『台風の為、運休いたします。』 豪雨の中、駅に辿り着いてみると、家を出る前は動いていた電車も止まっていた。 「・・・しかたありませんね。」 僕は溜息をついて、踵を返した。自宅ではなく、剣菱邸に向かって。
――――悠理が待ってる。
気だけが急いた。 途中でタクシーを拾うつもりだったが、道路上の水量が増すにつれ、大通りからも車の影が消えた。 傘は役に立たず、ヤッケの耳元で風がうなる。 僕は豪雨の中をゴム長で歩き続けた。
黙々と歩いていると、自分の行動の馬鹿ばかしさに疑問を感じた。 どうして、僕はこんな天候の中、剣菱家に向かうのか? 台風一過の明日は、悠理も明るい笑顔で登校して来るに違いないのに。 きっと今夜、可憐と(ひょっとして魅録とも)一緒に作ってくれるのであろう、僕のためのケーキを持って。
奮闘しているだろう悠理を思うと、胸の奥がこそばゆい。 悠理の作ったケーキなぞ、ありがた迷惑の極みだと理性は告げているのに。 ポケットに用意した胃薬は、悠理ではなく、明日の僕にこそ必要だろうに。
それでも、僕はヤッケの襟元を握りなおし、足を速めた。 剣菱家までは、歩いてもあと30分程度だ。
風速40メートル。 暴風に看板が飛び、放置自転車が浮き上がる。 時折、足を踏ん張っていなければ、体ごと風に持っていかれてしまいかねない。 大通りをそれてからは、視界に人影は完全になくなった。 車さえ、道路上に放置されている。
まるで終末の世界でたった一人生き残ったような、錯覚を感じた。
――――だけど、悠理が待ってる。 この道は、悠理に続いている。
そう思うだけで、全身に力が漲った。 この、何かに衝かれたような感情の意味を考えるのには孤独な道程はいい機会かもしれない。
御令嬢とも思えぬ野蛮さと下品さで、女とも思えぬ悠理。 だけど、”こうあるべき”と思っていた僕の固定観念を覆すのはいつも彼女だ。 子供の頃から、いつも驚かされてきた。 今日も驚いた。まさか、悠理が僕のためにケーキを作ろうとするなんて。
晩秋の雨は冷たい。 だけど、胸の中は温かだった。 決して、厳しい道程に息が上がっているためではない。 足元の歩道では雨水が濁流となって流れていたが、僕はひたすら歩き続けた。 高台から流れ落ちる雨量が膝下まで達し、進路が阻まれるまで。
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まるで、洪水だった。 道路とはすでに呼べない地面から、水かさはすでに50センチ近く。 黒くうねる濁流に、僕はいまさら事態の深刻さを知った。 今回の台風は尋常ではない。このまま雨が降り止まなければ、都心で地下街は水没。区内でも床上浸水家屋が相当数出てしまう。 暴風にまぎれ聴こえるサイレンは、避難警報か。 まさか、1947年のカスリーン台風の再来か・・・と、大災害の悪夢に僕の頭はやっと冷えた。
暗い空に目を向ける。渦巻く暗雲。絵に描いたような台風の空。 さすがの僕も、こんな夜に外出したことを後悔し始めていた。 今日は誕生日だというのに。 ・・・・いや、誕生日だから、僕はここにいるのだ。悠理に一目、会うために。
馬鹿で猿で犬で、意地汚く食い過ぎたために、学校を休んだ悠理。 だけど、きっと僕の顔を見れば、照れくさそうな笑みを見せてくれるに違いない。
僕は濁流の中、もう一度歩き始めた。この高台を登りきれば、剣菱家の威容が見えるはず。もう、悠理の笑顔まであと少し。 水深40センチを歩くなど、どうということはない。
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ざぶざぶ邁進していた僕の足を、次に止めさせたのは、悲鳴だった。
「・・・どこから?」 僕は周囲を見回した。 今歩いている道は公道だが、もう剣菱家の地所に入っている。 右手に延々と続くお屋敷の塀。左手には(今は黒い海のようだが)万作さんの畑。遠くに天守閣のような剣菱邸の母屋が遠望できる以外、人家はない。 公道上に放置され水没したバイクや車が数台見えるものの、人通りは無論なかった。
女の悲鳴。男の怒号。確かに聴こえた。 「あの車か?」 僕はヘッドライトを点けたまま放置してある(ように見えた)ライトバンに近づき、覗き込んだ。
呻き声と悲鳴。 「がんばれ、がんばるんだ!」 怒号だと思ったのは、男の必死の泣き声だった。 横たわる妻の手を握っていた男は、窓から覗き込んだ僕に気づき、ドアを開けた。 「助けて!助けてください!」 後部座席には、妊婦が脂汗を流してうんうん唸っていた。 「・・・・!」 僕は絶句した。 妊婦の下半身は雨風のためでなく、ぐっしょりと濡れている。 「破水・・・しているんですね?」 「もう、もう生まれそうなんです!」 女がまた、悲鳴を上げ身じろいだ。 「いきんじゃだめだ!」 彼女に怒鳴ったあと、僕は夫に顔を向けた。 「救急車は?!」 「とっくに連絡しました!でもこの雨で・・・」 僕は舌打ちしながら、携帯を取り出した。 一刻を争う事態だ。 「菊正宗清四郎です!急病人です、すぐに救援を寄越してください!」 現在地を告げる。 電話先は、剣菱家。 目と鼻の先(といっても、あと数キロはありそうだが)の上に、ボートなり水陸両用車なり出動可能な日本の一般家庭(?)は剣菱家以外ない。 案の定、電話に出た執事の五代は、車もヘリも不可能な天候にもかかわらず、救援を請け負ってくれた。
しかし、僕が安堵の吐息をつく前に。 「うあああっ!!」 涙声の悲鳴。 見れば、妊婦は出血していた。 もう、出産は始まっているのだ。 「助けて、女房と子供を助けてくださいーっ!」 男にすがりつかれ、僕は腹をくくった。
「あなたがしっかりしなくて、どうするんですか!救援はすぐに来ます!」 男を叱り付け、失礼、と妊婦の服をめくった。 「僕は医学生です。状態を確認させていただきます」 口からの出まかせは、一介の高校生が人妻の下半身を覗き見るわけにはいかないためだ。
さすがの僕も息を呑んだ。 出血現場は見慣れているものの、出産に立ち会ったことはない。それでも、もう乳児の頭が出ている現状では、事態がノンストップであるということを判断できた。
豪雨と洪水。衛生状況は最悪。しかし、とても救援は間に合わない。 僕は即座に決断した。
「・・・ハサミかナイフ、それからライターと清潔な布はありますか?」 「そ、そんなもの・・・」 「裁縫セットかなにかは?」 「バ・・・バッグの中に・・・」 苦しい息の下で妊婦自身が答え、夫は彼女のバックに飛びついて中を漁った。 入院準備のための袋の中から、思いのほかちゃんとした裁縫セットが発見された。 その他、まだ封を切っていない殺菌消毒された新生児用の肌着セットや布オムツやウエットティッシュなど、必要とされる物もろもろが。 「ハサミをあなたのライターで殺菌してください」 僕はそう告げると、肌着の袋の封を切った。
まるで僕らしくない、原始的サバイバル。 悠理の顔が、ふと脳裏をよぎった。サバイバルは彼女向きだ。 泣き虫で小心でセコくて、何かあると僕頼みの甘ったれ。 それでも時折、とんでもない火事場の糞度胸で驚かせてくれる悠理。 彼女に頼られると、僕は超人になれる気がする。そうしていつも、不可能を可能に変えてきたのだ。
「先生、お願いします!!」 パニックのあまり”センセイ”呼ばわりで僕を伏し拝む夫婦に泣き声で頼まれなくても、わかっている。
頭の中で、すでにうるさいほど悠理がわめいているから。 助けられるのは、僕しかいないと。
赤ん坊くらい取り上げられなくては、菊正宗清四郎の名が廃る。
清四郎君のお誕生日ネタにもかかわらず、どんどん話がズレる・・・放置していた理由はこれです。次あたりには、清×悠話にもっていきたいもんだ。 |