鏡の国のアリス 

6

 

 

ここは――――?

 

知っている。一度、ここに囚われたことがある。

あの鏡の中。異次元空間だ。

 

視界は利かず、体の自由もない。

だけど、苦痛は感じなかった。

時間の流れが止まっている。

いや、止まっているのは、霞がかかったようにぼんやりとしか考えられない悠理の頭の中だけなのだろう。

 

時折、嵐の中で稲妻が走るように、外の光景を見ることができた。

おそらくは、鏡の向こうの世界。いまはまだ遠い世界。

悠理の知っている場所もあったし、知らない場所もあった。

 

ゆっくりと、悠理の思考は一点に向かう。

 

――――清四郎。

 

別れ際の彼の叫びが、表情が、胸を締め付けた。

 

――――あたいが戻ったとき、そこに居てくれるよね?

 

ただ、帰りたかった。

 

彼女の、世界へ。

清四郎の元へ。 

 

 

 

A 

 

 

 

「悠理が消えたのはちょうど12時。午前と午後の違いはあるが、鏡に飲み込まれたときと同じです」

清四郎は蒼ざめた顔を仲間たちに向けた。

昼休みになり、魅録と可憐だけでなく、野梨子と美童も部室に揃っている。

いないのは、悠理だけ。

悠理は消えてしまった。ふたたび、鏡の国に囚われて。

 

 

「僕もガラスに映った時計の針が重なる様をはっきりと見ました。まるで、時間の流れが遅くなったような不自然な動きだった」

誰もが清四郎の言葉を固唾を飲んで聞いていた。

乱れた髪もそのままに窓を見つめる清四郎の表情には、冗談や疑念を挟む余地はない。

「向こうとこちらで時計の重なるときがそうだというなら、618時も可能性があるが、やはり悠理が戻ってくるのは0時か12時だと考えられるでしょう。前回24時間後に戻って来たことを考えると、明日の昼が一番可能性が高いですね」

そこで清四郎は言葉を切り、魅録に顔を向けた。

「頼みというのは、剣菱家の鏡を今夜、見張っていて欲しいんです。もしも夜の12時に悠理が戻ってきたときのために」

「清四郎、おまえは?」

「僕は・・・・ここで待ちます」

清四郎は部室を見回した。

古く重厚な部屋。高校一年の頃から4年間、彼らの城である生徒会室。

「悠理は、こちらに戻ってくるかもしれない」

「ここで消えたからか?」

清四郎は曖昧に微笑してその質問には答えなかった。

 

 

 

野梨子と可憐、美童も怯えつつも力になりたいと申し出た。

悠理を案じる気持ちは同じ。

しかし、本当を言えば、彼らにも清四郎にも、できることは何一つないのだ。

ただ、彼女が戻ってくるのを、待つだけ。

 

 

二手に分かれよう、という申し出を断り、清四郎は一人部室で待つことにした。

教師や守衛を言いくるめ学校に残る許可を取るのも、野梨子や可憐が居ない方が容易だったのだ。

 

 

 

 

 

そして、深夜。

清四郎は部室で一人、その時が来るのを待っていた。

外は、まだ嵐。

窓にはまだなんの異変も感じられなかった。

清四郎の胸から不安は去らない。

やはり、霊感の強い美童の同行を頼むべきだったかとも思った。

剣菱家の鏡は、平時でも気味が悪いと悠理が言っていた。

だから、あの鏡の方が本当は異世界と繋がっているのかもしれない。

 

だけど、清四郎は悠理の部屋ではなく、部室を選んだ。

この部屋は仲間たちとの思い出にあふれているから。

 

剣菱家の悠理の自室。

あちらの世界では、夫婦の部屋であったというあそこは、自分にはふさわしくないような気がした。

彼の悠理も、そう思うのではないだろうか。

 

二つの世界の一番大きな違い。あの、婚約騒動の顛末。

日頃思い返すことのないあの日々を思うと、胸苦しくなる。

あまりの自分の愚かさと、無神経さに。

 

清四郎は、あの部屋にはふさわしくない。

彼女に――――ふさわしくない。

 

清四郎はいつもの自分の席ではなく悠理の席に腰掛け、机に頭を伏せた。昼休み、彼女がそうしていたように。

何も手につかない。時間つぶしに新聞を読んだりPCを開いたりする気もしないし、悠理の席からの方が時計も窓も良く見える。そんな言い訳を自分にしてみたが。

どんなに言い訳をしても、もうごまかせない。

 

――――大切な、大切な、たった一人の少女。彼女でないとだめだ。彼女を失うなんて、耐えられない。

 

 

ほんの近くにいた悠理を見失った後悔が、幾度も彼を襲った。

傲慢なまでにプライドが高く自負心の強い清四郎が、なすすべもなくこうして項垂れている。

どんなことでも対処できる自信があった。悠理を守るのは自分だと思っていた。

それが、この体たらくだ。

 

それでも、清四郎は机の上に伏せていた顔を上げた。

部室の時計で確認する。もうすぐ、0時。

明日の昼の12時が一番可能性が高いのだと思いつつも、逸る心を抑えられなかった。

こんな気持ちを抱えたまま、待ち続けるなんて拷問だ。

 

携帯で魅録を呼び出す。

「もうじきですよ。そちらの様子は?」

『こっちは、まだ異常なし』

魅録の緊張した声が答えた。

これから数分、交信したまま待つことにする。

 

希望は捨てない。

悠理は必ず帰ってくる。

そして、彼女は疑いもしていないだろう。

変わらない彼が、友人として待っていることを。

 

悠理――――帰って来い。

 

祈るような気持ちで過ごす数分が、とてつもなく長く感じた。

まるで、時間が止まってしまったかのように。

 

「・・・魅録?」

突然、携帯の向こうの音がまったく聴こえなくなった。

通信妨害があったかのような不通。

「魅録?!」

清四郎は席を蹴り立ち、声を荒げる。友人からの返答はなかった。

やはり、剣菱家の方になにかあったのだと――――そう思ったとき。

 

ざわりと、全身に鳥肌が立った。一瞬にして空気の色が変わっていた。

窓を打つ雨音が聴こえない。世界から音が消える。

しかし。

 

「せい・・・しろ」

 

小さな声が聴こえた。

 

清四郎が振り返ったとき、すでに制服姿の悠理が、窓辺で佇んでいた。

ぼんやりとした表情。目は焦点を結んでいない。

 

「悠理!」

 

清四郎の叫び声に、悠理はびくりと身を震わせた。その目に光が宿る。

 

「清四郎・・・!」

 

よろりと悠理の体が傾いだ。清四郎は駆け寄り、彼女を支えようと手を伸ばす。

 

「清四郎、清四郎・・・!」

 

悠理も両腕を真っ直ぐ伸ばし、清四郎の胸に転げるように飛び込んできた。

 

悠理は戻ってきた。清四郎の元に。

 

言葉も出ないまま、清四郎はただ彼女を抱きしめることしかできなかった。

これほど、胸を激しく締め付ける感情を、安堵感と言えるのだろうか?

 

今このときだけは想いを抑えることができず、清四郎は悠理をきつく抱きしめる。

少し短くなった髪に顔を埋めて。

 

 

「・・・!」

清四郎の胸に頬を押し付けていた悠理が、突然顔を上げた。

彼の背にしがみついていた彼女の腕から力が抜けた。反対に、華奢な体が硬くなるのを感じ、清四郎も腕を緩める。

悠理は清四郎の腕の中からゆっくりと離れ、じっと、清四郎の目を見つめた。

いぶかしむように。何かを探すような視線で。

 

悠理の懸念を察し、清四郎も彼女の目を見返した。

 

清四郎の名を呼び、腕に飛び込んできた悠理。

それは、昨夜鏡から現われたときとまったく同じ反応だ。彼を、自分の夫だと思っていた、異世界の悠理と。

 

悠理は悠理――――彼の中で、もうそんな結論は出てしまっている。

抱きしめる腕は放しても、二度と彼女を見失うつもりはない。友人としてでいい。彼女が、彼を頼る限りは。

 

だけど、戻って来た彼女はやはり、ウサギパジャマを着て鏡の国で迷子になった彼の悠理ではないのか。

まだ、あの少女はどこかで彷徨っているのか。

 

「清四郎・・・」

悠理の声は、震えていた。

「おまえは、あたいの清四郎・・・?」

 

その言葉は、彼の胸を打った。痛みさえ伴って。

 

「悠理・・・」

清四郎は悠理の頬を掌で包んでいた。無意識の行動だった。

冷たい頬。薄い色の瞳が、不安に揺れている。

頬から滑らせた指が、制服の襟元に触れた。悠理がびくりと身を震わせる。

「・・・!」

白い肌に紅い痕を見つけて、清四郎は咄嗟に悠理の制服の襟を割っていた。

「ひゃ、ひゃああっ」

悠理は弾かれたように、清四郎の手を振り払う。そのまま、ぴょんと後ろに飛んで逃げた。

その反応で、清四郎はもう確信していたけれど。

 

襟を引いた際に見えた、紅い鬱血。口付けのあと。

息が詰まる。

あれは、昨夜清四郎自身が、彼女につけたものなのか――――それとも。

やはりかの地で、彼女の身になにかがあったのか。

理不尽な感情に、息が詰まる。

 

ぎゅ、と自分の襟をつかんで怯えたウサギのような目で清四郎を見上げる悠理。

昨夜、清四郎の腕の中で幸福そうな笑みを浮かべていた彼女とは、明らかに違った。

 

「おまえが、僕の悠理なら・・・」

それでも、清四郎は彼女に問いかける。変わっていないことを確かめたくて。変わっていないことを、示したくて。

「馬鹿で、大食いで、怖がりで、泣き虫で・・・だけど、押し付けられた婚約者なんて、蹴り飛ばす奴だろう?」

悠理の目が見開かれた。

その目から、怯えの色が薄れる。

「・・・おまえは、簡単には蹴り入れさせてくんなかったじゃんか」

悠理は頬を膨らませて、唇を尖らせた。

「あたいもスピードじゃ負けないけどな!」

子供っぽい勝気さに、思わず清四郎も安堵の息を吐いた。

 

そう。彼女は、彼の悠理だ。清四郎が簡単には捕まえられない、唯一の少女。

 

「雲海和尚のおかげでしょう?」

悠理は返答の代わりに、やっと、少し笑顔を見せた。

眉を下げた安堵の笑み。彼女も、確信したのだろう。ここが、自分の居るべき世界だと。戻って来たのだと。

 

清四郎は両腕を組み、慎重に悠理との距離を取った。

抑えていなければ、抱きしめてしまいそうになる。

まだ襟元を握り締めている悠理に、本当は問いただしたかった。この場で彼女の服を剥ぎ、確かめたかった。

 

彼女の唇の甘さに溺れ、彼女の肌を汚した、昨夜の記憶。

 

嫉妬と罪悪感が身を焼いても。

封じ込めなくてはならない。

記憶も感情も。

変わらない友人として、接するために。

 

悠理は、清四郎に恋なんてしない。彼女を、汚してはいけない。

 

――――愛してはいけない。

 

 

もう手遅れなほど、彼女を求める自分の心に、清四郎は気づいていたのだけれど。

 

 

 

 

 NEXT

 

 

 私の書く清四郎のパターンは、鈍感で自制的で恋に臆病なジレジレ男(「名前のない空」など長編シリアス)と、ゴーインゴーマンなエロ男(らららとかエロティカシリーズ)。

 ええ、まんま今回のA君とB君はその2パターンです。Aはジレジレ男なので、展開の遅いのはコイツのせいにしてしまおう。次回はBですので、エロエロ?(爆)

 

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