悠理は手の中の指輪を見つめた。 「思い出の品・・・?」
億は下らないと言われる、希少価値の石を冠した指輪。 母親から譲られたその指輪を、悠理が身につけたことは数えるほどしかない。特別な品であることは確かだ。 だけど、仁義の言いたいことが悠理にはわからなかった。
「そう、それはおまえにとっても、特別だろう。口さがない奴らが聞きたくもねぇのに、教えてくれたんだ。」 仁義は静かな声で続けた。 「その指輪がおまえのサイズに直されたのは、ずっと昔なんだろう?最初の婚約の時に、本当は着けるはずだったからな。」 悠理の心臓が跳ねる。 忘れていたわけではないけれど、意識をしていたわけではない。
「それは・・・初恋の形見なんだろう?」
仁義に指摘されるまで、本当に気づかなかった。
高校時代に剣菱家の事情で、なかば無理やり清四郎と婚約させられた。 清四郎が応じたのは、剣菱財閥への野望のため。 愛など、どこにもなかった。 わずか数週間だけの婚約期間。 同じ屋敷に起居しながら、悠理が清四郎と顔を合わせることはほとんどなかった。 強行された婚約披露で、指輪など用意できるはずもなく。 剣菱財閥を切り回すのに寝る間もなかった清四郎が、悠理の気持ちを思いやることもなく。 娘の結婚に舞い上がっていた両親が、当事者の意向を無視して用意したのは、確かにこのリリィダイアモンドだった。
「・・・・そんなんじゃないよ。」 仁義が思っているような婚約じゃなかった。冗談のような決闘。愚かな結末。 清四郎も覚えてはいないだろう。ふたりが友人に戻った今では。
悠理は手の中の指輪を握り締める。 掌にちくりと刺さる、固い石の感触。 確かに、悠理の心の中にはこの石と似た、固い結晶が埋もれている。 それは抜くことのできない、恋の結晶。 胸に痛みをもたらすそれから、悠理はもう目を逸らさない。
初恋は、昇華できずに胸に刺さったままだ。 痛みに耐えられず、幼かった悠理は自分の中の恋から逃げた。 その結果、仁義を手酷く裏切り、清四郎をも巻き込んで傷を負わせた。
もう、自分に嘘はつかない。 恋を失っても、清四郎の傍に居たい。 友情でもいい。特別な絆は、確かに存在するから。
「・・・・・悪いけどよ。ちょっくらナースコール頼んでいいか。」 背後からかけられた魅録の声に、悠理は顔を上げた。 「え?」 振り返ると、病室の扉に背を預け、魅録が清四郎を支えて立っているのが目に入る。 いや、清四郎を抱えて、だ。 「こいつ、気を失っちまったらしいや。」 「!!」
汗に濡れた清四郎の顔は蒼白だ。 仁義が枕元のナースコールのスイッチを押す。 悠理は不自由な体で清四郎の元に駆け寄ろうとした。
「・・・・悠理。」 背中越しに呼び止められ、悠理は仁義を振り返った。 仁義は唇を歪ませ、低い声で唸った。 「・・・・・てめえ、幸せになんなきゃ、承知しねぇぞ。」 脅し文句のような言葉は、彼らしい。 「俺が幸せにできないのが、悔しくてたまんねぇけど・・・・・俺、おまえには笑ってて欲しいから、よ。」 「・・・・仁義・・・・。」 仁義はへへ、とバンソコウだらけ鼻の下をこすった。 「あんな馬鹿をした俺だけど・・・・最後くらい、かっこつけてぇじゃん。」 だけど、微笑もうとして失敗し。仁義のやんちゃな少年のような顔は歪み、目には涙が浮かんでいた。
無理して笑わなくていい。 許してくれなくていい。 だけど。
「ごめん・・・・・・ありがとう。」
悠理が仁義に告げることのできた言葉は、それだけだった。
傷つけて、ごめん。 そして――――愛してくれて、ありがとう。
*****
病室に寝かされた清四郎は、点滴投薬のためか、なかなか目を覚まさなかった。 「清四郎が目覚めても、次は悠理がぶっ倒れるぞ。」 「あたいは、大丈夫だよ。」 魅録の気遣いの言葉に首を振る。
実際、悠理は銃創を負ったにしては驚異的に元気だ。気を張っているためだけではないだろう。 もう、心のままに生きることを決意している。 自己嫌悪の責め苦も悲しみも、消えたわけではないけれど。 ただ清四郎の傍にいたいという想いだけに、従いたい。
ナースや医者は何度も悠理を自室へ引き戻そうとしたが、魅録の訳してくれる英語も無視し、悠理は清四郎の枕元を頑なに離れなかった。 「いっそ、同室にしてもらうか?」 悠理の頑固さに、魅録は呆れ顔。 「まぁでも、どうせこいつも目覚めたら『悠理は?』としかまた言わねぇだろうから、おまえが居た方が安心すっかもな。」 魅録は座る悠理の隣に立ち、両手をポケットに入れたまま清四郎を見下ろした。
眠る蒼白の顔。 汗の浮いた額には前髪がかかり、常よりも清四郎は幼く見える。
魅録は清四郎の顔から、悠理の掌の中の指輪に視線を向けた。 輝く稀少な宝石に、魅録は目を細める。 「ダイアモンドか――――たゆまず研磨され削られた多面的な屈折で輝く、最高級の宝石――――だけど知ってるか?ダイヤは地球上で最も硬い鉱物と言われているけれど、無敵じゃない。ある一面から衝撃を与えると、割れちまう脆さも持ってるんだ。」 ポケットから出した手で、魅録は悠理の髪をくしゃくしゃかき混ぜた。 「清四郎にとってのその弱い部分は、おまえなのかもな。」
悠理は魅録を見上げる。 頭を撫でるその手は温かく、清四郎の手を思い出させた。 「・・・清四郎があたいを気にかけてくれるのは、仲間だからだよ。おまえだって、そうだろ?」 特別な仲間。一生ものの関係。 それ以上を望むのは、欲張りすぎる。
「そりゃ、俺だっておまえの為に命張ってやりたいけどな。野梨子や可憐、美童だって、おまえのことを大事に想ってる。けど、我を忘れるほどじゃねえ・・・・・・あんな清四郎は初めて見たぜ。」 魅録の言葉で蘇るのは、仁義を殴りつけていた清四郎の姿だった。 冷静さを失い、感情すら失ったような、酷薄な姿だった。あまりの激しい怒りゆえに。 あの時、清四郎は傷つき満身創痍。普通の精神状態ではなかったことはわかっているけれど。 魅録は眠る清四郎を見つめながら、重いため息をついた。 「そいつを見てて、思い出したぜ。一見冷たくみえるけれど、ダイアモンドは熱伝導率が高い鉱物なんだとよ。」 悠理の髪から手を離し、魅録はポケットから煙草を引っ張り出した。 もちろん、病室内は禁煙だ。魅録はベッドに背を向け、戸口に足を向ける。 「おまえの親には警察の事情聴取の前に連絡したから、今夜にでも飛んでくると思うぜ。これから、俺はあいつらにも言い訳しなきゃなんねえ。あいつらにはNYに来ていることも知らせてなかったからな。」 悠理の脳裏を、仲間達の顔が過ぎる。 それはしかめっ面ばかりだったけれど。 変わらない、友情。 清四郎のくれた温もりと同じ。 永遠の絆を、信じられる。 「・・・あいつら、怒るだろうなぁ。」 火のついてない煙草を咥えた魅録は、悠理の言葉を肩を竦めて肯定した。
魅録が病室を出て行った後。 悠理は清四郎の枕元に、パタリと頭を伏せた。 至近距離で見る、清四郎の彫像のような横顔。作り物のように生気がない。 不安に、胸が詰まる。 悠理のせいで、傷つけてしまった。 慰め温もりをくれた、優しい人を。 与えられた無償の友情に、胸が詰まる。
――――これ以上、何を望む?
悠理はシーツに頬を押し付け、昂ぶる感情を抑えた。
清四郎の睫が揺れた。 ゆっくりと瞼が開かれる。 「・・・・悠理?」 清四郎はベッドサイドの悠理に顔を向けた。 瞳はまだ焦点を結んでいない。 だけど、悠理の姿を捉えた双眸が、眩しげに細められた。 清四郎の顔に浮かんだのは、微笑み。
「・・・・・!」
悠理は口を拳で押えた。 清四郎の笑みに、心が震える。 押えていないと、嗚咽を漏らしてしまいそうだった。
切ないまでに、優しい笑み。 あんな表情を向けられて、名を呼ばれ――――これ以上、何を望む?
嬉しくて、嬉しくて。 涙が溢れ出しそうだ。 それが同情でも友情でも、清四郎にとって悠理がどれほど特別なのか、その眼差しが語ってくれた。
恋しくて、恋しくて。 感情は溢れ出しそうだけど、その時感じた幸福感も、本物だった。
「・・・・・悠理?」 夢うつつの状態から脱し、徐々に清四郎の双眸が焦点を結んだ。 笑みは翳り、口元が引き結ばれる。 清四郎はゆっくりと上体を起こした。 「・・・・僕は、気を失ってしまったのか・・・・。」 腕についた点滴を、清四郎は無造作に取った。
「もっとゆっくり、寝ときなよ。」 悠理はかろうじて声を絞り出す。感情の昂ぶりに、語尾が震えた。 「あたいは、ここに居る・・・・から。」 思わず、口をついて出た言葉。 それが、清四郎の慰めになるとは限らないけれど。 悠理がここに居たかったから。
清四郎が悠理に目を向けた。 強張った顔。先ほどの笑みは完全に消え、苦しげに眉を寄せている。 「傷が痛むの?先生呼ぶ?」 心配になった悠理がナースコールのボタンに手を伸ばそうとした時、清四郎がその手を制した。 触れた指先は、熱かった。 「・・・・大丈夫です。」 発熱しているのかも知れない。 清四郎は悠理から手を離し、ベッドに再び深く身を沈めた。 室内の灯かりが目に痛いのか、仰向けに横たわったまま掌を両目に押し付けている。 表情は隠れたが、血の気の引いた唇がわなないていた。 「大丈夫そうに見えないよ?」 思わず悠理が問うと、清四郎は小さく息を吐いた。 「・・・・そうですね、大丈夫じゃないかもしれない。」 吐息とともに漏れたのは苦笑。 「目覚めた瞬間、ここがどこかわからなかった。ただ、おまえの顔が見えて・・・・とても幸せな気分だった。」 あの笑顔は、幸福な夢の名残りなのだろう。 「どんな夢を見ていたの?」 清四郎は掌で目を覆ったまま、口元を歪ませた。 苦い笑みを浮かべ、悠理の問いには答えない。
「清四郎、顔を見せてよ。」 悠理の方に顔を向けない彼に焦れた。 清四郎の心の中に、悠理の存在を探したい。 夢の中でも、そばにいたい。
「・・・・おまえを一人にしない、と約束したのに、僕がこの体たらくだ。自分が情けなくて、顔向けできませんよ。」 「顔向け・・・って。あたいが顔見たいってんのに。」 顔を見たいのは、悠理。 一緒にいたいのも、いつでも。
清四郎は顔に伏せていた拳を下ろした。 それでも悠理の方を見ないまま、天井を見つめている。
「僕がおまえと離れたくないのは・・・・もう二度とあんな経験をしたくないからだ。僕は怖がっているのかもしれない・・・・」 「怖い?おまえが?」 悠理の中で、清四郎と”怖れ”は一致しない。 清四郎はやっと悠理の方に顔を向けた。 発熱しているためか、目の周りが紅潮し黒い瞳は潤んでいる。
「そばにいると思っていたのに、遠く離れていたことが・・・ある朝、電話が来ることが怖いんですよ。『あたい、結婚するんだ』ってね。」 清四郎は笑みを浮かべようとしたのか、眉を下げた。 「情けないついでに、白状しようか。」 だけど。 悠理を見つめる清四郎の表情は、苦しげに歪んで見えた。 「僕は、あやうく月桂冠仁義を殺しかけた。それは撃たれた衝撃で我を忘れたからじゃありません。」 「なに言ってんだよ、仁義のしたことを考えたら・・・・」 口を挟もうとした悠理を、清四郎の強い口調が遮った。 「おまえが傷つけられたことに対する、怒りのためでさえなかったんです。」 吐き捨てるようにそう言った清四郎は、悠理の頬に手を伸ばした。
「ただ、おまえの心を占めている男に対する・・・・嫉妬のため。」
熱を帯びた掌が、頬に触れる。
「・・・・嫉妬していました。狂おしいほど。」
清四郎の手は、頬にわずかに触れただけですぐに離れた。 それなのに、感触は消えない。
熱い手に、心が震えた。 清四郎の言葉が信じられない。 それなのに。 清四郎の瞳は、言葉よりも雄弁だった。 痛みに耐えるように顰められた表情が。
「・・・う・・・そ・・・・」 悠理は再び拳で口を塞ごうとした。 だけど、震えるその手を、清四郎の熱い手が包み込む。
「嘘じゃない。もう、嘘なんかつけない。彼との決別で傷ついているおまえの心につけ込む行為でも、かまわない。」 清四郎は熱を帯びた目で、哀願した。
「僕は、おまえが欲しい・・・・体だけでなく、心もすべて。」
清四郎は悠理の手を握ったまま、瞼を閉じた。 睫が頬に影を落とし震えている。 まだ息は苦しげに荒い。 まるで祈りのような仕草も表情も、彼らしくなく。 弱々しい姿だった。
悠理は絶句して、清四郎を見つめていた。 信じられない。 プライドの高い彼のそんな姿が。
これまで、悠理は清四郎を対等に感じたことなど一度もなかった。 仁義には、保護欲さえ感じていたのに。 清四郎には守ってもらうばかりで、頼って甘えることしか知らなかった。 愛して欲しいと、望むばかりで。 打ち明ける勇気さえ持てなかったのは、ずっと傍にいながら、清四郎は遠い憧れの人だったから。
その彼が、今、目の前で頭を垂れている。 怖れを、口にして。 弱さを、晒して。
「・・・・せ・・・い、しろ・・・・・」
清四郎に握られた手の中で、指輪の石が掌を刺した。 存在を主張するように。 胸の中に刺さったままの、塊もまた。
愛しくて、愛しくて。 感情が溢れ出す。 零れる涙。
「全部、あげる・・・!」 仁義に渡せなかったものも、すべて。
「最初から、おまえのものだったんだから・・・・!」 叫んだ声は、かすれ上ずった。
「悠理・・・?」 驚いて顔を上げた清四郎の問いに、悠理は答えることができなかった。 嗚咽を堪えることができなかった。
「・・・・!」
伸ばした両腕で、清四郎の頭を抱えるように抱きしめる。 目を丸くする清四郎に構わず、子供のように声を上げて泣きじゃくった。 もう抑えることはできなかった。 恋しさも、激情も。
――――望んでも、いいのだ。 彼だけが、欲しい。 たったひとつの、愛だけが。
*****
悠理が声を殺して泣くことは、もう二度とないだろう。 痛みも悲しみも、すべて嗚咽と共に吐き出せるから。 心を隠さなくてもいいから。 もう隠せないから。
日本に帰ったら。 皆に、打ち明けよう。 きっと呆れられ、叱られるだろうけど、白状しよう。
この涙が止まったら。 清四郎に、悠理の初恋の話をしよう。 臆病だったために、逃げ出してしまった卑怯も。 愛してくれた人の心を弄ぶように、裏切ってしまったことも。 愚かな恋の、話をしよう。
輝くダイアモンドほど綺麗じゃなくても、固く変わらない想いを。
次回、エピローグです。 ドSリクのおかげ(?)で、いつにも増してのヨレヨレボロボロ清四郎を書けて幸せでした。・・・・・私はやっぱ好きな子ほど苛めるタイプやな。(笑)
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