清四郎は血に濡れた拳を呆然と見つめた。 自分の血か悠理の血か、それとも目の前の男の血か。
ニューヨーク・現在
清四郎は素人ではない。素手で人を殺めることさえ可能だ。 だけど、子供の頃から鍛錬して来たのは自分を律するためであって、人を傷つけるためではなかった。 銃口を向けられた時はまだ冷静だった。至近距離ではあったが、急所を避けて銃を奪い取る術も心得ていたからだ。 それなのに、悠理が部屋に飛び込んで来た時、清四郎は棒立ちになってしまった。 理性も判断力も、すべて霧消した。 銃声と共に、感じた衝撃。 悠理が清四郎を庇って傷ついたことを知った時に。
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「・・・・悠理は?」 鼻腔をつく消毒薬。無味乾燥な天井。 目覚めた場所が病院であることは、すぐにわかった。 「・・・・まだ寝たフリしとけ。おまえはさっき弾の摘出手術が終わったばっかなんだ。」 ベッドサイドに座っているらしい魅録の声が答えた。彼は声を潜めている。 「悠理は?」 重く動かない体に焦れつつ、もう一度問いかけた。 「言ったろ、悠理の肩はきれいに貫通していたから、大丈夫だって。運良く筋肉にも傷ついちゃいない。」 魅録は小さくため息をついた。 「それよか、NYPDが来ている。悠理は俺の次に事情調収されてんだ。弁護士と通訳同席でな。」 「あいつの弁護士は、僕だ。」 「わかってるけど、仕方ねぇだろ。おまえも気づいたと知れたら、すぐに会えるさ。刑事にな。」 魅録は承知で意地悪な物言いをする。 清四郎が会いたいのは、悠理だ。無事だと聞いても、心配でならない。 「今の内に口裏合わせとかなきゃと思って、俺はおまえが目覚めるのを待ってたんだ。」 「・・・・僕らを撃ったのは、見ず知らずの強盗だ。僕らは日本から友人の元を訪ね、運悪く強盗に出くわしてしまった・・・・それで良いですか?」 悠理が仁義に撃たれたなどと、証言するはずはない。 彼を庇うそんな筋書きくらいは、悠理の頭でも考え付くだろう。あるいは、黙秘を通すか。 魅録は小さく口笛を吹き、肯定の意を示した。 「俺は銃声がしてから駆け込んだので、犯人は見ていないことになっている。あそこらは治安の悪い地域だからな、適当におまえが辻褄あわせときゃ、警察をごまかせるだろう。銃は俺が処分したよ。」 魅録は席を立って、清四郎を見下ろした。 「ところで、月桂冠仁義がどうなったのか、聞かねぇのか?」 清四郎は麻酔による頭痛に悩まされながら友人を見上げる。 「・・・殺しては、いないはずです。」
『やめろ、清四郎!仁義が死んじゃう!!』 涙声の悠理の絶叫。 それが、かろうじて清四郎の拳を止めさせた。
本当に殺してしまいかねなかった。 純粋な暴力。剥き出しの攻撃性。 冷静に策謀を凝らして陥れるならまだしも、衝動のまま、怒りに駆られて荒れ狂った。 忌むべき行為だ。 だけど、自分がそうありたかった理性的な人間でないことは、とうに清四郎は思い知らされていた。
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あの朝。 悠理は清四郎の前で扉を閉ざした。 仁義に赦しを乞う彼女の泣き声を、清四郎は胸の裂けるような思いで聞いていた。
あれから、清四郎は何度も剣菱邸に通ったが、悠理とふたりきりになることはできなかった。仲間達も、彼女を案じて詰めていたからだ。 剣菱夫妻は弁護士としての清四郎に、悠理の説得も含めた法的措置を一任した。
北陸・一週間前
悠理が一人旅立ったのは、一週間後。 心配しないで、と残された置手紙を見て、清四郎はすぐに後を追った。 彼女の行き先の予想はついた。 月桂冠仁義の足取りはこの一週間つかめなかったが、彼の実家は北陸だ。 実家は名の知れたヤクザだったが、今では看板を下ろしている。だが、今でも地元では隠然たる影響力を持ち、豪邸を構えていた。 仁義とは絶縁状態になっているとはいえ、他に手がかりもないだろう悠理が向う先はそこしかなかった。
清四郎が山間の温泉町の鄙びた駅に降り立った時、おりからの豪雨で町は灰色に沈んでいた。 一台だけ止まっていたタクシーに乗り込む。 目的地を告げると、運転手は驚いた顔をした。 「あのお屋敷に、先ほど綺麗な娘さんを乗せて行ったところですよ。」
広大な和風建築の屋敷の前でタクシーを停めさせ、清四郎は傘を差して降りた。 「少しの間、ここで待っていていただけますか。」 運転手に告げ、黒ずんだ大仰な門を見上げる。 どしゃぶりの雨に、視界は悪い。
清四郎にも、見通しは立っていなかった。 婚約は当然破棄となったが、悠理はまだ月桂冠仁義を探し続けている。 彼が戻ったとしても剣菱夫妻が許すはずもないことを、わかっているに違いないのに。
雨に隔てられた道の向こうの門前に、赤いレインコートが現れた。 使用人に傘を差しかけられ見送られた悠理だ。 悠理は自分の赤い傘を開こうとして、手を止めた。道の端に佇む清四郎に気づいたのだ。 清四郎は大股で彼女に近づいた。 傘を差しかける。
「迎えに、来ました。」
どしゃぶりの雨。 見えない未来。
清四郎はもう自分が何を求めているかは知っている。 だけど、あの朝描いた未来の夢は、頑なな彼女の涙に前で潰えた。 愛を告げても、悠理には届かない。
「清四郎、どうして・・・」 悠理の大きな瞳が揺れた。 驚きよりも、悠理の面に過ぎった一瞬の安堵の表情を清四郎は見逃さなかった。 まだ、悠理の中で清四郎は頼りになる友人としての位置は保っている。 あの夜を越えて、なお。
あれから、仲間達と共に何度も顔を合わせたが、清四郎は何事もなかったかのような態度を悠理に取った。 悠理は多少ぎこちなく清四郎の顔を正視しなかったものの、清四郎の変わらない態度に安堵しているようだった。
――――あの夜、彼女は正気ではなかった。 ――――清四郎は、そんな彼女を慰めただけ。 暗黙の内に悠理の中では、そう落ち着いたのだろう。 今は、それで良かった。 そうするしかなかった。
豪雨にぬかるんだ道に、不確かな足元。 薄着には低すぎる気温。 暗鬱な視界に、心まで冷えてしまいそうだ。
「おまえには、いつもあたいの行動はお見通しなんだな。」 清四郎の傘に入った悠理は、ぎこちない笑みを見せた。皮肉な口調ではなかったが、内心の痛みを堪えた声だった。 「仁義くんの行方は掴めなかったんですね?」 悠理は清四郎から視線を逸らして、屋敷を振り返った。 「うん・・・・親父さんも、もう何年も会ってないって。それに、あたいとの婚約のことも伝えてなかったみたいだ・・・・」 顔を逸らしても、悠理の瞳が濡れていることはわかった。 至近距離の彼女の小さな肩は、震えていた。 抱き寄せたい衝動を、清四郎は堪える。 友人のままでも彼女を温めることはできるのに、触れてしまえば抑えが効かなくなりそうだ。
他の男を想って苦しんでいる彼女を、これ以上追い詰めるわけにはいかない。 清四郎はただ、待つしかない。 悠理の心の傷が癒えるのを。
だけど、もう友人の顔を保つことが難しくなっている自分にも気づいていた。
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嵐が、来ていた。 「お客さん、駅に戻っても、電車が止まっちまってるようですよ。」 タクシーの運転手がラジオの気象状況を聞いて困った顔を向けた。 「東京へ戻るのは無理ですか?」 清四郎の問いかけに、交通情報にチャンネルを合わせながら運転手は首を振った。 「この雨じゃ、車で山越えは無理です。新幹線も動いていないようですしねぇ。」 清四郎は隣に座る悠理を伺った。 悠理は清四郎と視線を合わさないまま、ぼんやり車窓に目をやっている。 風景は灰色に沈み、何も見えない。窓に叩きつけられる雨粒を見ているのか。 「・・・今夜はこの町で足止めですね。」 清四郎はため息をつき、運転手に宿の紹介を頼んだ。
温泉街でも老舗の旅館に、二部屋取ることができた。 部屋に露天風呂のついている豪華な部屋だ。 「せっかくの露天風呂もこの嵐じゃ、ゆっくり浸かってらんないよな。」 岩造りの露天風呂の上には屋根が張り出してはいたが、吹き込む風に湯船が波打っている。 縁側のサッシに打ち付ける雨風は、収まる気配もない。 案内された部屋を見回している悠理の顔からは、傷心も落胆も読み取れなかった。 いつも感情のまま豊かだった悠理の表情は、もうその内心を表さない。 「僕は隣の部屋です。夕食は僕の部屋に用意してもらうから、一緒に食べましょう。」 以前であれば続き部屋にしたかもしれないが、あえて避けた。 何もないただの友人同士ではもうないことを、清四郎自身は痛いほど意識していたからだ。
じゃあ、と自分の部屋へ向おうとした清四郎を悠理が引き止めた。 「・・・・清四郎。」 清四郎の腕に、悠理の手がかかる。 見上げてくる双眸。 その瞳がまだ濡れているように見えたのは、きっと錯覚。 雨に濡れた髪から零れた雫が、涙のように頬を伝っていた。
「迎えに来てくれて、ありがとう。」
悠理が見せたのは、微笑だったけれど。 泣き出しそうな幼子の顔にも見えた。 愛しい、娘。 彼女の幸せだけを、願っていたはずなのに。
「いえ・・・・友人なんですから、当然でしょう。言ってくれれば、一緒に来たのに。あんな置手紙は今後はよしてくださいよ。」 清四郎の腕にかかった悠理の指先がゆっくりと離れる。 切なさに、胸が軋んだ。 「大浴場もあるそうですから、ゆっくり風呂にでも浸かってください。」 せめて体だけでも温もって欲しかった。心までは望めなくても。 清四郎は踵を返し、彼女から離れた。 思いのまま抱きしめたくても、それは悠理につらい思いをさせるだけだろう。 彼女の寄せてくれる友情と信頼を、裏切るわけにはいかない。
平日の嵐の夜だ。宿にはほとんど他の客は居なかった。 大浴場を独占状態で使い清四郎が自室に戻ると、もう食事の用意はできていた。 酒はビール程度にしたが、食事は一番値の張るものを頼んでいた。 笑顔は見られなくても、せめて元気づけたかった。
「うわ、美味そうだな。」 悠理がカラリと戸を開けて入って来た。 彼女も風呂に入って来たのだろう。血の気の失せていた頬に色が戻っている。 だけど、浴衣姿の悠理が清四郎に向けた顔は、あの夜虚勢を張って作った笑みに似ていた。
料理に舌鼓を打って箸を割ってみせても、悠理は明らかに以前と違った。 浴衣の襟から裾から匂い立つ艶。もう、悠理は清四郎の知っていた少女ではない。それは切ないまでに。
「・・・はぁ、食った食った。」 言葉ほど食が進んだように見えなかったが、悠理は箸を置いて膳の横に両足を投げ出した。 「あ、行儀悪いって怒る?」 見つめる清四郎の視線に、悠理は舌を出して着物の裾を直す。 清四郎は苦笑した。 「僕のイメージじゃ、人の分の膳を狙いながらTシャツに短パン姿で胡坐をかいてガツガツ食うのが悠理ですからね。まだまだ・・・」 あの頃の、悠理に会いたい。無邪気な笑顔の悠理に。 「あは、シャツも短パンも用意してないからなぁ。泊まるつもり、なかったし・・・」 悠理は後ろ手をついて天井を見上げ、小さく笑った。 彼女らしからぬ、苦い笑み。 「・・・・みんな、心配してるかな?」 「当たり前でしょう。とりあえず、剣菱のおじさんとおばさんには知らせておきましたよ。他の皆には、おまえが居なくなったことも実は教えていません。すぐに動けるのは僕だけでしたしね。」 仕事を整理して日本に帰国している清四郎が、仲間内で一番暇なのも事実だった。 だけど、誰にも言わずに悠理を追って来たのは、それだけだろうか。
「あたい・・・・おまえに面倒かけてばっかだよな。こんな自分に卒業したかったのに・・・・」 悠理は後ろ手をついて空を見つめたまま、呟いた。 「ごめんな、清四郎。」 綺麗な横顔には、まだ自嘲の苦い笑みが浮かんでいる。
悠理の言葉に、清四郎は首を振った。 「言ったでしょう、これからは僕がそばにいると。昔のように。」
あの頃に戻ってやり直したい。 悠理が恋をする前に。
「・・・昔のように?」
悠理は清四郎に顔を向けた。 薄い色の瞳が、清四郎を見つめる。ふたりの視線が、絡んだ。
「・・・そんなの無理だよ、清四郎・・・」
声が震えていた。 笑みが崩れる。 揺れる瞳に、清四郎が映っていた。 偽物の笑顔よりも、泣き顔の方がよほどいい。 悠理を抱きしめる言い訳になる。 涙を拭うために。癒すために。
――――いや。言い訳など意味がない。自分の心は偽れない。
雨の中、傘の下で震えていた華奢な肩を見つめながら、心を隠した。 欲望と衝動。 赤いレインコートのまま、悠理を抱きたかった。 華奢な体を力まかせに抱きしめ、唇を奪い、連れ去りたかった。
座敷に通され、二人きりになった時。まだ濡れた髪の悠理を抱きたかった。 壁に押し付け、立ったままでも。 濡れた衣服を引き破り、冷たい体を自分の熱で温めたかった。
愛しているなら、待てるはずなのに。 彼女のことを、本当に思いやるなら。
それなのに清四郎は堪え切れず、悠理をその腕に抱いていた。 想像の中だけでなく、現実に。 夢で済ますことができない、あの夜の記憶のままに。
引き寄せられる。 心も体も。 瞳を見つめたまま、口づける。 悠理も目を閉じない。抗いもしない。
重なった唇がゆっくりと離れた時、悠理が漏らした甘い吐息が、清四郎の最後の理性を押し流した。
「・・・悠理!」
浴衣の襟を裂き、性急に白い肌を貪る。 華奢な体に圧し掛かり、全身を重ねた。
「清四郎・・・・」
悠理の両腕が清四郎の背に回る。 裾を割った白い脚が立てられ、畳を素足が滑った。 悠理の柔らかな体が、懸命に清四郎を受け止める。
窓を叩く雨も激しい風も、思考から消えた。 恋敵の存在も、繕う友情も。
激しい衝動を抑えきれない。 ただ、悠理が欲しい。 気が狂いそうなほど。
嵐が、来ていた。 清四郎の中に。
そして、悠理の中に。
露天風呂のある温泉旅館に行きたいなぁ、なんて唐突に思い立ち、舞台は北陸。といっても、やるこたぁひとつなんで、舞台はどこでも・・・(←ボコ殴) というわけで(ワタクシの)欲望赤裸々な本作、次回はまたまた18禁。あ、千尋ちゃん基準では、前回は18禁でなく23禁だっけ。さて、次回はいかに?(←蹴) |