鏡の国のアリス 

8

 

エピローグ 

 

 

 

あの嵐の夜。

清四郎に送られて剣菱家に戻ってきた悠理を迎えたのは、魅録、可憐、野梨子、美童の、仲間たちだった。

 

「本当に、あんたはトラブルメーカーなんだから!」

 

仲間たちは悠理を案じ、呆れながらも優しく抱きしめてくれた。

それは、清四郎がそうしてくれたものと同じぬくもり。

彼にきつく抱きしめられたことを、誤解してはいけない。

 

「まったく・・・悠理の友人をやめたくなりますよ」

そう言って肩をすくめる清四郎は、いつもと同じ。

その言葉に、傷つく悠理の方がおかしいのだ。こんなこと、いつだって言われているのに。

 

 

ほんの一夜。

悠理が異世界に行っていたのは。

なにも変わらない。変わらない世界を、望んでいた。変わらない、清四郎を。

そして、その悠理の願い通りに、いつも通りの日常が戻って来た。

 

 

――――『悠理、愛してる。』

 

 熱くそう囁いた彼は、もうどこにもいない。思い出すと、胸の疼く記憶だけを残して。

 

 

 

 

**********

 

 

 

 

 

 嵐の去った週末。

仲間達皆で、万作ランドに繰り出した。

事件以降、時折沈みがちになる悠理を案じての、可憐の提案だった。

仲間達も、清四郎さえも、異世界で悠理がどんな体験をしたのか知らない。悠理が語ろうとしなかったからだ。

だけど、以前、恋した幽霊に去られたときの可憐と、いまの悠理は少し似ているように見えた。あのときの可憐とは違い、悠理は自分の意思で戻ってきたのだけれど。

 

万作ランドのアトラクションは頻繁に改装される。

夏の間は古式ゆかしいお化け屋敷のあった場所も、別の出し物に変わっていた。

大きな迷路になった、ミラーハウス。

 

「お、新しくなってる。皆で入ってみようぜ!」

魅録の言葉に、野梨子が眉を寄せた。

「よしてくださいな。悠理は鏡が原因で酷い目にあったんですのよ。無神経ですわ!」

きつい物言いだが悠理を思いやっての言葉に、魅録はシュンと項垂れる。

悠理は苦笑しながら、自分を庇うように細い腕を回す野梨子の手を、ポンポン叩いた。

「あたいは、大丈夫だよ。入ってみよう」

「でも、悠理・・・」

「昔はあたい、お化け屋敷だって大好きだったんだぜ。幽霊に蛇に・・・鏡。これ以上、苦手なものを増やしたくねーもん。リハビリ、リハビリ!」

笑顔の悠理に、野梨子は意見を求めて清四郎を見上げた。

 

「・・・鏡すべてが危険というわけではないでしょうしね。現に、二度目は鏡ではなく、窓だった。これからすべての鏡やガラス窓を避けて生活するわけにもいかないでしょう」

清四郎は顎に手をあてて、微笑む。

「僕は悠理に賛成です。これ以上苦手なものを増やさず克服するというのは、見上げた根性だ。勉強もこの調子で克服してくれるといいんだが。リハビリの課題を差し上げましょうか?」

 

清四郎の言葉に、悠理はうげ、と肩を竦めた。

「どんなリハビリだ!いらねーよ!」

 

 そんな悠理を、美童が深刻な表情で見つめる。

「だけど、確かに克服しなくちゃならないよね。鏡に恐怖心を感じるなんて、とんでもないよ」

「それもそうだわぁ。あたしだったら、生きていけない!」

美童と可憐の必要以上に深刻ぶった物言いに、悠理は吹き出した。

「おまえらと、一緒にすんなよ〜!」

 

 笑顔のまま、悠理は率先してミラーハウスの入口に向った。

仲間達があとに続く。

 

「悠理」

入口に入るとき、悠理は清四郎に肩を掴まれた。

「僕と一緒に行きましょう」

清四郎は、わずかに強張った顔をしている。先ほどはにこやかに賛成したものの、彼の方が、恐怖を感じているかのように見えた。

悠理は内心、彼の申し出に安堵したけれど。

「やだい、この迷路を抜けてどっちが先にゴールできるか、勝負だ!」

悠理は清四郎に背を向け、走り出した。

「悠理!」

 

彼の追って来る気配。

ひどく、胸がざわめいた。

途端――――

 

「痛っ!」

バン、と景気の良い音とともに、通路だと思っていた空間に悠理は正面衝突。

 「ほら、危ない」

清四郎は苦笑しながら、転がった悠理の手を引いて立たせてくれた。

 

「きゃあ!」

バンッ

 

「うぉっ!」

「ふぎゃっ」

ドン、バンッ

 

あちらでもこちらでも、鏡やガラスにぶち当たったと思しき仲間達の悲鳴が聞こえた。

鏡の屈折率を利用し、最新式のフォログラム映像で目くらましを施した室内迷路は、思ったよりも攻略困難なようだ。

 

「一緒に行きましょう」

その清四郎の言葉に答えないまま、悠理は立ち上がらせてくれた彼の手をそっと放す。

温かな大きな手。

安堵感と、それよりも大きな胸苦しさを感じさせる、清四郎の手の感触。

すがりたくなるその手を放したのは、もう放せなくなることが怖いから。

 

抱きしめられた記憶が蘇る。

そして、激しく甘く求められた、別世界の彼の記憶が。

 

悠理は傍らの清四郎をうかがう。目を細めて鏡の迷路を見つめている彼は、いつもの頼りになる友人。

あれほど会いたかった、悪友のままの清四郎がここにいるのに、悠理は彼の横顔に、あの熱い眼差しを探していた。

 

鏡の迷路。

記憶の迷路。

 

まだ、悠理は迷子になったままなのかもしれない。あの日から、ずっと。

 

あの事件から、何かが変わってしまった。

たとえば、放課後部室で他愛もない会話をしているときに。

バイバイ、と校門で別れるときに。

皆とこうして遊びに来た休日でさえ。

 

――――清四郎の、視線を感じる。

 

それは、彼の目の前で異空間に消えた悠理だから、当たり前の反応なのだろう。清四郎だけでなく、仲間たち皆が、どこかまだ心配そうに悠理を気遣っている。

 

だけど。悠理の心を騒がせるのは、清四郎の視線だけ。

清四郎に見つめられると、落ち着かない。そして、彼の目の中に、別のなにかを探してしまう自分に、悠理は気づいていた。

 

ほんの少し変わったふたりの距離。

以前だって、トラブルメーカーの悠理を守ってくれるのは必ず清四郎だった。だけど、彼の存在を、視線を、こんなふうに意識したことなどなかった。

変わってしまったのは、きっと、悠理の方なのだろう。

素直に、差し出された手を取れないくらいに。

 

心の迷路。

悠理には、出口がわからない。

 

 

 

競争だぞ、と言った言葉は本気ではなかったけれど、彼よりも先を歩きたくて、悠理は足を速めた。

鏡に映った、彼の目を見たくない。そこに、どんな色が宿っているのか、確かめようとする自分を、認めたくなくて――――自分が、何を求めているか、知りたくなくて。

 

 

鏡の迷路の袋小路。

 

悠理の曲がった角は、行き止まりだった。だけど、清四郎を振り切れたようだ。両左右に映っているのは、自分の姿だけ。

悠理は鏡に両手を突いて額を押しつけ、ため息をついた。急ぎすぎた足を休めたかった。

 

 

ふいに、ぞくりと悪寒が走った。

 

弾かれたように顔を上げる。

そこに映った自分の顔は、蒼白だった。不安に、胸が締め付けられる。

違和感。

なんらかの異常を、本能が察知している。

 

――――清四郎!

 思わず、見えない彼を鏡の向こうに探した。彼と離れたことを後悔した。

 

 

 

「悠理!」

 

清四郎の声が至近距離に聴こえ、安堵感に、泣きそうになる。

 

そのとき。

角を曲がって現われた彼の姿が目に入った。

 

 「せいし・・・」

名を呼ぼうとした唇が凍りついた。

 

一目でわかった。

そこに映っている彼は、あの日の、清四郎。別世界の、悠理の夫。

 

 

違和感。

 

それは、鏡に映った自分の姿にも。

服装こそ同じだったけれど、少し長めの髪と、鏡越しに触れている手のひらが、異常をはっきりと示している。

悠理のつけていない、つけるはずのないアクセサリーが光っていた――――左手の、薬指に。

 

 「ゆ・・・悠理」

清四郎の低いかすれた声。

彼の目が、真っ直ぐに悠理を見つめている。鏡の向こうの自分も、驚愕に目を見開いて、清四郎を見つめていた。

 

 

「・・・!!」

ふいに、背後から熱を持った大きな手に、肩を引き寄せられた。

振り仰ぐと、清四郎が強張った顔で、鏡を睨みつけていた。

鏡の向こうの、悠理と清四郎を。

 

走って悠理を追いかけて来たのか、清四郎はらしくなく荒い息をついている。

異世界から引き離そうとするように、清四郎は悠理の体に腕を回し、抱き寄せた。

熱い胸に背中から抱きしめられて。彼の鼓動が、はっきりと聴こえる。

 

「・・・僕の悠理は、渡しません。今度こそ、ひとりでは行かせない!」

怖れではなく、激しい決意に。清四郎の声はわずかに震えていた。

 

――――“僕の、悠理

 

彼の言葉に、悠理も震えた。

恐怖のためではない。清四郎の腕の中では、何も怖くない。

ただ、あふれ出しそうな感情に、胸が震えた。

 

悠理は衝動のまま、自分の前で組まれた清四郎の手を握り締める。なおもきつく抱きしめられ、泣き出してしまいそうになる。息さえできない、苦しさのためでなく。

 

鏡に映ったふたり。別世界のふたり。

 

同じように清四郎の腕の中にいる、悠理よりも少し髪の長い彼女も、泣き出しそうな――――だけど、幸福そうな顔をしていた。

 

悠理の視線に気づいたのか、鏡の向こうの清四郎と目が合った。

あの情熱的な黒い瞳が、鏡越しの悠理を映す。

彼は、穏やかな表情で微笑した。もう一人の悠理をしっかりと抱いたまま。

 

その笑みは、悠理の世界の清四郎に似ていた。

いつだって、悠理を安心させる、あの瞳に。

 

 

 

 

 

唐突に、目の前が真っ暗になった。

 

悠理の視界だけでなく、建物全体が停電にでもなったようだ。少し離れたところから、いくつかの悲鳴と、魅録が仲間たちの無事を確かめる声が聴こえた。

 

 

 

「・・・悠理、大丈夫ですよ。すぐに戻ります」

背後から囁かれた声。

「・・・。」

自分の体に回された逞しい腕。

悠理は返事の代わりに、清四郎の腕にしがみついた。

それを、暗闇に対する恐怖ゆえだと思ったのか。清四郎が悠理の耳元にもう一度口を寄せる。

「怖いか?」

「・・・ううん。怖くない」

悠理ははっきりと首を振る。

背中に清四郎のぬくもりを感じ、腕に抱きしめられているいま、悠理は何も怖くない。

停電も、異世界も。

たとえ、また鏡の中に囚われてしまっても。

 

「・・・清四郎と一緒だから」

悠理は自分の前で組まれた彼の手を、もう一度抱きしめた。

筋張った手首を自分の胸に押し付ける。ドキドキ収まらない鼓動に。

 

暗闇が教えてくれた。

この腕が現実。重なる鼓動だけが、真実。

清四郎は清四郎で。

どちらの清四郎に対する、悠理の想いも、同じなのだ。

 

「清四郎が、好きだから」

 

悠理の言葉に、彼が息を飲む気配。

 

告げて、どうなる想いでもない。

悪友で意地悪で、悠理のことなんてペット位にしか思っていない彼に。

だけど、言わずにはおれなかった。

それは、あちらの世界の清四郎に無理やり気づかされた想い。

 

あれほど、現実の清四郎に会いたかったのに。

悠理を愛してくれた、あちらの世界の清四郎を、彼の目の中に探していた。

 

――――愛されていなくても、愛してしまっていたから。

 

 

 

 

 

 

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