Friends or Lovers

 

ミントの香りが鼻腔をくすぐる。

さっき悠理が口に放り込んでいたキャンディの匂いだと、ふと気がついた。

 

 

   電気とミント 〜前篇〜

 

 

 

壁に華奢な背を押し付け、グッと顔を近づけた。

「な、なに・・・魅録ちゃん?」

魅録はニコリともせず答える。

「何って、キス。試してみねぇ?」

「!!」

げっ、とも、ぐぇっ、とも聴こえる呻き声をあげた悠理にかまわず、魅録はもっと顔を近づけた。

ほんの数センチで、唇に触れる。吐息のかかる距離。

 

衝動、というほどではなかった。

むしゃくしゃしていたし、多少の嫉妬もあったかもしれない。

だけど、一番の理由は、ただ、確かめてみたかったから。

自分の気持ちを。

そして、彼女の気持ちを。

 

ミントの香りと、煙草の香りが交じり合う。

だけど、魅録はそれ以上近づかなかった。

唇には触れず、そのまま至近距離で見つめ合う。

 

「・・・・あのよ、俺ら“一応”付き合ってるわけだろ。」

「う、うん・・・まぁ、そうだな・・・“一応“。」

悠理は引き攣った顔でへらへら笑った。

「そんなら、この手はなんだよ?」

魅録は自分の胸に置かれた悠理の手を握る。

近づきすぎた距離を元に戻そうとするかのように、悠理は魅録の胸を押したのだ。

多分、それは無意識の仕草。

 

笑いながらも、悠理の目には怯えが浮かんでいた。

真っ赤な目にはまだ涙の膜がかかっている。鼻水垂らして泣きじゃくっていたのは、ほんの十数分前。

 

悠理の口にキャンディを放り込んだのは、清四郎。わめき散らしていた口をそれで封じたわけでもないだろうが。

涙も鼻水も、ほとんど清四郎のシャツが吸い込んだ。それと一緒に、恐怖も恐慌も、清四郎があっという間に拭い去ってしまった。

だから、いま、悠理が怯えているのは、魅録に対してなのだろう。

 

 

こんな事態になるとは、思ってもみなかった。

 

『あんたたち仲良いんだし、いっそ付き合ってみれば?』

そんな可憐の言葉に乗せられ、なんとなく付き合い始めたのは一週間前。

魅録は淡い恋の経験こそあったものの、悠理は確実になさそうだ。二人とも恋愛沙汰は苦手ジャンルだし、いまさら男女交際という間柄でもない。

だから、これまでの延長で、自分たちのペースで付き合えばいいのだと思っていた。

友達のような恋人になれればいいと。

 

バイク仲間達、学外の友人などは、魅録と悠理はずっと付き合っていると思っている者もいる。それだけ以前からも一緒に居ることが多かったということだ。

趣味も気も合う悠理と居るのは楽しい。

『意地悪な清四郎と違って、魅録は優しいし頼りになるし、大好きだよ。』

悠理の言葉は、面映くも嬉しかった。

彼女の本心を疑ったことはない。

 

だけど。

 

「あのさ、俺もそうだけど、おまえも・・・」

とりあえず悠理を落ち着かせようと、魅録はつかんだ悠理の手に力を込めた。

話すべき内容は、自分の中でもまだ消化できていない。

思いがけない自分の行動に混乱しているのは、魅録も同じなのだ。

 

 

ガチャリ。

唐突に、部屋の扉が開けられた。

振り返ると、パジャマ姿の清四郎が立っていた。

唖然とした表情に、魅録はさすがに赤面する

 

――――やべ、ここは清四郎の部屋だった。

 

「・・・これは、失礼。」

一瞬、自失していた清四郎だったが、驚きを慇懃な声に押し隠し、すぐに扉を閉めようとした。

 

「わぁ、待て!行くな、清四郎―!」

叫んだのは悠理。

魅録の手を振り払い、悠理はドアに取りすがった。

 

「いや、邪魔しませんので、ごゆっくり。」

清四郎は早足に去ろうとしたが。

「ここはおまえの家じゃん、どこ行くんだよ〜!」

悠理は廊下を追いかけて、階段のところで清四郎をつかまえた。

気の進まぬ顔の清四郎の腕を取って、無理に悠理は部屋へ引き戻す。

「一緒に居てくれよ!今夜はそういう約束だろ!」

悠理は頬を膨らませ、涙目で言い募った。

 

清四郎は大仰にため息をつく。

「・・・すみませんね。」

上目遣いで苦笑し、清四郎は魅録に謝る。男同士のアイコンタクトだ。

「い、いや、俺こそ・・・」

頭を掻いた魅録に、清四郎は口の端を引き上げる。

時と場所は選んで欲しいと言いたげに、黒い目が悪戯な笑みを浮かべた。

 

時は深夜。

場所は清四郎の自宅。

確かに、バッドシチュエーション。

まずい時にまずい相手に見られてしまった。

 

菊正宗清四郎は、男のプライドとコンプレックスを刺激する人間だ。

彼の親友に近い存在であると自認している魅録にとっても。

 

幽霊と遭遇し、震え上がっていた悠理が泣きながら呼んだのは、清四郎の名だった。

それを、不自然には思わなかった。

知人の刑事に、清四郎の家まで送ってもらうよう頼んだのは魅録だ。魅録自身、清四郎に会いたくてたまらなかったのだ。

認めたくはないが、問題が起こった時、同い年のこの男に頼る癖がついてしまっている。

 

それでも。

泣きじゃくって、清四郎に抱きついた悠理。

そばで寝て欲しいと清四郎にせがむ悠理の言葉には、さすがに落ち着かない気分になった。

感じたのは、嫉妬なのかコンプレックスなのか。

 

 

 

**********

 

 

  

菊正宗家の客間の暗い天井を見つめ、魅録は呟く。

「・・・・なんで、川の字で寝てるんだ?」

成り行きとはいえ、悠理を真ん中に三人で布団を並べて寝ている現状はどう考えても妙だ。

 

「・・・・こっちが訊きたいですよ。」

清四郎も眠れないらしく、魅録の独り言に返事が返って来た。

「自分の彼女の面倒くらい見てもらわなければ、困りますね。だいたい、優しくするのもいいですけど、魅録は悠理に甘すぎますよ。」

「・・・。」

あまりの正論に、ぐぅの音も出ない。

 

魅録は薄闇の中、体を起こした。

隣の悠理を見ると、子供のような顔で寝息を立てている。

布団を蹴飛ばし足を投げ出して眠っている姿は、とても年頃の女には見えなかった。

そう、悠理が子供なのはわかっている。

 

「・・・・煙草、吸ってくる。おまえの部屋のベランダならいいか?」

「部屋の中でも別にいいですよ。さっきの灰皿を使ってください。」

 

魅録は枕元の自分のシャツから煙草とライターを探り出し、布団を抜け出した。

足音を忍ばせそっと二階に上がり、勝手知ったる友人の部屋に入る。

主の居ない部屋の電気は点けず、暗闇の中で煙草を点けた。

煙の芳香を鼻腔が捕らえる前に、ふと、ミントの香りを感じた気がした。

 

未遂に終わった悠理とのキス。

小さな痛みに、胸が疼いた。

 

「・・・馬鹿なことしたぜ・・・。」

針を刺したようなその痛みは、罪悪感。

 

暗闇で座っていると、カーテン越しに街灯と月明かりが見えた。

隣家の白鹿家の門灯だと気づく。

野梨子の窓を確かめに、立ち上がる気はしなかった。どうせ、あのお嬢さんはもう眠っていることだろう。

お互いの生活が感じられる距離。清四郎と野梨子の物理的距離はこんなに近いのだと、魅録はあらためて感慨を覚えた。

 

きっかけは可憐の言葉だったが、魅録がそれまで興味のなかった男女交際に踏み切ったのは、野梨子の存在が大きい。

美童の求愛に野梨子が応じたのはもちろん意外だったが、それよりも、かつての裕也と野梨子の恋は、魅録にとって驚きだった。

 

白鹿野梨子は、頑なで気の強い箱入り娘。

 

『離してくださいな、いやらしい!』

友人となってからも、そう罵倒された出会いの時の印象は大きく変わっていない。

結局、野梨子のような娘は、世間知らずのまま相応の頼れる男とまとまるのだと思っていた。そう、清四郎のような。

だけど、恋をした野梨子は、鮮やかに魅録の考えを打ち砕いた。

これまで彼女が見せなかった優しさや懸命さは、魅録を驚かせた。脆さや愚かさも、また。女という不思議な生き物の強さを、体現しているように。

 

野梨子だけでなく、きっと可憐も悠理も。

鮮やかな女達は、魅録のような無粋な男を惹き付ける。

愛してみたいと思った。

友情を変質させても。

 

・・・・・いや、それすら自分への言い訳に過ぎない。

 

 

魅録は煙草の始末をして、そっと部屋に戻った。

もう清四郎も寝たらしい。ふたり分の静かな寝息が聴こえた。

ふと、先ほどまでひどい寝相で寝ていた隣の悠理が、きちんと布団に収まっていることに気がついた。

きっと、清四郎が布団を掛け直してやったのだろう。

 

いつも辛辣で意地悪な態度の清四郎に、なんのかんのと言いながら悠理が懐き頼るのも、本能的に彼の優しさを察しているからだろう。

 

――――自分の彼女の面倒くらい見てもらわなければ、困りますね。

 

清四郎の言葉を思い出し、魅録は苦笑した。

 

「・・・俺は、優しい男なんかじゃないよ。」

 

苦い言葉。

胸が痛むのは、罪悪感。

嫉妬すら感じられない自分に感じる、自己嫌悪。

 

 

 

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