ドガッ――――

 

扉の蹴り破られる音で、悠理は目覚めた。

「悠理!!」

うつ伏せに眠っていた枕から顔を上げると、清四郎が室内に飛び込んでくるのが目に入った。

「あれ・・・?」

 

自室とは違う、地味な装飾。狭い部屋。

ホテルのシングルルームであることが、すぐにわかる。

 

「悠理、無事ですか?!」

 

掠れた声。強張り蒼ざめた顔。

清四郎は悠理を抱き起こすように、自分の胸に引き寄せた。

きつく抱きしめられ。

悠理はぼんやりした頭で、記憶を辿る。

「あれ?あたい・・・」

悠理のまとったままのシーツを、清四郎ははがした。

下着姿の全身を、確認するように手で触れる。

「な、なにすっ・・・」

いきなりの夫の行動に、悠理は目を白黒。

くすぐったさに身じろぐ悠理から、清四郎は手を離した。

 

「・・・・何もされていないようですね」

「あったり前だろ!」

 

清四郎は大きな吐息を一つつく。

「良かった・・・」

悠理の無事を確かめた、安堵のため息だった。

 

清四郎の表情に、いつもの冷静さが戻る。

ふ、と口元に浮かぶ笑み。

「今回も、お待たせしてしまいましたかね?」

そこにいるのは、いつもの清四郎だった。

高校時代から見慣れた、小憎たらしいくらいの余裕顔。

いつだって、悠理を助けてくれる。だけど素直には感謝できない、意地悪な彼の笑みだった。

まるで自分のものだと言わんばかりに抱き寄せてくるのは、以前と違うけれど。

最初の結婚からもう数年。そういう彼にも、もう慣らされている。

 

清四郎の言葉で、悠理はやっと状況を思い出した。

「う〜ん、一服盛られて、ずっと寝てたからなぁ」

自分の体に回されたままの、清四郎の手首のロレックスが目に入った。

「あっ、しまった!」

悠理は飛び起きて、夫の腕から抜け出す。

「もう朝じゃんか!急ぐぞ、清四郎!」

虚をつかれたように目を見開いている彼の腕を取って、引っ張った。

「野梨子の結婚式に遅れちゃう!おまえも、準備しろ、準備!!」

 

清四郎は、大きな吐息。二度目のそれは、疲れたようなため息だった。

 

 

 

 * あ〜よかった。*

 

 

 

松竹梅家と白鹿家の華燭の宴。

一番親しい友人として厳粛な式と盛大な披露宴に出席し、二次会、三次会の幹事も果した夫妻が、帰りのリムジンに乗り込んだのは、もう夜も更けてからだった。

 

「あ〜疲れた」

悠理は呟きながら広い後部座席に腰を下ろす。

山ほどの引き出物を運転手と共に詰め込んでいた清四郎も、悠理の隣に乗り込んで、ため息をついた。

「・・・本当に」

それは、疲れきった声音だった。

 

「でも、良いお式だったな」

「おばさ・・・いえ、千秋さん方の和気泉家の作法にそっていましたから、大層になりましたけどね」

「野梨子、十二単似合い過ぎ!魅録はあいかわらずのピンク頭だってのによ!」

きゃはは、と悠理が笑うと、清四郎はまた吐息をついた。

今度のそれは、万感のため息。

「あの野梨子が結婚とはね・・・」

清四郎は背中をシートに預け、深く座った。

遠くを見つめる黒い瞳。

わずかに細められたその目に、悠理は唇を歪める。

「野梨子が嫁に行っちゃって、淋しいんだ?」

「・・・そんなことは、ないですけどね」

清四郎は悠理に苦笑を向けた。

「さすがに、感慨はありますよ。兄妹同然に育ったんですから」

「ふぅぅぅ〜ん」

悠理の含みのある表情に、清四郎は肩をすくめる。

「悠理だってそうでしょう?一番仲良しの魅録が結婚してしまったんですよ」

「野梨子と結婚したって、魅録は魅録だい。いままでと、どう違うのさ?」

「きっと、もうおまえの夜遊びに付き合ってくれなくなりますよ」

「ふんっ」

悠理は清四郎の嫌味に、鼻を鳴らした。

遊び仲間の魅録が結婚しても、悠理は淋しさは感じない。野梨子だって、友達なのだし。

なにやら花嫁の兄だか父だかの気分に浸っているらしい清四郎とは違う。彼の、らしくなく感傷的な顔が、なんだか不快だった。

 

結婚しても、何も変わらない。それは、彼ら自身が証明している。

有閑倶楽部を名乗り、生徒会を根城に好き放題していた高校時代から、ずっと。

ふたりの関係は変わらない。

恋愛に興味のない者同士、ま、いっか、と、友達結婚したものの、もともと水と油の性格。相性の悪さとすれ違い生活に悠理がキレて離婚。そして、また清四郎の策略にはめられて復縁し、現在に至る。

 

「しっかし、魅録のダチには野梨子も目を白黒させてたな。長い付き合いなのにさ」

「まぁ、野梨子はあれで箱入りですからね。魅録と付き合わなければ、かかわりのなかった人達でしょうな」

清四郎のその言葉で、悠理は思い出す。お坊ちゃん校のプレジデント学園の中でも、筋金入りの優等生だった、幼馴染二人。

「もしも、さ」

悠理はポツリと呟いた。

「可憐や美童と出会って、魅録たちと倶楽部なんて始めなけりゃ、あたいたち、どうなってたのかな・・・」

口も利かない、同級生。

似合いの一対だった清四郎と野梨子。悠理とは、違う人種に見えたあの頃の二人。

「もしかして、野梨子と結婚したのは、おまえだったかもな」

悠理のそれは、軽口のつもりだったのだけど。

清四郎は眉を寄せ、悠理を睨んだ。

「もしも、なんて仮定は無意味ですな」

吐き捨てるように、清四郎は一刀両断。

いつもより、堅い声だった。

 

もしも――――。

出会わなければ、どうなっていただろう?

あの頃の幸せな日々が、存在しなければ?

それとも、野心家の清四郎は、それでも剣菱家の娘である悠理との結婚を望んだのだろうか。友人ですらなくても。

 

悠理は傍らの夫の横顔をちらりと見た。

夜の街が流れ過ぎる車窓。ほのかな明かりに浮かび上がる清四郎の顔は、陰影が濃い。

鋭角な頬の線に深く刻まれた疲労の色。それは、幼馴染の結婚による精神的打撃ばかりとは、見えなかった。

 

「清四郎・・・疲れてる?」

「・・・そう言ったでしょう」

悠理の問いかけに、清四郎はかすれ声で答えた。

「出張から帰って以来、この二日間、完徹でしたから」

「そ、そだっけ?」

清四郎は、もう一度大きなため息をついた。

「おまえが誘拐されて、僕と魅録はこの二日間、走り回ってたんですよ。野梨子だって、眠れたかどうか。一生に一度の晴れ舞台だというのに、二人ともひどくやつれてたでしょう」

「・・・そーいえば」

式と披露宴はともかく、二次会の席では、新郎新婦はげっそり疲れて見えた。

口の悪い魅録の同僚から、前哨戦でもやったのか?と下品なからかわれ方をしていたことを悠理も思い出す。

「なのに、当のおまえときたら、誘拐慣れしまくって元気いっぱいときてる。つやつやピチピチ化粧のノリもよろしいようで。ご主人が欠席したせいか可憐も塞いでいたし、今日はおまえが一番目立ってましたね」

清四郎は悠理のお気に入りの奇抜な柄のパーティドレスの裾を摘みあげる。

さすがに、宴の場では、清四郎は彼女のエスコートとして完璧に振舞っていたのだが。

夫婦として公の場に出るときのふたりの息はぴったりなのだ。

 

悠理はドレスの裾を彼の手ごとバサリと払った。

「だって、仕方ないだろう!食事に睡眠薬仕込まれて、ずっと眠ってたんだから!」

「下着姿のおまえの写真をメールで送ってきたんですよ、犯人は。それであのホテルの内装がわかったんですが」

清四郎は眉根を揉んだ。

「どんな薬を盛られたのか、気が気ではなかったが・・・」

「風邪薬だったんだろ?メシ食い終わった時、そう言われた」

「誘拐犯の出した食事をむしゃむしゃ食う奴がいますか!」

「だって、あいつら、結構紳士的だったぞ?」

監禁場所はホテルのシングルルーム。すぐに出された食事は、豪勢だった。

だから、悠理も目覚めたとき、犯人たちへの報復よりも、当日のはずの友人の結婚式が気になったのだ。

「その”紳士的な彼ら”には、制裁を加えさせていただきました」

清四郎は凄惨な笑みを浮かべた。

「こちらの精神的苦痛に見合う、相応の」

その笑みに、悠理は背筋が寒くなった。

誘拐犯がどういう目にあったのかは、聞かないでおくことにする。

警官の魅録がついていたのだから、ヤバイことはしてないだろうが――――魅録がやつれていたのは、本当に徹夜のためだったのだろうか?

 

清四郎は剣呑な目つきのまま、悠理に顔を向けた。

「だいたい、おまえは何回誘拐されれば、気が済むんです?」

「そ、そんなの、あたいのせいじゃないやい!」

悠理は唇を尖らせた。

「そもそも、あたいがよく誘拐されるのって、昔10億円誘拐が成功したかららしいぞ!今回の奴らが言ってた。あたいを誘拐したら、またあっさり金を出すに違いないって。だったら、おまえのせいじゃんか!」

まだ高校生の頃、倶楽部全員で成功させた偽装誘拐。それは、清四郎の策略だった。

「・・・誰の提案の偽装誘拐でしたっけ?」

「うっ」

悠理は指摘されて口ごもった。

ビビる誘拐犯の背を蹴り飛ばし自ら10億円奪取すべく清四郎を頼ったのは悠理自身であったのだから。

 

「まぁ、おまえがトラブルメーカーなのは、いまさらですがね」

清四郎は目を閉じて、深くシートに沈みこんだ。靴を脱いで、対面座席にスーツの足を乗せる。

フォーマルのネクタイを緩め、楽な姿勢を取った。

 

トラブルメーカーの悠理と、意地悪な清四郎。

ペットと主人。

ふたりの関係は、あの頃とほとんど変わらない。

そんな関係が、いまさら嫌なわけじゃない。

このまま、ずっと、自分たちは変わらないまま過ごしていくのかもしれない。

 

だけど、ほんの少し。変わったものもある。

スーパーマンの清四郎でも憔悴することがあるのだとは、結婚してから知った。

外面が良く隙のない紳士ぶりで売る清四郎も、悠理の前では、こんなだらしのない姿も平気で見せるから。

 

「・・・自分だって、ついこの間人質になったくせに」

「は?・・・もしかして、あの間抜けなスパイダーの一件ですか?」

清四郎は、鼻で笑った。

 

悠理を死ぬほど動転させた、テロリストによる剣菱本社ビル占拠事件。

警察に届けられた犯行声明では、人質は本社重役である清四郎。

しかし、警察に緊急対策本部が敷かれる頃には、清四郎は一味を拘束してのけ、お馬鹿テロリストを論破し説教をかましていた。

完全武装の悠理が機関銃片手に泣きながら突入した頃には、説教はイジメに変化していたという。

 

あのときの、自分の狼狽ぶりを思い出し――――恥ずかしさよりも、胸苦しさが蘇った。

目を閉じた清四郎の顔に、濃い疲労。それは、たぶん自分のせいなのだろう。

とにかく。

彼が悠理を案じてくれたことは確かなようだ。

 

「えと・・・清四郎、ちょっとでも横になる?」

広いリムジンの対面に移動しようと、悠理はシートから腰を浮かした。

せめて、彼が体を伸ばして横になれるように。

しかし。

目を閉じたまま、清四郎は片手で悠理を制した。

「悠理、そのままで」

清四郎に手を握られ、悠理はふたたび腰を下ろす。

「お言葉に甘えて、横にならせてもらいますよ」

「え?」

清四郎の上体が傾ぎ。悠理の膝の上に、清四郎は頭を乗せる。手をしっかりと握ったまま。

 

「〜〜〜・・・」

夫の重みを膝で受け止め、悠理は赤面した。

膝枕は、してもらったことは数あれど、したことはない。

甘えたように足を乗せられ、叩き落としたことはある。

そういえば、あのときも清四郎はひどく疲れていた。悠理が馬鹿な嫉妬にかられ、憔悴した清四郎を押し倒し、寝込ませた夜。

悠理は頭をぶんぶん振って、回想を遮った。

復縁の直接的きっかけになったあの一夜のことは、思い出したくもない。

 

清四郎は悠理の膝に頬を乗せ、目を閉じたまま。

しかし、眉根の皺は取れている。

向けられた顔は、いつもの意地悪なものではなく。安堵の色が浮かんだ、穏やかな表情だった。

「・・・今日だけの、特別サービスだぞ?」

悠理は肩の力を抜いた。

「おまえが、野梨子の結婚でショック受けてるみたいだからな」

「なに馬鹿言ってるんですか」

悠理の腹に顔をうずめ、清四郎はくぐもった声で反論。

「おまえを抱いて寝ないと、どうも熟睡できなくってね」

清四郎は悠理の腰に腕を回し抱きしめる。

「な、なに言ってんだい!月の半分、居ないくせに」

「だから、月の半分、熟睡してないんです。枕が変わると寛げないもんで」

「あたいは、抱き枕かよ!」

悠理の膝の上で、清四郎は肯定するかのようにクスクス笑った。

きっちり整えられた清四郎の髪を、悠理はくしゃくしゃ乱す。そうすれば、いつも隙のない清四郎も、悠理しか知らない悪戯っ子の顔になる。

悠理は清四郎の髪を、そのまま左手でぎこちなく撫でた。

「・・・眠っていいぞ。着いたら、起こしてやるから」

清四郎の口元がほころんだ。

握った右手は離さずに。

 

まもなく。

彼は穏やかな寝息を立て始める。

眠っているときだけは、いつも歳相応に若い顔。無防備な見慣れた寝顔を悠理は見つめる。

いつしか、悠理は彼を守るように抱きしめていた。

幼馴染で、悪友で、腐れ縁の夫を。

本当は、いつも守られているのは、悠理の方なのだけど。

 

「・・・ゆうり・・・」

 

小さく、彼の唇が名を呼ぶ。

「ん?」

悠理も小さく聞き返す。

 

だけど、答えは寝息と共に。

 

「良かった・・・」

 

寝言らしいそれは、悠理の無事を確かめて、彼が呟いた言葉と同じ。

どんな夢を見ているのか。

眠っているようなのに、握られた手に力が入る。

 

膝にかかる彼の重み。

抱きしめているのはどちらなのか。

慣れた胸苦しさが、悠理を襲う。

 

哀しいわけじゃない。淋しいわけじゃない。

幸せを感じても胸は痛むのだと、結婚してから知った。

 

自分が彼に何をもとめているのかわからない。

十分過ぎるほど、幸せなのだと思う。

 

だって。

分かっている。信じている。

いつでも、どんなときでも、彼が悠理を命がけで守ってくれることを。

 

「ありがと・・・清四郎」

 

だけど、感謝は小声で。起きている彼には言えない言葉。

 

いまさら、素直になれない。

もう何年も何年も、こうして過ごしてきた。

喧嘩して、仲直りして。

すれ違って、抱き合って。

 

”もしも”なんて、清四郎は嫌うけれど。

 

もしも、出会うことがなかったら。

もしも、別の人生を歩んでいたら。

 

あの幸せな日々は、あり得なかったと、分かっている。

 

だから。

こんな関係も、いいかな、と思う。

彼が、こんな顔を見せてくれるなら。

 

どれくらいの幸せをもらったのだろう。

皆から。清四郎から。

倶楽部の皆でした、たくさんの馬鹿騒ぎ。冒険。

もうあの日々は遠い思い出だけど、いまでも清四郎はここにいる。

変わったものもあるけれど、変わらないものもある。

 

出会って、良かったと――――いまは、思う。

胸の痛みは、幸せの副作用。

いつまでもこのままでいたいと望む、我がままの。

 

 

悠理は、眠る清四郎の髪を、ゆっくりと撫で続けた。

泣き虫な悠理に、いつも清四郎がそうしてくれるように。

 

俯いたときや、泣きたいときや。

疲れたときも、淋しいときも。

そばに、いてあげる。

 

『あなたがいて、良かった』なんて。

『ふたりでいられて、幸せだ』なんて。

 

 

眠る彼にさえ、それは言えないけれど。 

 

 

 

 

 

2005.10.20

 


 

「スパイダー」のちょっと後のお話です。悠理に逃亡さえされなければ現状で幸せな清四郎と、愛の自覚も実感もできないために、なんとなく不幸な悠理ちゃん。このシリーズはそんなふたりなんですが、時には悠理にも幸せを感じて欲しくって、花*花のタイトルお歌を聴きながら書きました。でもまー、やっぱり、清四郎のが幸せそうですな。(笑)

「下克上エクスタシー」は新幹線の中で執筆。これは飛行機の中。旅行に出ると「ららら」を書いてる気がします。

 

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