鏡の国のアリス 

 

 B

 

 

  

清四郎、清四郎、清四郎――――!

 

 

 

「悠理!」

彼の呼ぶ声に向かって、悠理は真っ直ぐに飛び込んだ。

広い胸。抱きしめてくれる強い腕。

心臓が締め付けられる。

この苦しさを、安堵感と言ってもいいのだろうか?

 

 

頬を押し付けた清四郎の胸からも、激しい鼓動が聴こえた。

「悠理、大丈夫か?!」

清四郎の声に、悠理は顔を上げた。

心配そうな清四郎の顔。

黒い瞳は、真っ直ぐ悠理を見つめている。

悠理は彼の目を覗き込み、そこに見知った色を探した。

それは、切ない願望に過ぎなかったかもしれないけれど。

 

 

だけど。

「・・・う・・」

悠理は嗚咽を漏らした。

清四郎の目の中に、望んだものを見つけて。

「ご・・・ごめん」

堪えられない涙が溢れる。

「悠理?」

訝しげな彼の胸に、悠理はもう一度顔を埋めた。

「ごめんなさいっ!」

心配したに違いない清四郎に、謝罪するのは当然だったけれど。

それだけではなかった。

 

制服姿の悠理に対し、清四郎は部屋着。

昼休み前の生徒会室で別れた彼ではなく、ここに居るのは、悠理の夫だ。

別れた夜そのままに、清四郎はふたりの部屋で、悠理を待っていてくれた。

 

これまで、悠理が当然のように与えられていたものがすべてここにある。

悠理を抱きしめてくれる腕も、瞳の熱さも。

 

それまで、信じようともしなかった。

意地ばかり張って、背を向けてきた。

見失うまで、直視しなかった――――彼の想いに。

 

 

 

悠理は清四郎の胸に顔を埋めたまま、泣き続けた。

彼は、優しく背を撫でてくれた。

悠理をソファに座らせ、落ち着くまで清四郎は肩を抱き手を握っていてくれた。

 

テーブルの上に開けたままの携帯に、ふと気づく。

清四郎も同時に気づいて、携帯を拾い上げる。

「・・・魅録?すみません。ええ、そうですよ。悠理は戻ってきました。面倒かけましたね、ありがとう」

携帯を切って、清四郎は悠理に苦笑を向けた。

「学校の方は魅録に行ってもらってたんですよ。おまえは、あそこで消えたから。だけど・・・」

清四郎は悠理の髪を愛しげに梳いた。

「僕は、おまえがこちらに帰ってくる気がして」

 

悠理は涙を拭って、清四郎に顔を向けた。

「・・・あたい、ここと良く似てるけど、違う世界に行ってたんだ」

彼に、聞いて欲しかった。言わなければならないと、思った。

「そこには、おまえも居てさ。野梨子も可憐も魅録も美童も、みんな居てさ。ほんとに、別世界と思えないほどそっくり同じだったんだけど・・・でも、違ったんだ」

たったひとつだけ。

違ったのは、ふたりの関係。

あちらの世界のふたりは、悠理がそう望んできた、かつての友人のままの、関係。

「・・・はい」

清四郎はわかっている、と頷く。

この不可思議な現象をどこまで清四郎が理解しているのかは、悠理は知らなかったけれど。でも、いつだって清四郎は悠理にはわからないことを、なんでも知っている。

だから、これから言おうとしていることも、彼にとっては当然のことなのかもしれない。だけど、悠理は、言いたかった。自分の口で、ちゃんと。

 

「・・・あたい、おまえが好きだ」

 

彼の目をまっすぐに見つめ、悠理は告白した。

 

「?!」

清四郎が息を飲む。大きく目が見開かれる。

なんでも知っている彼にとっては、あたりまえのいまさらのことに違いないのに。

 

「おまえが、あたいのこと好きでいてくれたからじゃないよ」

それは、異世界の清四郎が気づかせてくれた気持ち。

「おまえが、あたいのこと、なんとも思ってなくても・・・清四郎が好きだよ」

そう告げると、清四郎の黒い瞳が揺れた。

いつも自信ありげに引き結ばれている口元も震えている。

 

――――え?

 

と思ったときには、きつく抱きすくめられていた。

痛いほどの力で。彼の胸の鼓動が、激しく高鳴っている。

 

「せいし・・・ろ?」

 

腕を回した清四郎の逞しい背中が、波打つ。

 

「・・・一生、片思いでもいいと思っていた」

清四郎の低い声も、震えていた。まるで、泣いているかのように。

 

「おまえが、恋なんてするはずがないと思っていた。それでも、おまえが欲しかった」

ぎゅ、と締め付けられ、息が詰まる。

「無理やり奪って、僕のものにしても・・・いつか、なんて思えなかった」

強引で、自信家で、横暴で。そんな男が、吐いた弱音。

「ごめん・・・悠理、ごめん」

それは、初めて聞く謝罪。

 

清四郎が悠理の髪に埋めていた顔を上げる。

黒い瞳が潤んでいる。

そこに映っているのは、ずっと変わらない、彼の想い。

 

息が詰まるのは、抱きしめられているからじゃない。心が、あふれ出しそうな感情で一杯だから。

 

「・・・ありがとう」

 

そう口にしたのは清四郎だったけれど。

悠理が言いたかった。

 

――――ありがとう。

愛してくれて。待っていてくれて。

 

 

 

 

口付けは、どちらからともなく。

依怙地な反発は、もうどこにも残っていなかった。

 

まるで初めて交わすかのような、口付け。おずおずと。そして、深く。

キスだけで、意識が遠のきそうになる。

そのまま、悠理は清四郎に抱き上げられ、ベッドに運ばれた。

慣れた仕草で制服のボタンを外す夫は、それでもどこか緊張しているように見えた。

 

それは、昨夜の彼を悠理に思い出させた。

昨夜の――――異世界の、清四郎。

子供の頃から悠理を愛してくれていた、夫とは違う。

 

「・・・もしも、清四郎があたいのこと好きになってくれなかったら、あたいどうしてたかな?」

悠理は思わず小さく呟いていた。睦言のように、吐息とともに。

清四郎に愛されなければ、自分のこの思いにも、きっと気づかなかったろう。

こうして抱き合えることが、奇跡のように感じた。

 

「・・・僕がおまえをなんとも思っていなかったら?ふたりが友達のままだったら?」

清四郎も、なにかを思い出しているように、クスリと笑った。悠理の全身に柔らかくキスを落としながら。

「年頃になったおまえがどこかの御曹司と結婚させられても、僕らは友人のまま・・・・・・

なんて」

話しながらセーターを脱いで裸身を露にした清四郎は、熱い体を悠理に重ねる。

「ありえませんね」

清四郎の高ぶりが素肌で感じられ、悠理の体に痺れが走る。

「何年もそばに居て、守り続けて・・・他の男に攫われるのを見ているだけ?」

清四郎が、もう一度笑った。少し、皮肉な笑い。

「ありえませんね」

意地悪な口調と指先。悠理が慣らされた、彼の行為。

昨夜は、知らなかった。一緒にいたのが、別世界の清四郎などとは。悠理にとっては、同じ指と唇で与えられる、慣れた愛撫だった。

どこかで感じた違和感は、彼の戸惑いと緊張のため。

 

「誰のことを、考えているんです?」

「え?」

悠理の素肌に手を這わせながら、清四郎は口の端を歪めていた。

「おまえが消えてから、替わりに、もうひとりの悠理が現われました。僕らが結婚しなかった、別世界のね」

悠理は清四郎の言葉に、目を見開いた。自分がもうひとりいるなんて、思いもしなかったから。清四郎が、二人存在することは理解していたのに。

「おまえは、一昼夜、どこに居たんです?」

清四郎はゆっくり悠理の乳房を掌で覆い撫でた。首筋に鎖骨に、腕の裏の柔らかいところに、口付けながら。

まだ消えず残っている、彼自身のつけた痕。

そして、昨夜、もうひとりの清四郎が口付けた痕。

 

「あ・・・あう」

悠理の弱いところを唇で責め、胸の先を指先で弄る。

親指と人差し指で摘まれ、押しつぶすように擦られ。悠理は喘いだ。

「せいし・・ろ」

快感が電流となって全身に走る。

 

「・・・なにを、されたんだ?」

嫉妬深い夫は、どこまでお見通しなのだろう。

昨夜と同じように、清四郎の手は悠理の下肢を辿り、押し開く。

胸への愛撫で潤っている場所に、指が侵入してきた。

焦らすように、浅く指を抜き差ししながら、清四郎はなおも悠理を苛める。

「もうひとりの僕と、夜を過ごしたのでしょう?」

意地悪な言葉は、変わらない。

いつもは強引に引き出される快感。だけど、清四郎への想いを自覚した今は、自分の心が彼を求める。

 

「あちらの世界の僕が、何もしなかったなんて、信じられませんね」

自分に対して、嫉妬しているのか。

清四郎は苛立ちをぶつけるように性急に、彼女を絶頂に追いやろうとする。

「どんなことをされたんだ?こうか?それとも、こんなふうに?」

悠理の胸の先を苛めながら、内部を探り掻き出すようにいじられて。体の奥がひどく疼いた。

二本の指をきつく飲み込み、悠理は自ら腰を浮かせていた。

「あ、いや・・・」

抵抗し締め付ける内壁の動きに逆らい、指が抜かれてしまう。

 

涙が溢れた。

悔しいからではない。

煽られる苦しさはあったけれど。

 

一つになりたい。

彼の想いを全身で感じたい。

心から来る、激しい欲望に、悠理は翻弄された。

 

大きく足を押し広げられ、彼がそこに顔を埋める。

舌で一番敏感な突起をなぶられた。音を立てて吸われ、ドクドクと体の内部から快感があふれ出す。

「あ、あーーーっ」

清四郎の黒い髪を指に絡め、悠理は悦びの声を上げた。

 

昨夜も、絶頂に追いやられ、意識を失うように寝入ってしまった。彼の腕に抱かれ、安堵感に包まれて。

もうひとりの清四郎。

彼は、悠理の清四郎ではなかったけれど、それでも“清四郎”だったから。

 

 

彼は力を失った悠理の足を肩に掛け、ぐ、と体を進める。

悠理の中心に、熱い欲望が押し付けられる。

悠理の体が期待とわずかな恐れに慄いた。

ゆっくりと、彼のものであることを確認するように、欲望の塊が侵入する。

ずぶずぶ埋まっていくその感覚に、悠理は身を仰け反らせた。

一度すでに達しているのに、挿入されるだけで、また気が遠くなる。

薄れそうになる悠理の意識を、清四郎が地上に繋ぎとめた。

「“奴”とも、こんなことを?」

「ちが・・・ああ、あう・・・して、ない」

悠理はすすり泣きながら首を振った。

「あいつ、あたいのこと・・・何とも思って・・・」

悠理の返答は、夫を安堵させたようだった。

満足そうな吐息を吐きながら、彼はゆっくりと腰を動かす。

すでに奥まで届いているのに、まだ突き入れ、内部を擦る。

「ああ、ああん・・ああ、」

止まらない涙を散らしながら、悠理は彼に揺さぶられた。

 

「・・・どんな世界でも」

清四郎が荒い息で囁く。

彼の汗が涙のように頬を伝い、悠理の涙と交わり流れた。

 

「僕が、おまえを愛さないなんて、ありえない」

 

繋がったのは体。だけど、求めているのは、心。

彼のすべてを受け止めたくて、悠理は逞しい胸に縋りついた。

 

求められ、揺さぶられ、体の奥底に届く、彼の心。

それを放すまいとする自分の体の自然な欲求。心と体がひとつに溶ける。

そうあることが、自然であるように。

 

惹かれあい、愛し合うことが必然であったと言う、彼の言葉を信じたわけではないけれど。

悠理は胸苦しいほどの幸福感に身をゆだねた。

 

涙が零れるのは、激しすぎる快感のためか。

それとも、初めて知った恋のためか。

 

――――たとえ、愛されていなくても、愛していた。

 

恋しているのは悠理の方なのだと、別世界の彼に、教えられた。

 

そして、悠理の夫は、教えてくれる。

愛し愛される喜びを。

 

 

これまで見えなかった自分の心が見える。

彼の心が感じられる。

鏡で映したように、ふたり同じ想いを映す瞳を。

 

だから。

悠理が見えなかったように、あちらの世界の悠理も、きっと。

そうとは気づかないまま、恋に落ちている。

 

 

 

彼女だけの、清四郎と。

 

 

 

 

 

NEXT

 

本当は悠理が戻って来た時点で、Bのふたりはもう書くつもりがありませんでした。だって、放っておいても、うまくいきそうだもん。

しかし、リクが「18禁」であったことを思い出し、急遽夫婦の再会シーンを挿入!(←いやらしい意味ではない。ん?大差ないか。)

次回はAのふたりの後日談になるかな・・・?

 

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