A
清四郎は生徒会室のドアを開ける。 予想通り、探していた姿を見つけ、ため息をついた。 「やっぱりここに居たんですね」
授業の間中、清四郎は悠理の様子が気になって仕方がなかった。休み時間になって教室に覗きに行くと、悠理の姿は消えていた。 清四郎に気づいたクラスメートの魅録が、空いた悠理の席に肩をすくめてみせる。 清四郎は彼に、わかっている、と頷き、その足で部室に向かったのだ。
「せいしろ・・・」 テーブルに突っ伏していた悠理が顔を上げる。 居眠りをしていたのか、髪は飛びはねぼんやり顔。 それは、授業サボリの常習犯、いつも通りの悠理の姿に見えて――――やはり、違った。 悠理の座っている席は、いつもの彼女の席ではなかった。 テーブルの上に雑誌とノートPCが置いてある、清四郎自身の席。
ずきん、と胸が疼く。 悠理の双眸が、真っ赤に染まっていたから。
「あ・・・ね、眠っちゃってたよ」 悠理はへへ、と笑みを見せながら席を立った。 清四郎も苦笑を浮かべる。ドアに背を預け、腕を組んだ。 「・・・てっきり早弁でもしているのかと思いましたが」 軽い口調で、気づかないフリをする。 悠理のその笑顔は、無理をしているのだとはわかっていたけれど。
悠理は清四郎から距離を取るように、窓辺に立った。 「いま何時間目?おまえも、サボリかよ」 悠理は窓の外の暗さに眉を顰めた。 「まさか、もう放課後か?あたい、そんなに寝てたっけ」 雨が降り始めた空は暗く、まるで夕刻のようだ。 「まだ、昼休み前です。今日は午後から嵐の予報ですからね」 窓を叩く雨足は強まっている。 遠く雷の音が聴こえ、悠理の肩がビクリと震えた。 「雷、嫌いでしたっけ?」
清四郎の知っている、悠理の嫌いなもの。 幽霊、蛇、勉強、そして――――行儀作法を強制する口煩い押しかけ婚約者。 そのはずだった。
「ううん。嫌いじゃないけど」 「じゃあ、怖いんですか?」 悠理はふるふる首を振った。 窓の外に顔を向ける。 夜のように暗くなってしまった空。窓ガラスには室内が映し出されていた。 「怖くなんか、ないやい」 遠かった雷が近づいて来る。稲妻が光った。 窓に映っているのは、言葉に反して不安そうな悠理の顔。そして、清四郎自身の姿。
「・・・悠理」 清四郎は悠理に近づき、肩に手を置いた。 こんなに彼女が華奢な体なのだとは、昨夜初めて気づいたばかり。 思わず、また抱きしめてしまいそうになる自分を、清四郎は抑えなければならなかった。 「今夜、部屋の鏡を調べてみましょう」 悠理は振り返らないまま、ぶるっと身を震わせる。 「おや、怖いんですか?」 からかい口調をわざと作った。 「ちょうど、0時だったって、言ってましたよね?」 「・・・うん」 「やはりその時間に二つの平行世界がリンクする可能性があるな。そう言えば、おまえが鏡から現われたのもそのくらいの時間でしたし」 悠理はようやく、清四郎を振り返った。 「清四郎・・・おまえも、一緒に居てくれる?」 肩に置かれた清四郎の手に、悠理の小さな手が重なった。 冷たいその感触に、胸が震えた。
あり得ないはずの、自分と悠理の結婚生活。 悠理がこちらの世界に来たとき。夫婦の寝室に、ふたりはいたのだ。 昨夜の記憶に、身のうちが熱くなる。 清四郎は、ごくりと息を飲み込んだ。その音が、ひどく恥ずかしかった。
悠理とは、ただの友人。彼の悠理は、無邪気で無垢な子供のまま。 ――――恋なんてしない。 いま目の前にいる悠理の潤んだ瞳が、切なく彼を求めても。 ――――彼の悠理は、清四郎に恋なんてしない。 清四郎がどれほど彼女を、大切に思っていても。
「・・・ええ、もちろんですよ」
友人に過ぎなくても、清四郎は悠理と共に居る。 悠理を守るのは、彼の役目。 それだけは、あちらでもこちらでも同じはず。
遅すぎる返答に、悠理の目が曇った。 ふい、と視線はそらされ、清四郎の手から彼女の手が離れる。 悠理は窓ガラスに両手をついて外に顔を向けた。 清四郎も彼女の視線を追って、窓の外を見る。雨が、聖プレジデント学園の古い校舎を暗く覆っていた。 時折走る稲光。 静寂とは程遠い雷と雨音。 しかし、多くの生徒たちをその中に守る校舎は静まり返り、まるで校内に居るのは自分たちだけのような錯覚を感じた。
ふと。 窓ガラスに映った悠理の目と目が合った。 眉を顰めていた悠理は清四郎の視線に気づき、に、と歯を見せて口の端を上げた。 ヘタクソな作り笑い。 清四郎もつられて苦笑する。 すると、馬鹿にされたとでも思ったのか、悠理はぷぅ、と頬を膨らませた。 尖らせた唇がタコのようで、清四郎も今度は本当に、ぷ、と吹き出す。 それは、子供じみた彼の知る悠理の表情そのものだった。
胸の痛みが和らぐ。 こうして、元のような友人に戻ることができればいいと思う。
――――悠理は、恋なんてしない。
だから、清四郎が男として彼女を求めれば、悠理を傷つけるに違いない。 きっと失ってしまう。やっと得た、信頼も友情も。 彼女を守ることのできる位置も。
恋なんてしない悠理。恋なんてできない清四郎。 そのままで、いい。
自分の胸のうちを見つめることをやめ、清四郎は悠理に笑みを向けた。 いつもの余裕を、取り戻せた気がした。
「せいし・・・ろ?」 窓ガラス越しに、悠理は不思議そうな顔した。
ふいに、悠理の目が大きく見開かれる。 信じられないと、唇が震えた。
蒼ざめた悠理の表情に、胸がざわめく。 不快な、感覚。
「悠理?」 清四郎も、異変を感じた。 霊感もなく、超常現象の察知も鈍い、清四郎でも。
気がつけば、窓を叩いていた雨音が止んでいた。 そして、窓ガラスに映った部室の時計の針がカチリと重なる。 正午を差して。
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B
「悠理・・・」 肩に手を置かれただけで、悠理の体に震えが走った。 窓ガラスに手をついたまま、悠理は清四郎を見つめる。
授業をサボるのは、いつものことだけど。 清四郎が気づいて、追いかけてくるとは、思わなかった。
外は嵐。 稲光が暗い空に走る。 だけど、悠理が慄いたのは、雷を恐れてではなかった。
肩に置かれた清四郎の指が、悠理の髪の先を摘んでもてあそぶ。 そのまま、ゆっくりと髪を梳き撫でる大きな手。 その感触に、心が震えた。
たまらず身じろぐと、清四郎は手を放した。 ガラス越しに見える清四郎の目は、熱い眼差し。
「わかってください。おまえが、違う世界の悠理でも、おまえが、おまえである限り・・・僕の愛しい悠理だ」
悠理は首を振った。
「・・・あたいの清四郎は、おまえじゃない」
清四郎は悠理の言葉に目を細めた。
「”あたいの清四郎”か・・・」
清四郎の顔に苦笑が浮かぶ。
「少しは、”僕”はおまえの心の中に居るんですね?」 「!!」
悠理は顔に血が上って来るのを意識した。ガラスに映った自分の顔色は良くわからないけれど。
”あたりまえだろ、友達なんだから!” ”苛めっ子の悪友としてだじょ!”
そんなふうに言い返そうとしたけれど、言葉は上手く出なかった。 ガラス越しの彼に、イーッと歯を剥き出して睨みつけた。 清四郎は悠理の子供っぽさに呆れてか、肩をすくめる。 その馬鹿にしたような仕草に、悠理は口を尖らせて膨れた。
それでも。 清四郎のそれは、まるであの意地悪な友人の仕草そのままで。 胸の痛みが和らいだ。 会いたいと思っていたあの彼がそこに居るようで。 そう。 苦しくなるほど、悠理は会いたかったのだ。 彼女の、清四郎に。
熱く愛を告げる、別世界の清四郎。 その彼を、嫌いなわけじゃない。 だけど、胸のうちで、誰かが囁く。
――――清四郎は、恋なんてしない。
その誰かは、きっと悠理自身。流されそうになる悠理を止める、彼女自身の理性の声。
――――彼は、悠理に恋なんてしない。
馬鹿な悠理でも、知っている事実。 なぜか胸の痛くなる、事実。
「清四郎、あたい・・・」 何を言うつもりだったのか。悠理は、窓ガラス越しの彼に話しかけていた。 しかし、語尾は消える。 ぞくりと、首筋に震えが走った。全身の毛穴が開く。
明らかな、異常。空間が捻じ曲がる。 意識するより先に、本能が察知する。
いつしか、窓を打ち付けていた雨音が聴こえなくなっていた。 暗闇に覆われた窓の外。漆黒。 見えるのは、鏡面のようなガラスに映った、自分と清四郎の驚愕の表情だけ。
いや。 部室内の時計が映っていた。
カチリ。
重なる針。真っ直ぐに、天空を指して。 あの始まりの夜、鏡に映っていた時計の針と、同じように。
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突然の異変。
窓ガラスに映っているのは、もう部室内の悠理でも清四郎でもなかった。 そこには何も見えない。だけど、異常だけははっきり察せられる。 古い木の格子の入ったガラス窓は、変質していた。 例えるなら、穴。ぽっかりと開いた、異世界への扉。
目の前で口を開けた異空間に、二人とも身動き一つ叶わなかった。 霊体験も異常事態も経験豊富な彼らが動けないのは、驚愕のためではない。 金縛りに、囚われていたのだ。
時間が止まったように感じられた。 ガラスにはもう時計は映っていないけれど、針の動く音もしなかった。
ふらりと悠理の体が傾いだ。 まるで、悠理ひとりをそこに吸い込もうとするように、異空間は見えざる手を彼女に伸ばす。 いや、異世界に飛び込もうと、悠理自身が望んでいたのだ。
帰りたい――――そう彼女が、心から望んだから。
それは、二つの世界のどちら側でも。
二つの世界で、二人の清四郎が、同時に叫んだ。
「悠理、僕も行きます!」
それは、咄嗟に出た言葉だった。 彼の世界の悠理を、その場で待てばいい――――そのはずなのに。 体を封じようとする金縛りを制してまで、清四郎は叫んでいた。 耐えられなかった。 悠理を危険の中に、ひとり飛び込ませることなど。
「おまえが、僕の悠理でなくても・・・”悠理”なんだ!」
ほんの少し、違う角を曲がっただけ。 清四郎が悠理と共に歩んできた道は、同じはず。
「悠理は、僕が守る!」
それは清四郎にとっては当然の義務。そして、権利だった。 他の誰にも、譲るつもりはない。たとえそれが、異世界の自分であっても。
二つの世界で、二人の悠理が、ゆっくりと彼に振り返る。
「・・・あたい、ひとりで行かなきゃ」
彼女は不安と恐怖で泣き出しそうに顔をゆがめながらも、首を振った。 「悠理、なぜ?!」 清四郎は悠理に近づこうとするが、水の中を動くように体がままならない。至近距離の悠理との間に、見えない壁を感じる。 透明な壁の向こうで、悠理は清四郎に笑顔を見せた。
「戻ってきたとき・・・戻った世界で、清四郎が居なきゃ、やだもん!」
そう言って、悠理はふわりと身を躍らせる。窓のあった場所へ。 異空間へ。
「悠理ーーーっ!!」
振り絞るような絶叫とともに、金縛りは完全に解けた。 悠理の消えた窓に清四郎が駆け寄ったとき、部室のドアが開いた。
「ああ、やっと開いた。鍵でも閉めてたの?せいし・・・」 「清四郎?!」
ドアを開けたのは、魅録と可憐。彼らが見たのは、窓ガラスを割らんばかりの勢いで押し開け、飛び出そうとする清四郎の姿だった。
暴風と雨が、開け放たれた窓から部室に入り込む。 容赦なく、叩きつける雨。 窓の外は、もちろんもう異世界などではなかった。 冬嵐の午後の校庭が広がっている。
「悠理・・・!」
それでも見えない彼女を探して窓枠に足を掛けた清四郎を、慌てて魅録が羽交い絞めにして止める。
「清四郎、正気か?!飛び降りる気かよっ」
叩きつける雨が清四郎の髪を乱し、常の冷静な印象を消していた。 そして、清四郎はやはり動転していたのだ。 不安が暴風のように清四郎の胸を乱す。
――――もしも、悠理を失ったら? ――――もう二度と、戻って来なかったら?
先ほどまで目の前にいた彼女は、彼の世界の悠理ではない。 そんなことはわかっている。 だけど、彼女が虚空へ消えて、初めて清四郎の胸に後悔の念が沸き起こった。
彼女は、それでも”悠理”だったのだ。 ほんの少し、辿ってきた道が違うだけ。
手を放してはいけなかった。 もっと、きつく抱きしめれば良かった。 ――――もっと、心のままに、彼女を愛すれば良かった。
そう、確かに、清四郎の胸の中に、彼女を求める感情は息づいているのだから。 苦しいほど。狂おしいほど。
「・・・・魅録、可憐」
冷たい冬の雨にずぶ濡れになりながら、清四郎は友人たちに顔を向けた。
「頼みが、あります」
ようやっと彼が出せた声は、情けないほど掠れていた。
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今回で終われるかと思ってたんですが。まだもうちょっと続きます。たらたらした歩みですみませぬ。なんかABの他にもうひとつ書いちゃったし。AB共通、とでも思ってください。(←アバウト)
ま、結局ABの悠理ちゃんも清四郎くんも、当初思ってたほどは人格違わないみたいです。自覚度合いと経験の差だけかも・・・(笑)