サンキュ.


前編


 

 

 

玄関に姿を見せた悠理の顔を見て、しばし、絶句。

 

「ちょっと、待ってろ」

入れよ、と言っても家にあがろうとしない悠理を置いて、 俺はもう一度自室にもどった。

たしか、あったはず。 この前、皆でしたときの残りの花火。

 

 「そこの公園で、花火しないか。ちょっと、季節はずれだけどよ」

プラスチックの空のバケツを渡すと、悠理は頷いた。

泣きはらした真っ赤な目で。

 

 

もう日が暮れると、肌寒い季節だ。

家から徒歩すぐのこの公園も、夏の間は花火に興じる親子やカップルの姿があったが、今は人影がない。

 

俺は少し後悔しつつ、水道をあけ、バケツに水をはった。ポケットからライターを出す。

「ん」

悠理に持たせた花火の先と、自分の煙草に火をつけた。

ちょっと湿っているかも、と思ったが、すぐに緑色の閃光が輝く。

緑色が赤に変わり、最後は黄色で終わった。

悠理は無言のまま、もう一本自分でつける。

パチパチと火がはぜた。

俺は、花火と外灯に照らされた、悠理の顔を見ていた。

 

やはり、あまり良い選択ではなかったようだ。 いや、最悪かも。

景気のいい打ち上げ花火ならまだしも、過ぎた夏の花火は、なにか物悲しい。

おまけに、袋の残りは、線香花火が大半だ。

バイクは修理中なので無理だが、親父の車を出して、走らせたほうがいいかもしれない。 せめて、悠理の涙が乾くまで。

 

悠理の目尻にたまった涙が、またひとつ零れた。

手元の花火を見つめながら、悠理ははらはら涙を流す。

 

 長いつきあいだが、こんな悠理は初めてだった。

悠理が俺のところにいきなり来るのは、よくあることだが。

『やっほー、遊ぼう!』

『暇だー、なんかおもしろいこと、ないかぁ』

『あーもう、ムカツク!』

『チンピラ狩り行こうぜ』

『わぁぁん、聞いてくれよ、あの根性悪がさぁ』

いつもそんなふうにコロコロ表情を変える感情豊かな悠理だが、こんなふうに声も立てず泣くとは、知らなかった。

 

花火の煙が、夜空に上がっていった。

俺は黙って煙草をふかしていた。

涙を流す女を前に、他に何ができるっていうんだ?

 

 ――――そうだ。

悠理は女だったのだ。 これまで意識したことはなかったが。

今日の悠理は、仔犬か少年にしか見えない、俺のよく知るこいつではなかった。

 

ごめん、悠理。俺、ほんと気がきかないな。

泣いてるおまえに、一人で花火をさせてるだけなんて。

 

「ごめん、魅録」

俺のとまどいを察したのか、悠理が口をひらいた。

「・・・どっか行くか。車出すけど」

悠理はふるふる首をふった。

「いい。あたい、行かなきゃいけないんだ」

悠理は消えた花火をバケツに入れ、また次をつけた。

 「どこへ?」

悠理は顔を上げない。

花火に見入っている長い睫の下の双眸には、もう涙はなかった。

「・・・ちゃんと、失恋しに」

 

 正直、驚いた。 こいつの口から出るとは、思ったこともない言葉だった。

 「おまえ、好きな奴いたのか?」

思わず言ってしまってから、後悔した。

ほんと、俺って気がきかない。

 

「へへ・・・そうだよな。あたいだって、おかしいと思うよ。あたいが、恋なんて」

「ご、ごめん」

ああ、違うんだ、そんなふうに笑わないでくれ!

見慣れぬ悠理の苦笑に、俺の胸も苦しくなった。

 

「あたいだって、知らなかったんだ。今日、気がついたんだ」

「・・・・。」

口を開けばまた悠理を傷つけてしまいそうなので、俺は何も言わなかった。

 

「あいつに、好きな女がいるって聞いて・・・・淋しくて、苦しくて。そんでやっと、気がついたんだ」

ぎゅ、と悠理は自分の胸元をにぎりしめる。

 

 「あいつの前で、わーわー泣いた。そして、逃げ出しちゃった」

そう言って、悠理は顔をゆがめた。

金色の火の粉が、悠理の顔を照らす。

頬には、涙のあと。

 

 「あたいは、自分で思ってたより、根性ナシだったんだな」

 熱いはずの花火の火が、雪のように地面にふりかかる。

 「あたいの気持ち、絶対気づかれちゃった。すごい、びっくりしてた。 そりゃそうだよな。あたいだって知らなかったんだから」

また涙を見せるかと思ったが、悠理は泣かなかった。

ぐ、と一度唇をかみしめ、悠理はやっと顔をあげた。

瞳は濡れていたが、今度は本当の笑みを浮かべることに成功していた。

 

俺も知らなかった。

悠理が、こんなに綺麗な女だったなんて。

 

誰かを想う、濡れた瞳。

その目は、俺を映していない。

さきほどまでの花火が、悠理の目の中に色を変え、瞬いている。

薄い色の瞳が、言葉よりも、悠理の恋を語っていた。

季節はずれの花火なんかよりも、凛と顔を上げた悠理は、ずっと美しかった。

 

 ――――こんな真っ直ぐな目で想いをぶつけられ、揺らがない男なんているのか?

 

「失恋って・・・確認したのか」  

いつの間にか、袋半分残っていた花火は、すべて消えていた。

「”ごめん”って言われた。追っかけてきたあいつに」

花火の残骸を片付けながら、悠理は目をふせる。

もっと見ていたいと思った、あの宝石のような瞳を。

 

 「このままだと、二度とあいつの顔を見れない。だから、自分の口でちゃんと言いたい。 迷惑だってわかってる。あいつの気持ちはわかってる。けど、ちゃんと失恋したいんだ」

一気に言いきって、悠理は目を開けた。

 忘れたい、でも、忘れてやる、でもなく。

 想う人を見つめていたい、と語る悠理の瞳は、曇りがなかった。

破れた恋は、悠理を傷つけない。

その瞳は、もう逃げ出さないと、言っていた。

自分の中の恋から。

 

 「おまえ、根性ナシなんかじゃないぜ」

俺の言葉に、悠理は微笑んだ。

バケツを俺に押しつけるように手渡す。

 「へへ・・・これから、玉砕してくる」

その綺麗な笑顔は、俺の胸に波を立てた。

 

 おまえの良さがわからない男を想うのなんか、やめてしまえ。

 思わず、抱き寄せたくなる。

 さっきまで悪友としか思っていなかった悠理の、小さな肩を。

 

 「泣きたくなったら、また来い。ひとりで泣くな!」

――――俺がいるから。

なんて、続けたくなる言葉はかろうじて堪えた。

 

 「うん・・・ありがと。魅録」

悠理はそうして、俺に背を向け、公園の出口へと歩きはじめた。

 

遠ざかる後姿が見えなくなるまで、俺は公園に佇んでいた。

 

俺にとっての悠理を、悠理にとっての俺を、考えた。

どうして悠理は、俺のところへ来たのか。

ただ泣きたかっただけなら、可憐や美童のところでもいい。

あいつらなら、俺よりも、恋の話をわかってやれる。

清四郎や野梨子ではだめだろう。 悠理は、あいつらに弱味を見せたがらない。

 

どうして、俺なのか。 俺は何もしてやれないのに。

 

無邪気に甘やかされて育った、淋しがりの悠理。

弟みたいな、妹みたいな存在だったあいつが、俺の目の前で鮮やかに変貌した。 破れた恋が、あいつを変えた。

泣いていたあいつは、一人で涙をぬぐって、顔を上げた。

淋しかったからじゃなく、覚悟を決めるために、悠理は来たのだ。

 

自分をさらけ出すことができる、そして、勇気を鼓舞される友人。

俺は、おまえにとって、そういう友人だということなんだろう。

光栄だったし嬉しかったが、ほんの少しだけ残念でもあった。

 

だってそれは、まんま――――ただの、男友達じゃないか。

 

 

*****

 

 

バケツ片手に家に帰ると、門の前で、もう一人の友人に出くわした。

「清四郎?」

「おや、魅録、出かけてたんですか」

俺の手元を見て、奴は不思議そうな顔をする。

「花火・・・ですか?」

「ああ、まぁな」

俺は玄関口に、バケツを置いた。

 

清四郎が俺のところへ顔を出すのは、めずらしいことではなかった。 もっとも、留守も多い俺のこと、周到な清四郎が今日のようにアポなしで来るというのはあまりない。

 

清四郎は片手の土産をあげて微笑した。

「良い酒が手に入ったんだ。つきあってもらえませんか」

いつもなら喜んで即答するところを、一瞬つまった。

「どうしたんです。これからあと、なにか予定でも?」

「ああ、いや・・・」

 清四郎と二人で飲むのは、いつでも楽しい。

 だけど、今夜はひょっとしたら、悠理がまた来るかもしれない。

 みごと玉砕してのけて、俺の英雄は、帰還するはず。

 

 しばし逡巡したものの、俺は清四郎に頷いた。

 「いや、いいよ。あがれよ。俺の部屋で飲もう。例によって親父達は留守だしな。 文さんにつまみ作ってもらおう」

悠理が来たときに、清四郎も居てくれた方がいいかもしれない。

俺もこいつも、悠理の親友には違いないのだ。

悠理は嫌がるかもしれないが。

 

失恋した悠理と二人っきりで一晩過ごし、男友達で居続ける自信が、俺にはなかったのだ。

せっかくの、信頼も友情も、ぶちこわしにしてしまうかも。

弱っている悠理の心に、つけこむようなマネだけはしたくない。

 

 

俺の部屋で、清四郎の持参した『呉春』を開けた。

「まさか、さっき一人で花火してたんですか?」

清四郎がクスクス笑った。

 

俺は、少し赤面する。

まだ、悠理のことを言うつもりはない。

だってあれは、俺にだけ悠理が見せた姿だ。

悠理がこのあと現れて、清四郎に話すのなら自分で話すだろう。

 

でも、悠理は清四郎の前では、あんなふうに泣かないだろうと思った。

馬鹿にされるのが嫌で、いつも悠理は清四郎の前では必要以上に強がるのを、俺は知っていた。

 

 「それとも、なにかヤバイことをしてたとか。花火って、いろいろアブナイ用途にも使えますからねぇ」

まだ清四郎は笑っている。

なんか、おまえ、今日はいつもより、はしゃいじゃいないか?

 

表情のコロコロ変わる悠理と違い、俺に向けられる清四郎の顔のレパートリィは少ない。

いつもは、内心の読み取れないおだやかな笑顔だ。

それでも、完璧に見えるポーカーフェイスが、俺の前で外れることもある。

ひとつ新しい顔を見つけるたびに、俺は清四郎と真の友になれたと思う。

時に、コンプレックスを刺激させられる、やたら出来のいい男だが、 多趣味なこいつに知り合い友人は多くとも、飲みながら夜通し語り合える友人は、 俺の他はあまりいないと自負していた。

それは、光栄で、素直に嬉しかった。

 

 ――――が。

だからこそ、今夜の清四郎には違和感を感じた。

 

リラックスしたふうを装いながら、どうしてか、ひどく清四郎は不安定に見えた。

手にした酒には、まだほとんど口をつけていない。

なのに、深酒をしたときのように、目元がほんのりと紅に染まっている。

微笑みながら伏せられた睫の影で、それはすぐに隠れた。

 

なにか――――こういう言い方は、そぐわないかもしれないが、色っぽかったのだ。 こいつが、男にやたらモテるのは、無自覚に垣間見せるこんな揺らぎのせいかもしれない。

自分じゃ、完璧にクールなつもりだろうが、その顔はかなりヤバイぜ、清四郎さんよ。

 

 「・・・げ」

 自分の考えたことに、俺は青ざめた。

悠理の次は、清四郎かよ。

ヤバイのは、俺じゃねぇ?  

 

「どうしたんですか?」

小首をかしげて、清四郎が俺の顔をのぞきこむ。

切れ長の黒い瞳が、濡れたように揺れていた。

その目は、さきほどの悠理の瞳を思い出させた。

 

 「・・・へ、変なのは、おまえだよ。失恋でもしたのか?」

 冗談の、つもりだった。内心の動揺を隠すための。

清四郎は笑い飛ばすと、確信していた。

 

 「・・・!!」

しかし、清四郎は絶句して、顔色を変えた。

 

「・・・僕は、そんなに顔に出てますか?」

「ええっマジ?おまえ、好きな女いたのか?!」

 

清四郎は、しまった、と眉をひそめた。

俺も、口を押さえた。 また、やってしまったようだ。

 

俺は、落ち着こうと煙草をさがした。ポケットに数本残ったマルボロはあったが、ライターがない。

そういえば、ライターは悠理に花火のとき渡したまま、返してもらっていなかった。

 

 「これですか?」

 「あ、サンキュ」

俺の机の上からライターを取り、清四郎が火をつけてくれる。

炎に浮かび上がった清四郎の顔。

それは、容易に先刻の悠理の表情を連想させた。

 

 「・・・参りましたな、魅録には」

凝視する俺の視線に、清四郎は苦笑した。

仮面が外れていた。

その下からあらわれたのは、途方に暮れような、少年の顔だった。

 

まさか。

とは、思った。

”1プラス1イコール2”

しかし、簡単すぎる計算だ。

 

「前言撤回。失恋じゃ、ねぇな。・・・当ててやろうか」

俺は煙草を深々と吸い込んだ。

「おまえ今日、女をフッたろ」

清四郎の目が、見開かれる。

 「・・・見てたんですか?魅録。バイク修理するから先に帰るって言ってたのに」

俺は無言でスパスパ煙を吸い込む。

さすがに、気分が悪かった。悠理を泣かせたのが、この男とわかって。  

 

思えば、心当たりがないこともない。

 

いつでも、悠理はだれよりも清四郎の反応を、気にしていたじゃないか。

馬鹿にされたくない、というのは、認められたいということで。

自分でも気づかないうちに悠理が恋をしていたのなら、 たしかに相手は清四郎以外にはないと、納得できた。

悠理にとっては、身近にありながら、遠い男だろうから。

 

悠理の涙を思い出すと、胸が苦しくなる。

だけど、目の前の清四郎を責める気にはなれなかった。

清四郎にとっても、悠理はかけがえのない友人のはずで。

想いに応えることができないのは、つらいことだろう。

 

だが。

遠い目をしていた清四郎は、手の中の冷酒に視線を落とした。

 

「・・・でも、当たってません。失恋したのは、僕の方です」

「なんだって?」

どういうことだ?

俺の頭は、混乱した。

 

「そんなつもりでここに来たわけではなかったんですが・・・今夜、魅録と飲みたかったのは、本当は話を聞いてもらいたかったからかも知れない」

あっけに取られた俺にかまわず、清四郎は手の中の冷酒を一気にあおった。

「僕のヤケ酒に、つきあって下さい」

 

 

 

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