鏡の国のアリス 

5

 

A 

 

 

清四郎は生徒会室のドアを開ける。

予想通り、探していた姿を見つけ、ため息をついた。

「やっぱりここに居たんですね」

 

授業の間中、清四郎は悠理の様子が気になって仕方がなかった。休み時間になって教室に覗きに行くと、悠理の姿は消えていた。

清四郎に気づいたクラスメートの魅録が、空いた悠理の席に肩をすくめてみせる。

清四郎は彼に、わかっている、と頷き、その足で部室に向かったのだ。

 

 

 

「せいしろ・・・」

テーブルに突っ伏していた悠理が顔を上げる。

居眠りをしていたのか、髪は飛びはねぼんやり顔。

それは、授業サボリの常習犯、いつも通りの悠理の姿に見えて――――やはり、違った。

悠理の座っている席は、いつもの彼女の席ではなかった。

テーブルの上に雑誌とノートPCが置いてある、清四郎自身の席。

 

ずきん、と胸が疼く。

悠理の双眸が、真っ赤に染まっていたから。

 

「あ・・・ね、眠っちゃってたよ」

悠理はへへ、と笑みを見せながら席を立った。

清四郎も苦笑を浮かべる。ドアに背を預け、腕を組んだ。

「・・・てっきり早弁でもしているのかと思いましたが」

軽い口調で、気づかないフリをする。

悠理のその笑顔は、無理をしているのだとはわかっていたけれど。

 

悠理は清四郎から距離を取るように、窓辺に立った。

「いま何時間目?おまえも、サボリかよ」

悠理は窓の外の暗さに眉を顰めた。

「まさか、もう放課後か?あたい、そんなに寝てたっけ」

雨が降り始めた空は暗く、まるで夕刻のようだ。

「まだ、昼休み前です。今日は午後から嵐の予報ですからね」

窓を叩く雨足は強まっている。

遠く雷の音が聴こえ、悠理の肩がビクリと震えた。

「雷、嫌いでしたっけ?」

 

清四郎の知っている、悠理の嫌いなもの。

幽霊、蛇、勉強、そして――――行儀作法を強制する口煩い押しかけ婚約者。

そのはずだった。

 

「ううん。嫌いじゃないけど」

「じゃあ、怖いんですか?」

悠理はふるふる首を振った。

窓の外に顔を向ける。

夜のように暗くなってしまった空。窓ガラスには室内が映し出されていた。

「怖くなんか、ないやい」

遠かった雷が近づいて来る。稲妻が光った。

窓に映っているのは、言葉に反して不安そうな悠理の顔。そして、清四郎自身の姿。

 

「・・・悠理」

清四郎は悠理に近づき、肩に手を置いた。

こんなに彼女が華奢な体なのだとは、昨夜初めて気づいたばかり。

思わず、また抱きしめてしまいそうになる自分を、清四郎は抑えなければならなかった。

「今夜、部屋の鏡を調べてみましょう」

悠理は振り返らないまま、ぶるっと身を震わせる。

「おや、怖いんですか?」

からかい口調をわざと作った。

「ちょうど、0時だったって、言ってましたよね?」

「・・・うん」

「やはりその時間に二つの平行世界がリンクする可能性があるな。そう言えば、おまえが鏡から現われたのもそのくらいの時間でしたし」

悠理はようやく、清四郎を振り返った。

「清四郎・・・おまえも、一緒に居てくれる?」

肩に置かれた清四郎の手に、悠理の小さな手が重なった。

冷たいその感触に、胸が震えた。

 

あり得ないはずの、自分と悠理の結婚生活。

悠理がこちらの世界に来たとき。夫婦の寝室に、ふたりはいたのだ。

昨夜の記憶に、身のうちが熱くなる。

清四郎は、ごくりと息を飲み込んだ。その音が、ひどく恥ずかしかった。

 

 

悠理とは、ただの友人。彼の悠理は、無邪気で無垢な子供のまま。

――――恋なんてしない。

いま目の前にいる悠理の潤んだ瞳が、切なく彼を求めても。

――――彼の悠理は、清四郎に恋なんてしない。

清四郎がどれほど彼女を、大切に思っていても。

 

 

「・・・ええ、もちろんですよ」

 

友人に過ぎなくても、清四郎は悠理と共に居る。

悠理を守るのは、彼の役目。

それだけは、あちらでもこちらでも同じはず。

 

遅すぎる返答に、悠理の目が曇った。

ふい、と視線はそらされ、清四郎の手から彼女の手が離れる。

悠理は窓ガラスに両手をついて外に顔を向けた。

清四郎も彼女の視線を追って、窓の外を見る。雨が、聖プレジデント学園の古い校舎を暗く覆っていた。

時折走る稲光。

静寂とは程遠い雷と雨音。

しかし、多くの生徒たちをその中に守る校舎は静まり返り、まるで校内に居るのは自分たちだけのような錯覚を感じた。

 

ふと。

窓ガラスに映った悠理の目と目が合った。

眉を顰めていた悠理は清四郎の視線に気づき、に、と歯を見せて口の端を上げた。

ヘタクソな作り笑い。

清四郎もつられて苦笑する。

すると、馬鹿にされたとでも思ったのか、悠理はぷぅ、と頬を膨らませた。

尖らせた唇がタコのようで、清四郎も今度は本当に、ぷ、と吹き出す。

それは、子供じみた彼の知る悠理の表情そのものだった。

 

胸の痛みが和らぐ。

こうして、元のような友人に戻ることができればいいと思う。

 

――――悠理は、恋なんてしない。

 

だから、清四郎が男として彼女を求めれば、悠理を傷つけるに違いない。

きっと失ってしまう。やっと得た、信頼も友情も。

彼女を守ることのできる位置も。

 

恋なんてしない悠理。恋なんてできない清四郎。

そのままで、いい。

 

自分の胸のうちを見つめることをやめ、清四郎は悠理に笑みを向けた。

いつもの余裕を、取り戻せた気がした。

 

「せいし・・・ろ?」

窓ガラス越しに、悠理は不思議そうな顔した。

 

ふいに、悠理の目が大きく見開かれる。

信じられないと、唇が震えた。

 

蒼ざめた悠理の表情に、胸がざわめく。

不快な、感覚。

 

「悠理?」

清四郎も、異変を感じた。

霊感もなく、超常現象の察知も鈍い、清四郎でも。

 

気がつけば、窓を叩いていた雨音が止んでいた。

そして、窓ガラスに映った部室の時計の針がカチリと重なる。

正午を差して。

 

 

 

 B

 

 

「悠理・・・」

肩に手を置かれただけで、悠理の体に震えが走った。

窓ガラスに手をついたまま、悠理は清四郎を見つめる。

 

授業をサボるのは、いつものことだけど。

清四郎が気づいて、追いかけてくるとは、思わなかった。

 

外は嵐。

稲光が暗い空に走る。

だけど、悠理が慄いたのは、雷を恐れてではなかった。

 

肩に置かれた清四郎の指が、悠理の髪の先を摘んでもてあそぶ。

そのまま、ゆっくりと髪を梳き撫でる大きな手。

その感触に、心が震えた。

 

たまらず身じろぐと、清四郎は手を放した。

ガラス越しに見える清四郎の目は、熱い眼差し。

 

「わかってください。おまえが、違う世界の悠理でも、おまえが、おまえである限り・・・僕の愛しい悠理だ」

 

悠理は首を振った。

 

「・・・あたいの清四郎は、おまえじゃない」

 

清四郎は悠理の言葉に目を細めた。

 

「”あたいの清四郎”か・・・」

 

清四郎の顔に苦笑が浮かぶ。

 

「少しは、”僕”はおまえの心の中に居るんですね?」

「!!」

 

悠理は顔に血が上って来るのを意識した。ガラスに映った自分の顔色は良くわからないけれど。

 

”あたりまえだろ、友達なんだから!”

”苛めっ子の悪友としてだじょ!”

 

そんなふうに言い返そうとしたけれど、言葉は上手く出なかった。

ガラス越しの彼に、イーッと歯を剥き出して睨みつけた。

清四郎は悠理の子供っぽさに呆れてか、肩をすくめる。

その馬鹿にしたような仕草に、悠理は口を尖らせて膨れた。

 

それでも。

清四郎のそれは、まるであの意地悪な友人の仕草そのままで。

胸の痛みが和らいだ。

会いたいと思っていたあの彼がそこに居るようで。

そう。

苦しくなるほど、悠理は会いたかったのだ。

彼女の、清四郎に。

 

熱く愛を告げる、別世界の清四郎。

その彼を、嫌いなわけじゃない。

だけど、胸のうちで、誰かが囁く。

 

――――清四郎は、恋なんてしない。

 

その誰かは、きっと悠理自身。流されそうになる悠理を止める、彼女自身の理性の声。

 

――――彼は、悠理に恋なんてしない。

 

馬鹿な悠理でも、知っている事実。

なぜか胸の痛くなる、事実。

 

「清四郎、あたい・・・」

何を言うつもりだったのか。悠理は、窓ガラス越しの彼に話しかけていた。

しかし、語尾は消える。

ぞくりと、首筋に震えが走った。全身の毛穴が開く。

 

明らかな、異常。空間が捻じ曲がる。

意識するより先に、本能が察知する。

 

いつしか、窓を打ち付けていた雨音が聴こえなくなっていた。

暗闇に覆われた窓の外。漆黒。

見えるのは、鏡面のようなガラスに映った、自分と清四郎の驚愕の表情だけ。

 

いや。

部室内の時計が映っていた。

 

カチリ。

 

重なる針。真っ直ぐに、天空を指して。

あの始まりの夜、鏡に映っていた時計の針と、同じように。

 

 

 

 

 

 

 

突然の異変。

 

窓ガラスに映っているのは、もう部室内の悠理でも清四郎でもなかった。

そこには何も見えない。だけど、異常だけははっきり察せられる。

古い木の格子の入ったガラス窓は、変質していた。

例えるなら、穴。ぽっかりと開いた、異世界への扉。

 

目の前で口を開けた異空間に、二人とも身動き一つ叶わなかった。

霊体験も異常事態も経験豊富な彼らが動けないのは、驚愕のためではない。

金縛りに、囚われていたのだ。

 

時間が止まったように感じられた。

ガラスにはもう時計は映っていないけれど、針の動く音もしなかった。

 

ふらりと悠理の体が傾いだ。

まるで、悠理ひとりをそこに吸い込もうとするように、異空間は見えざる手を彼女に伸ばす。

いや、異世界に飛び込もうと、悠理自身が望んでいたのだ。

 

帰りたい――――そう彼女が、心から望んだから。

 

それは、二つの世界のどちら側でも。

 

 

二つの世界で、二人の清四郎が、同時に叫んだ。

 

「悠理、僕も行きます!」

 

それは、咄嗟に出た言葉だった。

彼の世界の悠理を、その場で待てばいい――――そのはずなのに。

体を封じようとする金縛りを制してまで、清四郎は叫んでいた。

耐えられなかった。

悠理を危険の中に、ひとり飛び込ませることなど。

 

「おまえが、僕の悠理でなくても・・・”悠理”なんだ!」

 

ほんの少し、違う角を曲がっただけ。

清四郎が悠理と共に歩んできた道は、同じはず。

 

「悠理は、僕が守る!」

 

それは清四郎にとっては当然の義務。そして、権利だった。

他の誰にも、譲るつもりはない。たとえそれが、異世界の自分であっても。

 

 

二つの世界で、二人の悠理が、ゆっくりと彼に振り返る。

 

「・・・あたい、ひとりで行かなきゃ」

 

彼女は不安と恐怖で泣き出しそうに顔をゆがめながらも、首を振った。

「悠理、なぜ?!」

清四郎は悠理に近づこうとするが、水の中を動くように体がままならない。至近距離の悠理との間に、見えない壁を感じる。

透明な壁の向こうで、悠理は清四郎に笑顔を見せた。

 

「戻ってきたとき・・・戻った世界で、清四郎が居なきゃ、やだもん!」

 

そう言って、悠理はふわりと身を躍らせる。窓のあった場所へ。

異空間へ。

 

「悠理ーーーっ!!」

 

振り絞るような絶叫とともに、金縛りは完全に解けた。

悠理の消えた窓に清四郎が駆け寄ったとき、部室のドアが開いた。

 

「ああ、やっと開いた。鍵でも閉めてたの?せいし・・・」

「清四郎?!」

 

ドアを開けたのは、魅録と可憐。彼らが見たのは、窓ガラスを割らんばかりの勢いで押し開け、飛び出そうとする清四郎の姿だった。

 

暴風と雨が、開け放たれた窓から部室に入り込む。

容赦なく、叩きつける雨。

窓の外は、もちろんもう異世界などではなかった。

冬嵐の午後の校庭が広がっている。

 

「悠理・・・!」

 

それでも見えない彼女を探して窓枠に足を掛けた清四郎を、慌てて魅録が羽交い絞めにして止める。

 

「清四郎、正気か?!飛び降りる気かよっ」

 

叩きつける雨が清四郎の髪を乱し、常の冷静な印象を消していた。

そして、清四郎はやはり動転していたのだ。

不安が暴風のように清四郎の胸を乱す。

 

――――もしも、悠理を失ったら?

――――もう二度と、戻って来なかったら?

 

先ほどまで目の前にいた彼女は、彼の世界の悠理ではない。

そんなことはわかっている。

だけど、彼女が虚空へ消えて、初めて清四郎の胸に後悔の念が沸き起こった。

 

彼女は、それでも”悠理”だったのだ。

ほんの少し、辿ってきた道が違うだけ。

 

手を放してはいけなかった。

もっと、きつく抱きしめれば良かった。

――――もっと、心のままに、彼女を愛すれば良かった。

 

 

そう、確かに、清四郎の胸の中に、彼女を求める感情は息づいているのだから。

苦しいほど。狂おしいほど。

 

 

 

「・・・・魅録、可憐」

 

冷たい冬の雨にずぶ濡れになりながら、清四郎は友人たちに顔を向けた。

 

「頼みが、あります」

 

ようやっと彼が出せた声は、情けないほど掠れていた。

 

 

 

 

 

 NEXT

 

今回で終われるかと思ってたんですが。まだもうちょっと続きます。たらたらした歩みですみませぬ。なんかABの他にもうひとつ書いちゃったし。AB共通、とでも思ってください。(←アバウト)

ま、結局ABの悠理ちゃんも清四郎くんも、当初思ってたほどは人格違わないみたいです。自覚度合いと経験の差だけかも・・・(笑)

 

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