Diaーmond  -8-

 

  

 悠理は手の中の指輪を見つめた。

「思い出の品・・・?」

 

億は下らないと言われる、希少価値の石を冠した指輪。

母親から譲られたその指輪を、悠理が身につけたことは数えるほどしかない。特別な品であることは確かだ。

だけど、仁義の言いたいことが悠理にはわからなかった。

 

「そう、それはおまえにとっても、特別だろう。口さがない奴らが聞きたくもねぇのに、教えてくれたんだ。」

仁義は静かな声で続けた。

「その指輪がおまえのサイズに直されたのは、ずっと昔なんだろう?最初の婚約の時に、本当は着けるはずだったからな。」

悠理の心臓が跳ねる。

忘れていたわけではないけれど、意識をしていたわけではない。

 

「それは・・・初恋の形見なんだろう?」

 

仁義に指摘されるまで、本当に気づかなかった。

 

 

高校時代に剣菱家の事情で、なかば無理やり清四郎と婚約させられた。

清四郎が応じたのは、剣菱財閥への野望のため。

愛など、どこにもなかった。

わずか数週間だけの婚約期間。

同じ屋敷に起居しながら、悠理が清四郎と顔を合わせることはほとんどなかった。

強行された婚約披露で、指輪など用意できるはずもなく。

剣菱財閥を切り回すのに寝る間もなかった清四郎が、悠理の気持ちを思いやることもなく。

娘の結婚に舞い上がっていた両親が、当事者の意向を無視して用意したのは、確かにこのリリィダイアモンドだった。

 

 

「・・・・そんなんじゃないよ。」

仁義が思っているような婚約じゃなかった。冗談のような決闘。愚かな結末。

清四郎も覚えてはいないだろう。ふたりが友人に戻った今では。

 

悠理は手の中の指輪を握り締める。

掌にちくりと刺さる、固い石の感触。

確かに、悠理の心の中にはこの石と似た、固い結晶が埋もれている。

それは抜くことのできない、恋の結晶。

胸に痛みをもたらすそれから、悠理はもう目を逸らさない。

 

初恋は、昇華できずに胸に刺さったままだ。

痛みに耐えられず、幼かった悠理は自分の中の恋から逃げた。

その結果、仁義を手酷く裏切り、清四郎をも巻き込んで傷を負わせた。

 

もう、自分に嘘はつかない。

恋を失っても、清四郎の傍に居たい。

友情でもいい。特別な絆は、確かに存在するから。

 

 

 「・・・・・悪いけどよ。ちょっくらナースコール頼んでいいか。」

背後からかけられた魅録の声に、悠理は顔を上げた。

「え?」

振り返ると、病室の扉に背を預け、魅録が清四郎を支えて立っているのが目に入る。

いや、清四郎を抱えて、だ。

「こいつ、気を失っちまったらしいや。」

「!!」

 

汗に濡れた清四郎の顔は蒼白だ。

仁義が枕元のナースコールのスイッチを押す。

悠理は不自由な体で清四郎の元に駆け寄ろうとした。

 

「・・・・悠理。」

背中越しに呼び止められ、悠理は仁義を振り返った。

仁義は唇を歪ませ、低い声で唸った。

「・・・・・てめえ、幸せになんなきゃ、承知しねぇぞ。」

脅し文句のような言葉は、彼らしい。

「俺が幸せにできないのが、悔しくてたまんねぇけど・・・・・俺、おまえには笑ってて欲しいから、よ。」

「・・・・仁義・・・・。」

仁義はへへ、とバンソコウだらけ鼻の下をこすった。

「あんな馬鹿をした俺だけど・・・・最後くらい、かっこつけてぇじゃん。」

だけど、微笑もうとして失敗し。仁義のやんちゃな少年のような顔は歪み、目には涙が浮かんでいた。

 

無理して笑わなくていい。

許してくれなくていい。

だけど。

 

「ごめん・・・・・・ありがとう。」

 

悠理が仁義に告げることのできた言葉は、それだけだった。

 

傷つけて、ごめん。

そして――――愛してくれて、ありがとう。

 

 

*****

  

 

 病室に寝かされた清四郎は、点滴投薬のためか、なかなか目を覚まさなかった。

「清四郎が目覚めても、次は悠理がぶっ倒れるぞ。」

「あたいは、大丈夫だよ。」

魅録の気遣いの言葉に首を振る。

 

実際、悠理は銃創を負ったにしては驚異的に元気だ。気を張っているためだけではないだろう。

もう、心のままに生きることを決意している。

自己嫌悪の責め苦も悲しみも、消えたわけではないけれど。

ただ清四郎の傍にいたいという想いだけに、従いたい。

 

ナースや医者は何度も悠理を自室へ引き戻そうとしたが、魅録の訳してくれる英語も無視し、悠理は清四郎の枕元を頑なに離れなかった。

「いっそ、同室にしてもらうか?」

悠理の頑固さに、魅録は呆れ顔。

「まぁでも、どうせこいつも目覚めたら『悠理は?』としかまた言わねぇだろうから、おまえが居た方が安心すっかもな。」

魅録は座る悠理の隣に立ち、両手をポケットに入れたまま清四郎を見下ろした。

 

眠る蒼白の顔。

汗の浮いた額には前髪がかかり、常よりも清四郎は幼く見える。

 

魅録は清四郎の顔から、悠理の掌の中の指輪に視線を向けた。

輝く稀少な宝石に、魅録は目を細める。

「ダイアモンドか――――たゆまず研磨され削られた多面的な屈折で輝く、最高級の宝石――――だけど知ってるか?ダイヤは地球上で最も硬い鉱物と言われているけれど、無敵じゃない。ある一面から衝撃を与えると、割れちまう脆さも持ってるんだ。」

ポケットから出した手で、魅録は悠理の髪をくしゃくしゃかき混ぜた。

「清四郎にとってのその弱い部分は、おまえなのかもな。」

 

悠理は魅録を見上げる。

頭を撫でるその手は温かく、清四郎の手を思い出させた。

「・・・清四郎があたいを気にかけてくれるのは、仲間だからだよ。おまえだって、そうだろ?」

特別な仲間。一生ものの関係。

それ以上を望むのは、欲張りすぎる。

 

「そりゃ、俺だっておまえの為に命張ってやりたいけどな。野梨子や可憐、美童だって、おまえのことを大事に想ってる。けど、我を忘れるほどじゃねえ・・・・・・あんな清四郎は初めて見たぜ。」

魅録の言葉で蘇るのは、仁義を殴りつけていた清四郎の姿だった。

冷静さを失い、感情すら失ったような、酷薄な姿だった。あまりの激しい怒りゆえに。

あの時、清四郎は傷つき満身創痍。普通の精神状態ではなかったことはわかっているけれど。

魅録は眠る清四郎を見つめながら、重いため息をついた。

「そいつを見てて、思い出したぜ。一見冷たくみえるけれど、ダイアモンドは熱伝導率が高い鉱物なんだとよ。」

悠理の髪から手を離し、魅録はポケットから煙草を引っ張り出した。

もちろん、病室内は禁煙だ。魅録はベッドに背を向け、戸口に足を向ける。

「おまえの親には警察の事情聴取の前に連絡したから、今夜にでも飛んでくると思うぜ。これから、俺はあいつらにも言い訳しなきゃなんねえ。あいつらにはNYに来ていることも知らせてなかったからな。」

悠理の脳裏を、仲間達の顔が過ぎる。

それはしかめっ面ばかりだったけれど。

変わらない、友情。

清四郎のくれた温もりと同じ。

永遠の絆を、信じられる。

「・・・あいつら、怒るだろうなぁ。」

火のついてない煙草を咥えた魅録は、悠理の言葉を肩を竦めて肯定した。

 

 

魅録が病室を出て行った後。

悠理は清四郎の枕元に、パタリと頭を伏せた。

至近距離で見る、清四郎の彫像のような横顔。作り物のように生気がない。

不安に、胸が詰まる。

悠理のせいで、傷つけてしまった。

慰め温もりをくれた、優しい人を。

与えられた無償の友情に、胸が詰まる。

 

――――これ以上、何を望む?

 

悠理はシーツに頬を押し付け、昂ぶる感情を抑えた。

 

清四郎の睫が揺れた。

ゆっくりと瞼が開かれる。

「・・・・悠理?」

清四郎はベッドサイドの悠理に顔を向けた。

瞳はまだ焦点を結んでいない。

だけど、悠理の姿を捉えた双眸が、眩しげに細められた。

清四郎の顔に浮かんだのは、微笑み。

 

「・・・・・!」

 

悠理は口を拳で押えた。

清四郎の笑みに、心が震える。

押えていないと、嗚咽を漏らしてしまいそうだった。

 

切ないまでに、優しい笑み。

あんな表情を向けられて、名を呼ばれ――――これ以上、何を望む?

 

嬉しくて、嬉しくて。

涙が溢れ出しそうだ。

それが同情でも友情でも、清四郎にとって悠理がどれほど特別なのか、その眼差しが語ってくれた。

 

恋しくて、恋しくて。

感情は溢れ出しそうだけど、その時感じた幸福感も、本物だった。

 

「・・・・・悠理?」

夢うつつの状態から脱し、徐々に清四郎の双眸が焦点を結んだ。

笑みは翳り、口元が引き結ばれる。

清四郎はゆっくりと上体を起こした。

「・・・・僕は、気を失ってしまったのか・・・・。」

腕についた点滴を、清四郎は無造作に取った。

 

「もっとゆっくり、寝ときなよ。」

悠理はかろうじて声を絞り出す。感情の昂ぶりに、語尾が震えた。

「あたいは、ここに居る・・・・から。」

思わず、口をついて出た言葉。

それが、清四郎の慰めになるとは限らないけれど。

悠理がここに居たかったから。

 

清四郎が悠理に目を向けた。

強張った顔。先ほどの笑みは完全に消え、苦しげに眉を寄せている。

「傷が痛むの?先生呼ぶ?」

心配になった悠理がナースコールのボタンに手を伸ばそうとした時、清四郎がその手を制した。

触れた指先は、熱かった。

「・・・・大丈夫です。」

発熱しているのかも知れない。

清四郎は悠理から手を離し、ベッドに再び深く身を沈めた。

室内の灯かりが目に痛いのか、仰向けに横たわったまま掌を両目に押し付けている。

表情は隠れたが、血の気の引いた唇がわなないていた。

「大丈夫そうに見えないよ?」

思わず悠理が問うと、清四郎は小さく息を吐いた。

「・・・・そうですね、大丈夫じゃないかもしれない。」

吐息とともに漏れたのは苦笑。

「目覚めた瞬間、ここがどこかわからなかった。ただ、おまえの顔が見えて・・・・とても幸せな気分だった。」

あの笑顔は、幸福な夢の名残りなのだろう。

「どんな夢を見ていたの?」

清四郎は掌で目を覆ったまま、口元を歪ませた。

苦い笑みを浮かべ、悠理の問いには答えない。

 

「清四郎、顔を見せてよ。」

悠理の方に顔を向けない彼に焦れた。

清四郎の心の中に、悠理の存在を探したい。

夢の中でも、そばにいたい。

 

「・・・・おまえを一人にしない、と約束したのに、僕がこの体たらくだ。自分が情けなくて、顔向けできませんよ。」

「顔向け・・・って。あたいが顔見たいってんのに。」

顔を見たいのは、悠理。

一緒にいたいのも、いつでも。

 

清四郎は顔に伏せていた拳を下ろした。

それでも悠理の方を見ないまま、天井を見つめている。

 

「僕がおまえと離れたくないのは・・・・もう二度とあんな経験をしたくないからだ。僕は怖がっているのかもしれない・・・・」

「怖い?おまえが?」

悠理の中で、清四郎と”怖れ”は一致しない。

清四郎はやっと悠理の方に顔を向けた。

発熱しているためか、目の周りが紅潮し黒い瞳は潤んでいる。

 

「そばにいると思っていたのに、遠く離れていたことが・・・ある朝、電話が来ることが怖いんですよ。『あたい、結婚するんだ』ってね。」

 清四郎は笑みを浮かべようとしたのか、眉を下げた。

「情けないついでに、白状しようか。」

だけど。

悠理を見つめる清四郎の表情は、苦しげに歪んで見えた。

「僕は、あやうく月桂冠仁義を殺しかけた。それは撃たれた衝撃で我を忘れたからじゃありません。」

「なに言ってんだよ、仁義のしたことを考えたら・・・・」

口を挟もうとした悠理を、清四郎の強い口調が遮った。

「おまえが傷つけられたことに対する、怒りのためでさえなかったんです。」

吐き捨てるようにそう言った清四郎は、悠理の頬に手を伸ばした。

 

「ただ、おまえの心を占めている男に対する・・・・嫉妬のため。」

 

熱を帯びた掌が、頬に触れる。

 

「・・・・嫉妬していました。狂おしいほど。」

 

清四郎の手は、頬にわずかに触れただけですぐに離れた。

それなのに、感触は消えない。

 

熱い手に、心が震えた。

清四郎の言葉が信じられない。

それなのに。

清四郎の瞳は、言葉よりも雄弁だった。

痛みに耐えるように顰められた表情が。

 

「・・・う・・・そ・・・・」

悠理は再び拳で口を塞ごうとした。

だけど、震えるその手を、清四郎の熱い手が包み込む。

 

「嘘じゃない。もう、嘘なんかつけない。彼との決別で傷ついているおまえの心につけ込む行為でも、かまわない。」

清四郎は熱を帯びた目で、哀願した。

 

「僕は、おまえが欲しい・・・・体だけでなく、心もすべて。」

 

清四郎は悠理の手を握ったまま、瞼を閉じた。

睫が頬に影を落とし震えている。

まだ息は苦しげに荒い。

まるで祈りのような仕草も表情も、彼らしくなく。

弱々しい姿だった。

 

悠理は絶句して、清四郎を見つめていた。

信じられない。

プライドの高い彼のそんな姿が。

 

 

これまで、悠理は清四郎を対等に感じたことなど一度もなかった。

仁義には、保護欲さえ感じていたのに。

清四郎には守ってもらうばかりで、頼って甘えることしか知らなかった。

愛して欲しいと、望むばかりで。

打ち明ける勇気さえ持てなかったのは、ずっと傍にいながら、清四郎は遠い憧れの人だったから。

 

その彼が、今、目の前で頭を垂れている。

怖れを、口にして。

弱さを、晒して。

 

「・・・・せ・・・い、しろ・・・・・」

 

清四郎に握られた手の中で、指輪の石が掌を刺した。

存在を主張するように。

胸の中に刺さったままの、塊もまた。

  

愛しくて、愛しくて。

感情が溢れ出す。

零れる涙。

 

「全部、あげる・・・!」

仁義に渡せなかったものも、すべて。

 

「最初から、おまえのものだったんだから・・・・!」

叫んだ声は、かすれ上ずった。

 

「悠理・・・?」

驚いて顔を上げた清四郎の問いに、悠理は答えることができなかった。

嗚咽を堪えることができなかった。

 

「・・・・!」

 

伸ばした両腕で、清四郎の頭を抱えるように抱きしめる。

目を丸くする清四郎に構わず、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

もう抑えることはできなかった。

恋しさも、激情も。

 

――――望んでも、いいのだ。

彼だけが、欲しい。

たったひとつの、愛だけが。

 

 

*****

  

 

悠理が声を殺して泣くことは、もう二度とないだろう。

痛みも悲しみも、すべて嗚咽と共に吐き出せるから。

心を隠さなくてもいいから。

もう隠せないから。

 

 

日本に帰ったら。

皆に、打ち明けよう。

きっと呆れられ、叱られるだろうけど、白状しよう。

 

この涙が止まったら。

清四郎に、悠理の初恋の話をしよう。

臆病だったために、逃げ出してしまった卑怯も。

愛してくれた人の心を弄ぶように、裏切ってしまったことも。

愚かな恋の、話をしよう。

 

輝くダイアモンドほど綺麗じゃなくても、固く変わらない想いを。 

 

 

 

NEXT

 


次回、エピローグです。

 ドSリクのおかげ(?)で、いつにも増してのヨレヨレボロボロ清四郎を書けて幸せでした。・・・・・私はやっぱ好きな子ほど苛めるタイプやな。(笑)

 

 

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