ミリオンダラー・ベィビー -3-
「勝負を降りるんですか?悠理」
聴きなれた、低く落ち着いた声。 丁寧に撫で付けられた艶のある黒髪。 急ぎあつらえたものでも借り物でもない、体にぴったり合ったスーツ。 悠理が日本を発った時、清四郎は彼女がこの地に来ることを予測していなかったはずだ。 それなのに、置き去りにしてからわずか数時間で、清四郎は一分の隙もなく整えられた完璧な姿で彼女の隣に座っている。
「美童、あのヤロ・・・・!」 悠理は友人の姿を探し、視線を彷徨わせた。 美童の姿は、はるか人波の向こうに見つけた。 それが約束だったとはいえ、悠理から遠く離れたバーカウンターで、美童はこちらを眺めている。 悠理の剣呑な視線に気づいたに違いないのに、美童はワイン片手ににこやかに手を振ってみせた。 確信犯だ。 たまには清四郎と離れてみるのもいいだろう、と言っていたくせに。 清四郎がこの場に現れたということは、美童が裏切ったからに違いない。
立ったまま美童を睨みつけていると、隣から嘆息の気配を感じた。 言いたいことはたくさんあるだろうに、能弁家のはずの清四郎は口を引き結び、あくまで悠理の方に顔を向けない。 表面的には紳士面をしているが、ひどく不機嫌であることは見てとれた。 思わず、悠理は椅子にストンと腰を下ろす。 動揺を悟られたくなくて、悠理もプイと顔を背け、頑なに彼を無視しようとした。 それでも、全身で隣の男の気配を感じてしまう。
胸はざわめき、頬が上気する。きっと、赤面してしまっている。 悔しさに。恥ずかしさに。 清四郎と一緒に居ると感じる、やるせなさと切なさと屈辱的な敗北感。 彼の手の中からどうしても抜け出せない自分が、腹立たしくもどかしい。
意地でも清四郎の方を見ず、悠理はテーブル上に配られたカードを睨みつけていた。 やけくそのように目の前のチップをグイと押し出す。ここ何時間繰り返した機械的な動作だ。 清四郎も落ち着いた所作でチップを動かす。 同じテーブルについているのは四人。 ディーラーが静かにカードをめくり、勝者にチップを積み上げた。 最初の勝負は悠理が勝った。
「・・・・ふん。持ち出した金はすってしまっていないようですね。」 負け惜しみでもないだろうが、清四郎が低い声で話しかけてきた。まだ視線すら動かさず、怜悧な横顔を見せたままだ。 悠理もあさっての方を向きつつ答える。 「なんだよ、それ。あたいが金盗んで家を出たみたいな言い方だな!」 「家を出る際、自分の貯金以外に、株券やらを計理士に預けて清算しようとしただろう。おかげで、大変でしたよ。」 「え・・・株売っちゃマズかったんかよ?」 「おまえは自分がお義母さんに次ぐ剣菱の大株主だって自覚してます?いきなり市場に大量の剣菱株を放出すれば、日本経済大混乱だ。慌てて計理士に止めさせましたよ。」 「ええっ、じゃあ、あたいの金は?!」 悠理は次のゲームに、チップの一部少量だけを賭ける。目の前の金が命綱になると思ったわけではなかったが。 清四郎はそんな悠理を鼻で笑い、自分は思い切って張った。 心中の迷いのせいではないだろうが、悠理は負けて清四郎は勝った。 双方のチップの山が近くなる。 「現金だけでも随分あるはずだろう。スイスの銀行残高は減らしてないんでしょう?」 「あ、銀行はだいじょぶ・・・って、おまえ知ってたのかよ!」 スイス銀行の金は、もともと百合子が悠理のために用意した隠し預金だ。剣菱家本体と、剣菱財閥には関係がない。 「当然。」 清四郎は軽く肩をすくめた。 悠理はギリギリと歯を鳴らしながら、次のゲームで勝ったチップをかき寄せる。 一方、清四郎は続くゲームに大金を投じて勝った。
不穏な空気を感じ取ったわけでもないだろうが、気づけば負けが込んでいたテーブルの客が、一人また一人と退散し、テーブルについているのは、悠理と清四郎の二人だけになっていた。 しかし、テーブルの周囲は野次馬に囲まれている。 積み上げたチップの行方に、注目が集まっていた。 ただでさえ大金の動くバカラ。タイマン状態になった二人の醸し出す緊迫感もあったろう。
ふたりの周囲で交わされる、英語の感嘆と揶揄の声に混じり。 「ふふ、ついにふたりきりだねぇ。」 聞きなれた日本語の声に、悠理は素早く振りかえった。 「美童!ってめぇ・・・」 ガシッと背後に立っていた友人の腕を掴む。 「何が”ふたりきり”だよ、この裏切り者!」 「痛、痛いって悠理!爪たてないで!」 確かにゲームはタイマン状態だが、周囲には人だかりだ。 悠理が美童と揉みあっていると、ヒンヤリとした冷気が漂って来た。
「仲良いですね・・・・そのドレスも美童が選んだんでしょう?」 思わず隣に顔を向けると、それまで横顔しか見せなかった清四郎が、向き直って悠理を見つめていた。
薄いドレス姿であることを意識してしまい、肌が火照った。 清四郎にじっと見つめられると、美童セレクトの体の線の出る絹の服が、いまさらのように恥ずかしくなる。 だけど、清四郎の目の中に揶揄の色はなかった。 理知的な黒い瞳は、倣岸な強い意志を感じさせる。いつものように。
悠理は赤らんだ頬をごまかしたくて、声を荒げた。 「お、おまえだってなぁ、そのスーツ、やけに似合ってんじゃん!」 褒め言葉のつもりではなく、用意周到さに呆れただけなのだが。 「ふん、専用ジェットには常備してありますからね。」 清四郎は悠理の言わんとするところを正確に理解していた。 「えっ、ジェットで来たのかよ?」 剣菱は2機専用ジェットを所持している。1機は百合子専用の私用機で、もう1機は商用であり万作引退の今では豊作と清四郎が使用していた。だが、清四郎がプライベートにジェット機を使ったことはなかったはずだ。 「あ、株を売っちゃうところだったから、私用ってわけじゃ・・?」 清四郎が悠理を追いかけて来たのは、純然たる私用というわけでもないだろう。悠理の考えなしの行動が、剣菱の株を暴落させかねなかった。清四郎が大事なのはどこまでも『剣菱』なのだ。 「・・・・・私用ですよ。」 だが、清四郎は吐き捨てるようにそう言って、目の前のチップを押し出した。
「悠理、今度の賭けを最後にしないか。」 高く積まれたチップの向こうで、清四郎が提案した。 「ここにある金だけじゃない。僕が動かせるすべての金を賭けよう。」 「え?」 首を傾げた悠理に、清四郎は唇の端を引き上げる。 笑みの形に唇を歪めても、清四郎の表情は硬く、蒼ざめてさえ見えるのに。 落ち着いた低い声が、とんでもない言葉を紡ぐ。
「十億、賭けます。」
「・・・・・!」 悠理は絶句して、ごくりとつばを飲み下す。
「じゅ・・・十億ぅっ?!」 裏返った声を出したのは、悠理の席の後ろで身を乗り出した美童だった。 清四郎はクッと喉を鳴らし笑った。 「偶然にも、昔のおまえの身代金と同じですね。剣菱のトップとして、いま僕が動かせる最大の金額なんですよ。」 『十億』という日本語を聞き取ったのか、美童以外の周囲のギャラリーの間にもざわめきが広がり始めた。 しかし、清四郎は周囲を無視し、悠理だけに話し続ける。 「もちろん、これは僕個人の金じゃない。私用のギャンブルで動かしたことが発覚すれば、僕は剣菱を去らずにはいられないでしょうね。たとえ、剣菱の娘のおまえの手ですぐに補填されたとしても。」 「え、それって・・・・・」 やっと悠理は声を絞り出した。 動揺する悠理をよそに、清四郎の笑みが柔らかくなる。言葉と裏腹に、不自然なほど。 「そう。おまえが剣菱を捨てる必要はない。剣菱を去るのは、僕の方です。ただし、この勝負に負けたなら、ですが。」
「・・・・・お、おまえが負けたら、剣菱を出るってか?じゃあ、あたいが負けたら、おとなしく家に戻れ、かよ?」 眉を寄せて問いかける悠理に、清四郎は首を振った。 「そうじゃない。今度ばかりは、僕も腹をくくった。まさかおまえが『剣菱』すら捨てるとは思わなかった。」 柔らかな笑みはそのままに、清四郎の瞳に影が落ちる。 「これまで何度もおまえは僕から逃げたが、今回ばかりは本気なのでしょう?」
ディーラーは大勝負のカードを配り始める。 最後の勝負と知ってか知らずか、慣れた手つきには淀みがない。 緊張に息を詰める悠理を見つめ、清四郎は笑みを消した。
「もしも僕が勝ったら・・・・・・・今宵一夜、おまえを下さい。」
ざわめくギャラリーなど、清四郎は一顧だにしない。 彼の相手は、ただ一人なのだ。 強い瞳が、真っ直ぐに悠理を射抜く。
「負けたら、僕はこれまでのすべてを失う。おまえが失うのは、一晩だけだ。高くはないでしょう?」
悠理ちゃんのお代金、10億円なり〜。ってなわけで、有閑ですからね、動くお金はミリオンダラーどころじゃないです。つくづく原作はとんでもないよなぁ。身代金もだけど、高校生がラスベガスで10億スっちゃうんだもんな・・・(笑) |