鏡の国のアリス 

4

 

A 

 

 

 ふあ。

悠理が大きな欠伸とともに身を起こす。

清四郎は彼女が自然に目覚めてくれたことに感謝しながら、カーテンを開けた。

「おはよう、悠理」

悠理は何度もまばたきしながら、寝ぼけ声で答える。

「おはよ、清四郎」

ふわりと浮かべたのは、輝くような笑みだった。

 

悠理はパジャマの両手を頭上に上げて伸びをした。薄い色の髪が朝日に透ける。

今日は朝から曇天なのに、暗い部屋に差し込んだ光に、清四郎は目を細めた。

眩しいのは、悠理の笑顔。白い頬。

清四郎はポーカーフェイスが崩れていないことを願った。

いつも通りの自分を、早く取り戻したかった。昨夜の自分は、どうかしていたのだ。

 

 

制服の襟のホックを掛けながら、清四郎は悠理に告げる。

「さぁ、今日は早めに学校へ行きますよ。いいですね?」

「うん、いいけど。でも、なんで?」

それは、仲間たちが心配して待ち構えているに違いないからなのだが。清四郎はどう答えようか思案する。

なにしろ、悠理は事態をまったく理解していない。

 

 

まだベッド上の悠理から、クスクス笑い声。清四郎が目を向けると、悠理はパジャマの膝を抱えて清四郎を見つめていた。

桃色に染まった頬。はにかんだ笑み。

清四郎の胸を衝く、幸福そうな笑顔。

「なにもせずに抱き合って寝たのなんか、初めてじゃん?」

彼女は清四郎が自分の夫なのだとまだ思っている。

「・・・なんか、いいね。こーゆーのも」

えへ、と照れ笑いする悠理から、たまらず清四郎は目を逸らした。

 

 

なにもせず、と悠理は言うが。

もうただの友人ではあり得ない行為を昨夜してしまったのだと、彼の方は自覚していた。

 

衝動にかられ、悠理に口付け吐息を奪った。

彼女の肌についた愛咬の痕を追い、貪った。

指で、舌で、彼女を絶頂に追いやり――――彼自身を彼女の中に埋めようと体を開かせた。

 

しかし。

 

最後の一線は越えることができなかった。

すんでのところで、かろうじて彼は自分を抑えることができた。

胸の痛みが、彼を止めたのだ。

 

彼を信頼しきった、無垢な少女。

胸のうちに息づく、もう一人の悠理の姿が。彼女への友情が、体と心の暴走をおし止めた。

欲望を隠すことができないまま、ただ抱きしめ。

結局、一睡もできないうちに、朝を迎えてしまった。腕の中の悠理の安らいだ寝息を、胸苦しく感じながら。

 

 

 

朝食を大量に摂取する悠理にあいかわらずだな、と思う。

昨夜からの驚天動地の現実が夢でないことは、彼女の肌の甘さを味わった彼自身は思い知っていたのだが。

清四郎は悠理に真実を話すタイミングを計っていた。

結局、話が出来たのは、学園へ向かう車中で。

 

「僕は、おまえの夫ではありません」

 

そう切り出した清四郎に、悠理は昨夜同じ事を告げたときのようには、泣き喚きはしなかった。

ただ、大きな瞳を見開き、彼の言葉を黙って聞いていた。

彼女も、多少の異常さは感じていたのだろう。

 

校門の前に車が止まるまでに、清四郎は話し終えていた。

こちらの世界での婚約騒動の顛末。そして、自分たちが元通りの友人に過ぎないこと。

「・・・・子供の頃から、おまえを好きだったのは・・・・」

 ――――僕では、ありません。

 そう口にしようとして、清四郎は躊躇した。

 

昨夜あんなふうに、彼女の唇を奪い肌を貪った自分には、そう言う権利はないと思った。

そして、何より、悠理を悲しませたくなくて。

”夫”を愛しているに違いない彼女を。

 

しかし。

悠理は睫を伏せた。

口元には笑み。

それは、哀しげな、諦めが漂う笑みだった。

「・・・・おまえは、あたいのこと、好きでもなんでもないんだ?」

その笑みは、清四郎の初めて見るの悠理の表情だった。

女の――――顔。

「悠理・・・・」

胸が締め付けられる。

こんな風に、彼の無邪気な友人と違う顔を見せられると、落ち着かない。

 

 

親しくなってからも、清四郎が悠理を女性として扱ったことはなかった。

有閑倶楽部の仲間たちには男女を越えた絆を感じている。特に悠理は、彼のお気に入りの人間びっくり箱だ。

自分の手の中で暴れまわる悠理。もちろん、いつでも彼女を助けるのは清四郎の役割で。

それを、他の誰にも譲る気はない。

 

あの利かん気で少年じみた彼女が、どこかで彷徨っている。

鏡の国か、それとも、平行世界か。

迷子になって、泣いているような気がした。清四郎を呼んでいるような気がした。

 

恋愛感情とは違う――――そう確信しながらも。 

悠理を大切に思う気持ちと、独占欲。

それは、認めなければならない。

 

 

「バチがあたっちゃったんだな」

車中で悠理はポツリとつぶやいた。

「あたいが、望んだんだ。こうなるように」

「え?どういうことです?」

「おまえとは、わけわかんないうちにいきなり結婚しちゃったじゃん?だから、ずっと思ってた・・・・元の友人に戻りたいって」

悠理は苦笑を清四郎に向けた。やけに、大人びた表情だった。

「おまえがあたいみたいなバカなんかを好きって言ってくれるの、ずっと、信じてなかったから」

清四郎は驚いて、悠理の笑みを見つめる。

「あたい、おまえにいつも酷いことばっか言ってた。”大嫌いだ”って」

それは、無理やり結婚させられ、強姦も同然に夫婦になったのだから、当然だろう。清四郎自身さえ、そう思ったのだが。

「だから、あたいは、このままでもいいんだ。心配しないで」

悠理の言葉に、胸がざわめいた。

 

「・・・おまえは、『僕』に恋していないから・・・?」

口から出たのは、詰問だった。

 

清四郎の言葉に、悠理の笑みは曇った。

瞳にかかる透明な膜。涙が滲む。

「・・・バチが当たっちゃった、ね」

清四郎の質問には答えないまま、ポロリと零れた涙が頬を転がり落ちた。

「・・・へへ・・」

悠理は笑みを浮かべたまま、俯いて涙を隠した。ごしごし制服の袖で顔を擦る。

意地っ張りなのに、泣き虫な悠理。

大人びた表情は消え、彼の知る少女がそこに居た。

だけど、悠理は泣きじゃくりはしなかった。声も立てず、華奢な肩を震わせた。

 

思わず、清四郎は悠理を抱きしめる。 

「必ず、なんとかしてやる・・・元の世界に戻る方法を探してやる!」

 

愛してやる――――と。

そう言った方が、悠理は安堵したかもしれない。彼女の世界の夫と同じように、清四郎が彼女を愛すればいい。

 

愛せない、というわけではない。

だけど、清四郎は気づいてしまった。

当然、とうに思い当たっていてもいいはずの事実に。

 

もうひとり悠理がいるように、もうひとりの清四郎がいる。

おそらくは、二人の悠理は交代し飛ばされた。

 

清四郎が昨夜悠理を抱けなかった、唯一の理由。

無意識でわかっていたのかもしれない。

彼がいまここにいる彼女を抱けば、平行世界の彼女をも、汚すことになる。

恋も知らない、無垢な彼女を。

どこかで、それを察していたのかもしれない。

 

鏡で隔てられた、異世界。

悠理の存在はその世界とリンクしている。

 

腕の中に黙って涙を流す彼女を抱きしめながら、清四郎の心はずっと泣きじゃくる少女の声を聴いていた。

 

取り戻さなければならない。

大事な少女を。

 

彼の、悠理を。

 

 

 

 

 B

 

 

昨夜泣きすぎたせいか、目が痛い。

 

悠理は車中で目をしばたかせた。

プレジデント学園の門扉が見えてくる。いつもより早めの登校のせいか、まだ送迎車の渋滞はなかった。

悠理はチラリと傍らの男の様子を伺った。

悠理と並んでシートに座っている清四郎は、きっちりと制服を着こんで隙のない生徒会長そのものだ。

それは、悠理にも見慣れた姿だった。

だけど、朝、彼の制服姿を見たときに、悠理は驚いてしまった。

彼が、高校生なのだと思わなかったから。

 

そうとはっきり意識していたわけではなかったが。どこかで、悠理は思っていたのだろう。

明らかに異世界。変わってしまった友人。

悠理がまぎれこんでしまったこの世界は、清四郎と結婚した遠い未来なのかもしれないと。

 

「ドラ@ンボールでもバッ@トゥザフューチャーでもないのか・・・ちぇ」

悠理の呟きを聞きとがめ、清四郎が片眉を上げた。

「説明したでしょう?パラレルワールドを」

「よくわかんなかった」

悠理は唇を尖らせて、プイと顔をそらせた。

 

まだ、清四郎の顔を直視できない。

だって、昨夜あんなことやそんなことをして――――平然としている彼の方がおかしいのだ。

,悠理は火照る頬を車の冷たい窓ガラスに押し付けた。

こっそりと隣をうかがうと、クスクス笑う気配。

「まだ、怒ってるんですか?」

「あ、あたりまえだろっ」

「耐えがたきを耐え、おまえの処女をふたたび奪う誘惑に打ち勝ったんですから、僕としては、褒めて欲しいくらいですがねぇ」

「なっ・・・」

あんまりな彼の言い草に、悠理は焦って運転席を伺う。しかし、忠実な運転手の名輪は彼らの会話を聞いてはいないようだった。

後部座席と運転席の間には、シャッター。本来の悠理の世界には、そんなものは設けられてはいなかった。

 

車も屋敷も自室も。悠理の知っている世界とは微妙に違ってしまっている。どこでも、清四郎の存在を感じずにはいられない。

悠理は思わず、自分の体を抱きしめていた。

悠理自身の体にも、残っている。彼の匂い。感触。

 

涼しい顔をして隣に座る彼が気になってしかたがない。

清四郎に感じる、怖れと圧迫感。

だけど実のところそれは、悠理にとって馴染みの感覚でもあった。

 

ずっと、子供の頃から。清四郎は悠理にとって”特別”だった。

気に食わないけれど、無視できない存在。追い払いたいのに、意識から消すこともできない。

仲が悪かった頃は、頭上のハエのような不快な存在に感じていた。

だから、仲間になり、友人となって。やっと悠理の胸のうちで彼の収まり場所が定まった。

意地悪だけど、頼りになる、悪友として。

 

久しぶりに、悠理は落ち着かない気分をもてあます。

収まっていたはずの心の居場所から、清四郎が抜け出そうとするから。

 

 

 

 

車は校門から少し距離を置いて止まる。

清四郎に促され、悠理は彼とともに車を降りた。

校門までの少しの距離を、並んで歩いた。清四郎は当然のような顔をしていたけれど。

悠理はどうにも落ち着かない。
自分の目の高さにある長身の肩が気になって仕方がなかった。

清四郎と連れ立って歩くことだって、別に珍しくなんてないのに。

 

「清四郎、悠理、おはようございます」

ちょうど校門前で背後から聞きなれた声に呼びかけられた。

「野梨子!」

悠理は友人の声に救われた思いで振り返った。

 

そうだ。悠理にとって、”特別”だったのは、清四郎だけじゃない。野梨子も同じ。

そして、彼女こそが、いつも清四郎の隣を歩いていたはず。

野梨子なら、このどこかボタンを掛け違ったような状況を正しく収めてくれる気がした。

悠理の心をざわめかせる、この事態を。

 

 「おまえら、昨日はどうしたんだ?」

野梨子に振り返った悠理は、彼女の隣に立っているもう一人の友人にやっと気がついた。

「魅録?」

ピンクの髪の魅録と、日本人形のような野梨子のツーショットは、珍しい。第一、まだいつも遅刻ギリギリの魅録の登校時間ではない。

「連絡もなく昨日休んだだろう」

「ああ・・・すみませんね。ちょっと悠理がトラブルに巻き込まれて」

「やっぱり、そうでしたの!」

 

校門前で立ち止まって話していると、新たに停車した送迎車から、もう一人の友人が降り立った。

「おはよう、みんな!」

華やかな雰囲気を振りまく美童だ。

今にも雨の降り出しそうな曇天に、彼の存在は雲間からの日光のように明るかった。

「もうすぐ雨が降り出すだろうから、可憐は遅刻かなぁ」

「まったく困ったものですわ」

「ちょっと、ちょっと、聞き捨てならないわね!ちゃんと来てるわよ!」

可憐が耳ざとく聞きつけ、小走りに走りよってきた。

長い巻き毛が聖プレジデント学院の制服をゴージャスなものに見せている。

 有閑倶楽部勢ぞろい。

いつも通りに見える、友人たち。

悠理は黙って彼らの会話を聞いていた。

いつも通りに見えるのに――――どこか、違和感。

 

”おまえは、別の平行世界からこちらの世界に紛れ込んでしまったんですよ。”

清四郎の言葉を思い出す。

 

「おまえら夫婦揃って休むから、絶対なんかあったな、と思ってたぜ」

「ええ・・・まぁ。あとでゆっくり説明しますよ」

 悠理は魅録の口にした”夫婦”という言葉に、びくん、と身を震わせた。

この世界にいると、わからなくなる。おかしいのは悠理の記憶のような気さえする。

 

「の、野梨子!あのさっ」

悠理は縋るような思いで、傍らの小柄な幼馴染に向きなおった。

「なんですの?」

野梨子はきょとんと小首を傾げる。

「おまえはさ、なんとも思わないのかよっ?!あたいと清四郎が・・・その、”結婚”だなんて!」

「はぁ?」

どうにも慣れない単語”結婚”が小さすぎたせいだろうか。野梨子は意味がわからない、と言いたげに大きな目を見開いた。

「悠理、ここでその話は・・・。後にしましょう」

清四郎の制止も聞かず、悠理は野梨子に詰め寄った。

「あたい、信じられないんだ!なんだってあたいとこいつが、ふ・・・”夫婦”なんだよ?!」

 

「「「・・・・・・。」」」

 

仲間たちはあっけに取られた顔で悠理を見つめている。

清四郎が悠理の肩に手をおき、コホンと咳をついた。

「・・・・つまり、これがトラブルです。悠理には僕と結婚した記憶がない。いや、この場にいる悠理は、僕らの世界の悠理とは別人なんです」

 

「「「・・・・・・。」」」

 

ゴロゴロゴロと遠雷が鳴る。

 

「・・・・なんの冗談ですの?」

倶楽部一の現実主義者である野梨子が、眉を寄せた。仲間たちは、悠理の頭のてっぺんからつま先までを順に見る。

「いつも通りの悠理に見えますけど?」

「なんかちょっと髪切った?」

「今朝櫛で梳いて来なかったわね。ぐしゃぐしゃよぉ。ほっぺにパン屑つけてるし」

「でも悠理だよな、どう見ても」

 

仲間たちの言葉に、清四郎は苦笑している。彼自身は、悠理が彼の妻ではないことを昨夜しっかり確認済みなのだが。

「あたいは、あたいだよ!」

悠理は必死で叫んだ。

「だけど、あたいが清四郎と・・・その、け、”結婚”してるなんて、どー考えてもヘンじゃないか!!」

 

仲間たちは顔を見合わせて苦笑した。

「まーた、夫婦喧嘩してるの?」

「悠理もいいかげんに諦めればよろしいのに」

 

 クスクス苦笑している野梨子の言葉に、悠理は愕然と固まる。

 

「清四郎はずっと悠理のことを想ってきましたのに、まだ信じられませんの?」

 

 

”清四郎は、悠理を愛しているようには見えませんわ!悠理が可哀想です!”

かつて清四郎と悠理が婚約したとき。野梨子は怒りに震え、清四郎の頬を叩いた。

それは『重度のブラコンのなせるわざ』とのコメントつきで、あとで美童と可憐から聞かされた一件。

 

昨夜から何度も思い知らされていたこととはいえ。

やはりこの世界の清四郎は、悠理の知る彼じゃない。そのことを、野梨子の言葉は裏付けていた。

 

”僕は悠理をずっと好きだった。”

何度も愛を囁く、悠理の知らない清四郎。

 

あの意地悪な友人とは彼は違うのだと、思えば思うほど。

 

悠理の胸は苦しくなった。

 

その理由なんて、わからない。ただ、会いたかった。あの、友人に。

悠理が暴走しても、平然と後ろで笑っている。

策略家で悪人で。

だけど、いつだって、悠理を助けてくれる。

愉快気に輝く黒い瞳。

悠理を安堵させる落ち着いた物腰。

あの瞳に浮かぶのは、友情以外の感情ではない。

熱く、恋など語らない。

 

あの彼に会いたかった。

悠理が勘違いしてしまわないうちに。

 

 間違ってしまわぬうちに。

 

 

 

 NEXT

今回、ぜんぜん話が進んでませんね〜〜つまんなくってすみません。(涙) 前回から行くとこまで行っちゃおうか、とも思ってたんですが。AB両方とも寸止め(笑)で終わりました。感情の着地点を考えていないので、どういうラストになるやら。

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