胸の痛みに、恋に気づいた。 気づいた途端、終わってしまう恋なのに。
「これ、悠理にあげますよ。」 レモン水のグラスから、清四郎が摘み上げたのは真っ赤なさくらんぼ。 缶詰の砂糖漬けさくらんぼ。 条件反射のようにあーんと口を開けた悠理の無防備さに、苦笑した。 悠理は変わらない。 それが救いである一方、ほんの少し、切なかった。
チェリー *sideS* BY フロ
吐き出した息が白い。 寒さにもかかわらず早朝家を出たのは、隣家の幼馴染と顔を合わせたくなかったからだ。 休学明けの久しぶりの登校。昨日、剣菱家を出て家に戻ったばかりなのだから、いくら厚顔な清四郎とはいえ、どんな顔をして皆と顔を合わせようかと悩むところだ。
清四郎は大通りに出たところで足を止めた。 学校に、どうしても足が向かない。 この時間では、他に行くところもなく、開いていたカフェの扉をくぐった。 コートを脱げば制服姿だったが、店員は不審な顔ひとつせず、窓際の席に清四郎を誘った。
「ブレンドを・・・いや。」 注文途中で気が変わった。
『おまえ、胃に穴空いちゃうぞ!』 カフェイン過剰摂取の害など知らないだろうに、悠理は清四郎のコーヒーカップにドボドボミルクを入れた。それこそ、彼のカップを目にするたびに。
記憶の中の悠理に向かって顔をしかめながら、注文をレモネードに変更した。 慢性的寝不足の頭が痛む。 清四郎は額に手をあてて目を閉じた。
――――清四郎なんかと、結婚してたまるかーーっ!
泣き喚く悠理の声が、まだ聴こえる気がした。 悠理の拒否は当然だ。 彼女の個性も人格もないがしろにし、剣菱を手に入れるための道具扱いしたのだから。
将来の夢というほどではないが、漠然と思い描いている未来像はあった。 菊正宗病院を継ぐにしろ、他の道に進むにしろ、常に王道を威風堂々歩く自分の姿を疑ったことはない。 そして結婚は、良い頃合に家柄のつりあう貞淑な賢い女性と、見合いでもして――――などと、恋愛に興味がない情緒障害者らしいことを考えていた。 そのはずだった。
あの悠理と結婚しようとしたなんて、自分でも信じられない。 和尚に喝を入れられ、すっかり目が覚めてしまった。 悠理との婚約は解消した。元の関係に戻るだけだ。彼女がそれを、許してくれるなら。 悠理に酷いことをしてしまったという、自覚はあった。
悠理が清四郎と結婚することは、もうあり得ない。 彼女との未来を望むことは、許されない。
「・・・っ」 息が詰まる。悠理が案じてくれた胃ではなく、胸が苦しい。 「・・・なんてことだ。」 清四郎が吐き出したのは、驚愕と自嘲。 悠理の笑顔を思うだけで、抉られるように胸が痛んだ。 あの輝く笑顔を、失ったわけではないのに。 失ったのは、友情ではなく――――
その権利を喪失して、初めて気がついた。 傲慢にも悠理は自分のものだと思い込んでいた。 その理由を、胸の痛みが教えてくれた。
失って気づいた、恋。 自業自得だ。 もう、悠理が清四郎に、振り向くことはない。
窓から差し込む光に耐え切れず、机に肘をつき手の上で顔を伏せた。 清四郎の胸中など関係なく、動き出した街がざわめく。 道路を走る車。学生や仕事に急ぐ人々の姿が行き交う。 窓際で制服のままの彼を、見咎める者は幸いにしていなかった。
彼女以外は。
ドン、と窓ガラスが叩かれる。 顔を上げると、ふくれっつらの悠理が、窓越しに清四郎を睨みつけていた。 道路には剣菱家の送迎車が停まっている。 清四郎の姿を目にして、悠理が車を停めさせたのだろう。
「悠理・・・。」 その名を口にしただけで、胸にじわりと温もりが広がった。 誰よりも、顔を合わせられないひとのはずなのに。
悠理は踵を返して入口に足を向けた。 店内に入ると、ずんずん大股で清四郎に近づいてくる。 寄せられた眉。への字口。 本来美人なのに、感情のまま怒りを顔に出す彼女は、利かん気の子供に見える。
「清四郎、おまえ、こんなとこでなにしてんだよ!学校サボる気か!」 「・・・もう、そんな時間ですか?」 清四郎は腕時計を確認する。 なるほど、まだ予鈴前だが、今からここを出ても遅刻だろう。 もっとも、ここ何週間か清四郎は休学状態だったから、もう一日休んでもどうということはない。
「探してくれたんですか?」 敵前逃亡を予期してか、という意味だったのだが。 悠理の顔に朱が差した。 「お、おまえが学校に来にくいかなって、心配してたわけじゃないぞ!あたいの部屋におまえが教科書忘れてたのに気づいたから、家に渡しに行ったら、もう出たって言うんで・・・」
悠理は小脇に抱えていた薄い学生鞄から教科書を取り出して、テーブルに投げ出した。 学校で渡せば済むだろうにと思いながら、清四郎は教科書に目を落とす。 「これ、僕のじゃありません。悠理のでしょう。」 「え?そんなことねーよ。おまえの字が一杯あったもん!」 清四郎は無言で、最終ページをめくって、氏名欄を悠理に見せた。 そこには『剣菱悠理』と明記されてある。 たしかに、中に清四郎の書き込みがあるが、それは勉強を教えた時のものだ。
いつも馬鹿にして、嘲笑って。 彼女を軽視していた。対等に考えたことはなかった。 いや、悠理だけでなく、誰に対しても。 傲慢で愚かな男。 思いもよらぬ恋に落ちたのは、天からの罰なのだろう。 当然すぎる失恋の結末も。
「あ、あれ?」 悠理は紅い頬をカリカリ掻いて視線を逸らせた。 その目が、清四郎が手のつけていないレモネードに留まる。 「コーヒーはやめましたよ。胃をやられたらしい。」 清四郎は苦笑して腹を押えて見せた。 本当は痛むのは胸だったのだけど。
それでも、いつも通りの悠理とこんな他愛のない会話を交わすだけで、痛みが和らぐ。 ひりつく傷口に染入るのは、変わらない彼女への安堵。それには切なさがともなっていたけれど。
「お、おまえを心配してたわけじゃないぞ!そのさくらんぼが真っ赤で旨そうだなーって・・・。」 焦ったようにまくし立てる悠理の顔が染まっているのは、もう怒りのためではないようだ。 子供っぽい悠理。 照れ屋で、友情に厚い悠理。
「悠理・・・怒ってないんですか?」 「怒ってるよ!今日だって、放課後じっちゃんとこ行かなきゃなんないんだぜ。」 たくよー、あのジジイ、と口を尖らせてブツブツ呟きながら、悠理は清四郎に悪戯っ子の視線を向けた。 「あたいは倶楽部に顔出さないからな。おまえは、あいつらに苛められて来い。逃げたら許さないからな!」 そう言ってニッカリ笑顔。
朝の光にふわふわの髪が透けて見える。 清四郎は眩しさに目を細めた。
清四郎に向けられたのは、変わらない少年のような笑み。 言葉通り、清四郎が逃がれようとすることを決して許さない笑み。
天に与えられた罰。無意識の彼女からの罰。 こっぴどい失恋にもかかわらず、諦められないことこそが。
「・・・これ、悠理にあげますよ。」 清四郎はグラスの縁に挟んであったさくらんぼを摘んで、悠理に差し出した。 「これが、詫びのつもりかよ?」 そう言いつつも、食べ物の前での条件反射、悠理はすでに口を開けている。 清四郎は苦笑。
だけど、苦い笑みは自分に向けて。
悠理の幼さを、彼は嗤えない。 常に努力し研鑽し、多くの知識と経験を身につけるよう己に課して来たけれど。 「結局、僕もチェリーだったというわけだ。」 童貞ではなくても、未熟なさくらんぼ。 誰かを愛したことも、求めたことも、これまでなかった。 気づいた途端、破れたこれが、初めての恋だったのだ。 愚かな恋の顛末。
さくらんぼを口に含んで、悠理はご満悦。 「甘い♪」 「砂糖漬けですからね。」 清四郎は残ったレモン水を一気に飲み干した。 切ない酸味が、口内に広がる。 胸の内にも。
「僕もまだまだですね。これから心機一転、仕切り直しです。」 「なにを?」 悠理は首を傾げたが、清四郎は微笑むだけで答えなかった。 笑みは自然に浮かんでいた。
大丈夫。 一から、やり直せばいい。悠理はまだ、笑顔を見せてくれる。 大丈夫。 今度は、過ちを繰り返さない。 もう知っているから。愚かな、自分を。 彼女を愛さずにはいられない、自分を。
「僕は逃げませんよ。受けて立ちます。」 そう、受けて立つ。 今はまだ幼い悠理も、いつか恋をする時が来るかもしれない。 その時までに、清四郎がいい男になればいい。 必ず、振り向かせて見せる。 もっと、力をつけて。
「我ながら、鼻持ちならない自信家ですねぇ・・・。」 ポツリと呟いたそれはひとり言だったのに、悠理が呆れたように答えた。 「いまさら、何言ってるんだよ。おまえみたいな自信家はそういねーよ。ま、その自信をほんとにするところが凄いんだけどさ。」 それでも、いま本心を告げたら、やはり悠理は断固拒否をするのだろう。
「なに、笑ってんだよ?」 悠理が不思議そうに問う。 清四郎の笑みは、もう諦めの笑みでも自嘲の笑みでもなかった。 いつものように、笑えたのなら、上等。
天からの罰は、消えない想い。 この恋からは、逃げられない。
大丈夫。 破れてから恋に気づいた、愚か者でも。 また、ここから始めればいい。 二度目の恋を。
end (2006.10.31)
短篇なのに詰まりまくり。悠理編より先に書き出して、放り出してました。 ハッピーエンドをふたにち感謝企画に出したかったので、あちらを先に書きました。 スピッツの「チェリー」”愛してるの響きだけで強くなれる気がしたよ♪”と大塚愛の「さくらんぼ」”笑顔咲くきみと繋がってたい♪”のイメージで書きたかったんですが、結局、KANの「I'm allright」”僕の本当の恋はふられてから始まる♪”になっちゃったなぁ。(笑) ”愛し合うふたり 幸せの空♪”は、コチラ をどうぞ。 |
hare's写真素材様