Lemonの勇気 〜中篇〜
待ち合わせた劇場前に三人が揃ったところで、清四郎は悠理に問いかけた。 「ところで、可憐と美童は?」 悠理はギクリと肩を竦める。 清四郎はため息をついた。 「・・・僕たちだけなんですね?」 「・・・うん、誘ったんだけどさ。」 「野梨子や可憐がこの映画に来るとは、俺は思わなかったけどな。」 魅録はそう言って、さっさと劇場内に足を向けた。魅録は怒っているふうでもないのに、悠理にも清四郎にもなぜか視線を合わそうとしない。 「あたい、お菓子とジュース買って来る!」 なんだかいたたまれなくなって、悠理は男達から離れて売店に向った。
歯車がずれたような感覚。 ぎこちなく軋む音さえ聴こえそうだ。
両手両脇に飲み物とポップコーンとホットドックとポテトチップスの袋を引っ掛けて、まだ明るい劇場内に悠理が戻ると、清四郎と魅録は間に席を開けて座っていた。 会話もなく、視線も合わさず。 ふたりとも、憮然とした表情でまだ何も映っていないスクリーンに顔を向けている。
このふたりも、なんだか変だ。 以前は、見た目のイメージは優等生と不良で真反対なのに、倶楽部内でも一番お互いを信頼しあっているようで、妬けるほど仲が良かったのに。 ――――どちらに、妬いているのかは、わからなかったけれど。
「・・・コーラとウーロン、どっちがいい?」 両手に持ったラージサイズのカップを掲げると、奥の席に座っている魅録が、やっと悠理の方に顔を向けた。 「サンキュ。俺は、コーラ。」 「じゃあ、僕はウーロン茶を。」 悠理は通路沿いに座っている清四郎に二つ共カップを渡し、ぎこちない笑みを無理に作った。 「じゃ、清四郎、そっち寄って。」 「は?」 「あたい、また腹が減るかもしれないから、通路横の席がいい。清四郎が魅録の隣に移ってよ。」 清四郎は困った顔をしたが、悠理は容赦なく食べ物を振りながら、彼を急かした。 「ほら、場内が暗くなって来た。映画が始まっちゃうよ!早く!」 本当は、悠理は席などどこでも良かったのだけど、また三人川の字で並ぶのも気詰まりだった。 「・・・これじゃ、川でなくて、小の字だよな。」 魅録がクスリと苦笑する。 つられるように清四郎も笑みを浮かべた。 「そんなに魅録は僕と身長は変わらないじゃないですか。」 清四郎が魅録の隣に移り、カップホルダーに飲み物を置く。 やっと、妙な緊張感が薄れ、いつものような雰囲気が戻って来た。 場内の明かりが消え、お互いの顔がよく見えなくなったからかもしれない。 悠理はほっと安堵して、お菓子を抱え込んだまま清四郎の隣の席に腰を下ろした。 「悠理、飲み物は?」 悠理はカップを二つしか買って来なかった。二つしか持てなかったからなのだが。 「あたいもウーロン。だからLサイズにしたんだ。一緒でかまわないだろ?」 彼らの間で、回し飲みなど日常茶飯事だ。だから、悠理は深く考えることなく答えたのに。
暗闇で、清四郎が声を殺して笑ったような気がした。 「・・・・僕と間接キスになってしまいますよ?」 悠理の耳元で囁かれたのは、やはり笑いを含んだ清四郎の声。 「ま、もう間接キスは、経験済みですけど。おまえの彼氏を介してね。」 からかうような、だけどどこか苦い声だった。 「ふあ?!」 意味がわからないながら、その不穏な言葉に、思わず悠理は奇声を上げる。 清四郎はシッと人差し指を口につけ制した。 画面にオープニング映像が映し出され、清四郎の顔が白く浮かび上がった。 清四郎の目は少しも笑っていない。 「・・・冗談ですよ。」 なのに、歪んだ口元は、自嘲の笑みを浮かべていた。
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悠理は後悔していた。 清四郎を誘ったことを、ではない。 「・・・ひ、ひゃーっひゃーっ!!」 かすれた声を上げて、悠理は隣の清四郎の腕にすがりついた。 「悠理!」 清四郎に小さく叱責されても、悠理はますます清四郎の腕に顔を押しつけた。 スクリーンでは復活した生ける屍=ゾンビが、街中に増殖し、主人公達に襲い掛かっている。 「うひーっ!」 自分が馬鹿であることは重々承知していたが、嫌になるほど思い知った。
『ゾンビ・リターンズ』は堂々のホラーだ。 パート1を観た一年前は、ホラーはおろか、血しぶきドバーッのスラッシャーもオカルトも、悠理はなんでもカモン。むしろ、好んでそういうジャンルを楽しんでいた。 それは、本物の心霊事件を数々経験し、血も凍るような恐怖を知る前のこと。
「悠理、映画館を出ますか?」 清四郎の言葉に頷こうとしたが、悠理の体は凝固し動けない。腰が抜けて立てないかもしれない。 悠理はただぎゅっと目をつぶり、意識を恐怖から逸らそうと懸命だった。 答えない悠理に、清四郎はため息をつく。 清四郎は自分の腕に絡んだ悠理の手を、ゆっくり、だけど強引に外した。 「・・・?」 悠理は思わず目を開けて清四郎を見上げる。 清四郎は悠理に横顔を向けて無表情にスクリーンを見つめているだけだった。 悠理はもう一度清四郎の腕を求めて指を伸ばしたけれど、清四郎は身をわずかに捩ることで、拒否の意思をはっきり示した。 「!!」 悠理は愕然と、清四郎の横顔を見つめる。 清四郎の怜悧な面には、感情の色は見えない。 そして、清四郎は悠理を一瞥もしようとしない。
ほんの隣に座る清四郎に触れることがかなわず、空を掴んだ手が震えた。 シートの手すりを握り締め、悠理は俯いて涙を堪えた。 スクリーンに映るおぞましい映像も恐怖を煽る音声も、そう望んだとおり、悠理の意識から消えていた。 あまりに明確に拒絶されたショックのために。
それからの数十分、悠理は一度も顔を上げることができなかった。 映画の内容などひとつも頭に入って来ないのに、怖くてたまらなかった。 先ほどまでとは質の違う怖れと心細さに、自分の体を抱きしめる。 悠理の馬鹿も大食いも騒々しさも、今に始まったことではない。 『おまえの馬鹿は際限なしか?いいかげん、友人をやめたくなりますよ。』 容赦なく、呆れ顔で小言を寄越す清四郎。 『かまわねーよ!あたいだって、おまえなんか、大嫌いだもんねー!』 なかば本気でムキになるのは、いつだって悠理。 それでも、こんなふうに清四郎に拒絶されたことはなかったのだと、初めて気づかされた。 それが、これほど淋しいということも。 隣に座る清四郎との距離を、悠理は今までで一番、遠くに感じていた。
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「悠理、大丈夫か?」 終映後のロビーで悠理に声をかけてくれたのは、魅録。 蒼ざめて言葉を失ったままの悠理を心配してくれたらしい。 やっぱり、魅録は優しい。
「じゃ、俺はこれで。」 だけど、魅録は手洗いから清四郎が戻って来ると、そそくさと上着を羽織った。 「え?魅録、もう帰っちゃうの?」 時刻はまだ9時過ぎ。いつもなら、これから夕食にでも繰り出す時間だ。 「魅録、帰るならこの傘を。」 清四郎も眉を顰め、魅録に自分の折り畳み傘を差し出す。 「悠理と一緒に使うといい。家は僕が一番近いので、タクシーでも拾いますよ。」 「いや、いいよ。」 魅録は後ろ手に手を振って、止める間もなく出口に向かって駆け出す。 「じゃあな、また月曜に学校で!」 魅録の姿は、あっという間に映画館から吐き出される人波に消えた。
清四郎はため息をついた。 「・・・魅録も、困ったもんですな。」 それは、悠理にかけられた言葉ではなく、独り言。 悠理の思い違いなんかではなく。 清四郎は映画が終わってからも、悠理の方に一度も顔を向けない。
清四郎は映画館の出口に向かって歩き出す。悠理は迷ったが、彼の背中に続いた。 外は、上映前よりも激しく雨が降っていた。 「悠理、」 清四郎がやっと悠理を振り返った。 悠理が上目遣いで見上げると、清四郎は険しい顔をしていた。 これから飯でも、なんて表情ではない。 清四郎は黒い折畳み傘を悠理に手渡そうと差し出した。 悠理はもう一度うつむき、ふるふる首を振る。 「・・・いい。地下鉄の駅はすぐだし。」 清四郎は傘を開けた。 「さっきより雨は激しくなっていますよ。僕はJRで帰りますから、地下鉄入り口は途中です。僕と一緒が嫌でなければ、傘に入ってください。」
――――“嫌でなければ“なんて。 これまでの彼らの関係ではなかった言葉だ。 慇懃無礼でありながら清四郎はいつも強引でマイペース。他の人間にはまだしも、ペット扱いもはなはだしい悠理の気持ちになんて、気を遣ったことなどなかった。 いや。いまでも悠理の気持ちなんて、清四郎は気にも留めていないのだろう。
どしゃぶりの雨。 地下鉄入り口までは、ほんの数分。
同じ傘に入り、ふたりで並んで歩いていても、言葉も交わさなかった。 悠理の上に傘を差しかけながら、清四郎は彼女に触れないように慎重に距離を取っている。 そんなことをしなくても、もう随分と心の距離は遠いのに。
地下鉄口へと続く階段の前に着くと、清四郎はすぐに悠理に背を向けた 「・・・じゃあ。」 『さよなら』の言葉もない。逃げるように駆け去っていった魅録でさえ、『また、学校で』と言ったのに。 遠ざかる背中を見送っていると、不安に胸を締め付けられた。 もう、学校でも清四郎に会えないような。 そんなことなど、あるはずはないと、理性ではわかっている。 今夜は、間が悪かっただけなのだろう。 なのに、二度と清四郎と元の関係に戻れないような気がした。 激しい雨に遮られ、黒い傘の長身はもう見えない。 悠理は降り続く雨から目を逸らした。 小銭を探してGジャンのポケットに手を入れたとき、濡れた布地の感触が指に触れた。 引っ張り出すと、白いハンカチだった。 ――――もう、手遅れか。 そう言って、濡れた悠理の髪を拭いてくれた清四郎のハンカチ。 清四郎は優しい目をしていた。 あの時は、あんなに近くに彼を感じられたのに。 ずれた歯車に軋むのは、心のちょうつがい。 何かが、間違っている。 こんなの、嫌だ。 ――――手遅れ、なんかじゃない。 悠理は踵を返し、雨の中へ無我夢中で駆け出した。 雨の重いカーテンを押し分ける。ぐしょぐしょに濡れた靴が水溜りを跳ね上げる。 色とりどりの傘の群れの中に、黒い傘を捜した。 「・・・・清四郎!!」 大通りで信号待ちをしている人波の中に、目指す人を見つけた。 「・・・!」 清四郎は悠理に気づき、驚いて口を開けた。 車の騒音と雨音に遮られ、彼の声は聴こえなかった。 おそらくは、悠理の名を呼んだだろう声は。 代わりに、自分の心臓の音だけが、雨音よりも激しく高鳴って耳を打った。
――――清四郎、清四郎、清四郎!
鼓動が、叫んでいる。 ただ、彼の名を。
悠理は清四郎からほんの一歩のところで足を止めた。 目を開けているのもつらいほどの雨が全身を濡らすけれど、目を閉じる気はない。もう、清四郎を見失いたくなかったから。
呆然とした表情で悠理を見つめている清四郎は、いつもの隙がなく冷静沈着な彼ではなかった。 あの夕方、部室で出逢った、頬を染め途方に暮れたような、少年の顔。 澄んだ黒い目が、様々な感情を映し、揺れている。
清四郎の白いシャツがゆっくりと濡れて色を変えていった。傘を悠理の上に差しかけてくれたためなのだと、遅れて気がついた。 これ以上はないほど濡れた悠理に、傘などはいらないのに。
「へへ・・・おまえまで濡れちゃうから、いいよ。」 「・・・いったい、どうしたんだ、悠理・・・・」 清四郎の声はかすれている。ひどく彼を驚かせてしまったらしい。
悠理は笑みを浮かべた。 泣き出しそうなのを堪えて。
どうして、清四郎を追いかけてしまったのか。 どうして、彼を見ているだけで涙が出そうになるのか。 わかるのは、ただ一つ。 悠理を突き動かしたのは、たった一つの感情だった。
気詰まりな雰囲気のまま別れたせいではなく。 彼に冷たくされて淋しかったためではなく。
「もっと、一緒にいたいだけ。」
ただ、それだけ。
すみません、悠理は自分の彼氏がアウトオブ眼中のようです。小の字で座った彼氏の方も、きっと悠理よりも隣に座った清四郎の存在に胸をざわつかせていたに違いない。←殴 アミーゴ作品では(一応)ないので、当初三角関係の頂点は悠理ちゃんのつもりでしたが、書き手の清四郎贔屓のためか、すっかり二等辺三角形?(爆) |