 

「悠理・・・おまえが好きです」

そう――――告げられるまで。

 

 

 

*****

 

 

 

清四郎に抱きしめられたまま。

悠理は息をすることを忘れた。

心臓さえ、止まってしまったのかと思った。

聞いた言葉が、信じられなかった。

夢を見ているのでなければ。

おかしくなってしまったのだと思った。

自分も、清四郎も。

 

どれくらい、そうして抱き合っていたのか。

清四郎の胸に顔を埋めて。

悠理の頭はまだ正常に動かない。

真っ白になったままの意識。

ただ、きつく抱きしめてくる清四郎の腕のぬくもりと、彼の胸の鼓動だけがリアルだった。

 

「・・・おまえ、酒臭い」

ようやっと、悠理が絞り出したのは、そんな言葉だった。

 

「・・・魅録に、一升は飲まされましたからね」

その後の、全力疾走。さすがの清四郎もオーバーヒート気味。

「だけど、酔った勢いじゃありません。ずっと好きだった。いつか告げるつもりだった。今日だって・・・」

「誰に?」

ポツリと問われ、清四郎は耳を疑った。

わずかに悠理を抱きしめる腕の力を抜く。

悠理の顔を覗き込んだ。

 

清四郎を見返す、ぼんやりした顔。

「誰にって・・・僕は、ちゃんと言いましたよね?まさか、まだわからない?」

 

ここがどこで、今がいつか。

時間の感覚も失われた。

混乱する頭。理解できない言葉。

 

「わかんないよ。もう何がなんだか」

悠理は清四郎の黒い瞳をじっと見返した。

まだぼんやりした意識は覚醒しない。

 

――――わかるのは、たった一つのことだけ。

「あたいが、おまえを好きだって、ことしか」

――――ただ、それだけを告げたかったこと。

 

あの日できた胸の傷口。心に空いた穴。

そこに満ち、あふれだす想い。

 

すき。

 

そのたったひとつの想い。

 

 

 

*****

 

 

 

野梨子は後ろ手で、そっと木戸を閉めた。

白鹿家の広い庭を前に、ため息をつく。

 

隣家の玄関先に、友人達を残してきてしまった。

それでも、あそこに居てはいけない気がした。

 

もう大丈夫。

 

清四郎の気持ちは、野梨子にはわかっていたから。

いかな恋愛音痴でも、気づいてしまう。

生まれたときから知っている冷静沈着な幼なじみが、浮かれはしゃぐ様を見せられたのだから。

なにしろ、万作ランドまでなかば無理やり引っ張り出され、ずっと風船を配る天使を見守り続ける一日に、付き合わされたのは野梨子だ。

鮮やかだった、あの日の夕暮れ。

ハート型のピンクの風船を、野梨子に渡した悠理の気持ちには、気づかなかった。

内心、清四郎に同情すらしていた。

悠理が恋をしていたことには、誰も気づかなかった。

一番そばに居た魅録さえ。

 

握り締めていた悠理の携帯電話がふたたび音を立てる。

この距離ではふたりに音が聞こえてしまうかもしれない。

野梨子はあわてて携帯を開いた。

着信者名は『魅録』。

先程、清四郎の携帯から聞こえてきた声の主は、自分の携帯から掛け直してきたらしい。

 

「・・・清四郎が来ましたわ」

野梨子は木戸を離れ、母屋に向かいながら小声で携帯に話しかけた。

「ええ、ほんとうに。世話がやけるふたりですこと」

 

鞄も野梨子も部室に置き忘れて帰宅した清四郎。

そして、今また、携帯を魅録の家に置き忘れ飛び出したらしい。

らしくない、取り乱し様だ。

彼女の知らない、彼の姿。

まるで泥酔した者のような乱れた姿であらわれた幼なじみを思い出し、野梨子は吹きだした。

 

電話の向こうから、魅録のいぶかしむ声がかかる。

「いえ、どうします?ふたりとも、携帯電話のことなんて、思い出しもしませんわ。明日、どんな顔をして返して差し上げようかしら?」

ころころ鈴の音のような笑い声を立てながら、野梨子は家の戸を閉めた。

 

隣家のふたりのことは、もうなんの心配もしていなかった。

野梨子は知らなかったのだ。

ほんとうに、清四郎が泥酔していたことを。

 

 

 

*****

 

 

 

すき。

 

やっと言えた。

夢うつつだった悠理は、ゆっくりと覚醒する。

清四郎の腕の中で。

 

じっと悠理を見つめていた黒い瞳が、ふいに逸らされた。

清四郎は乱れた前髪の下の目を、落ち着きなくさまよわせた。

悠理の体に回っていた腕が解かれる。

 

ドン。

まるで突き飛ばすように、清四郎は悠理を身から離した。

そのままよろよろと塀に両手をつき体を支える。

清四郎は両腕の間で頭を下げた。

 

悠理は呆然自失。

告白した途端、突き放されたのだ。

 

「せいし・・・」

声が震えた。

 

「それ以上、近づくな」

顔を伏せたまま、清四郎は唸るように呟いた。

「僕も、わけがわからなくなってきた・・・」

 

混乱する心。

悠理の真っ白だった頭に、慣れた絶望感が蘇る。

ガクガク足が震えた。

もう、逃げ出すことさえできない。

悲鳴を上げ、泣き叫ぶこともできない。

喉がはりつき、声が出なかった。

凍り付いたように悠理はその場に立ちすくんでいた。

 

清四郎は顔を上げた。

歪んだ、泣き出しそうな表情。目元が染まり、睫毛が震えている。

「悠理・・・僕は、おまえが、好き、なんだ」

清四郎は、一語一語言葉を切って、喘ぐように呟いた。

「だけど・・・」

言葉を濁し、清四郎は首を振る。

「ああ、もう頭がぐしゃぐしゃだ・・・」

言葉通り、清四郎の髪は乱れている。

頭を振った拍子に眩暈に襲われたようで、清四郎はあやうく転びかけた。

壁にすがるように体をもたれ掛ける。

「やばい・・・」

清四郎は真っ赤な顔で口を押さえた。

 

愕然としていた悠理だったが、あまりに乱れた清四郎の様子に、やっと合点がいった。

清四郎はひどく、酒に酔っているのだ。

魅録に一升飲まされたと言っていた。そのあげく走ったために、急速に酔いが回ったらしい。

 

悠理の金縛りが解けた。

「せ、清四郎!」

駆け寄って、清四郎の肩を支えた。

「大丈夫か?吐きそうなのか?!」

清四郎は赤い顔で、首を振る。

否定のつもりだろうが、言葉も出ないようだった。

「んんんん・・・」

口を押さえたまま悠理を見下ろす清四郎の目は、とろんと潤んでいた。

よろりと大きな体が傾ぐ。

悠理に向かって倒れてくる清四郎の体を、懸命に支えた。

抱き止めると、清四郎の腕が悠理の背に回った。

しかし、先程までの抱擁とは違う。

清四郎の体重が、ずしりと悠理の肩にかかった。

悠理は顔をしかめた。

きつい日本酒の匂い。

酒好きの悠理には甘く感じられるその芳香は気にならないが、男の体はひどく重かった。

油断すると崩れ落ちそうな体。

 

大きく息をつき。

清四郎は悠理の髪に顔を埋めた。

「あたいの上にゲロ吐くなよぉ・・・」

思わず蒼ざめて、悠理は清四郎の体を抱え直した。

「吐きませんって」

悠理にすがりつき支えられているくせに、清四郎は意外なほどはっきりと即答した。

「あんな旨い酒、もったいなくって吐きません〜」

「ろ、呂律があやしいぞ、おまえ」

「すっっっっっっごく、気持ちいい!」

――――完全な、酔っ払いだった。

 

「せ、清四郎ちゃん、とにかく家に入ろうか?」

あまりにいつもと違う清四郎の口調に、悠理は裏返った声を出した。

悠理の背中に回っていた清四郎の手に力が入る。

「イヤだ」

「い、嫌って・・・」

「だから、離れてろって言ったんだ」

清四郎は悠理の肩に手を置き、わずかに身を離した。

しかし、まだ悠理の両肩には体重が乗せられている。

「やばいってったのに」

清四郎の目は熱をはらみ、焦点があっていない。

ぐ、と男の指が肩に食い込んだ。

「痛っ」

悠理が顔をしかめたとき。

ぐらりとまた清四郎が倒れかかってくる。

ぶつかったのは、唇だった。

噛みつくような激しさで悠理は呼吸を奪われた。

 

掛けられた体重。

侵入する舌。

強引な清四郎がすべてを奪おうと蠢く。

甘い酒の香り。

男の汗の臭い。

悠理の足から力が抜けた。

 

悠理が清四郎に押しつぶされるようなかたちで、ふたりはもつれ合って倒れた。

菊正宗家の門の前。

外灯が目に入り、眩んでいた頭に星が散る。

「せ、清四郎・・・!」

悠理は両手を突っぱね、体の上の清四郎を支えた。

「好きだ、悠理」

清四郎はうっとりと囁く。

悠理の意識はふたたび眩んだ。

熱い瞳。

重い体。

もう一度清四郎の顔が悠理に重なろうと近づいてきた。

そのまま、清四郎の全体重が悠理にかかる。

 

「・・・この、酔っ払い!」

悠理に頬を寄せ、そのまま清四郎はぴくりとも動かなくなった。

罵倒しながらも、悠理も動くことはできなかった。

外灯も夜空も、いつしかかすんで見えなくなった。

あたたかいなにかが、頬を濡らす。

頬を転がり落ち、清四郎の髪に吸い込まれる滴。

それが涙だとは、悠理は気づかなかった。

 

背中には堅い地面。

秋の夜の、透明な空気。

肌寒いはずの季節。

だけど、胸の中はあたたかいなにかで満たされていた。

やがて耳に聞こえてくる、静かな寝息。

 

早とちりで、考えすぎで。

馬鹿だの阿呆だの罵倒したあげく、沈没した最低男。

もしも、明日。

清四郎が今夜のことを、すべて忘れてしまっていたら?

 

「・・・ま、いっか」

悠理は誰にともなく、小さくつぶやいた。

涸れない涙。

だけど、胸を締め付けるのは痛みではない。

「そんときは、覚悟しろ」

ちゃんと言うから。

顔を上げて。瞳を見つめて。

今度は、失恋するためじゃなく。

 

公道で悠理を押し倒したまま眠ってしまった男の背中を、悠理は抱きしめた。

胸に満ちてあふれだす、たったひとつの想いとともに。

 

――――すき。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2004.12 END

 

 


 

最初の二回を書いて、どうやってこのニブニブすれ違いカプをくっつけてよいやらわからなくなり、文字通り頭を抱えました。煮詰まったあげく、めったに読み返さない自作をぼんやり読んでいて、「はっ」と。「サンキュ.」使えるじゃん!って。(笑)

 

ええ、もちろんこの二作をくっつけたのは、こじつけです。いい加減なものをよそ様に押し付けたもんだ・・・我ながら、厚顔ぶりに汗顔。

 

一応お話はここで終わっているんですが、せっかくイラストもつけていただいてのリニューアルvですので、埋め込んでいた続きも二編くっつけちゃいます。まっこと厚顔。(汗汗) 

 

 

 

おまけの後日談

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 背景:Canary