「おーい!」 呼び声が聞こえ、僕は頭を突っ込んでいたライトバンの後部から身を起こした。 近づいて来るのは、剣菱家の救助ボートだ。
「げっ?!」 船の先端で大きなライトを担いでいる黒ガッパが、詰まった声を上げた。 眩しいライトに照らされながら、僕はボート上の人物を見つめた。 最後尾の雨合羽姿は、老体を鞭打って自らエンジンを動かしている五代。 その前で担架を抱えたライダースーツは魅録。 そして、先頭でライトを抱えている黒ガッパは、誰であろう腹痛で学校を休んだはずの、悠理その人だった。
「せ、清四郎・・・・」 悠理が蒼白な顔で僕の名を呼んだ。 「おまえ、血まみれだじょーっ?!」 臍帯血で汚れた僕のヤッケを見て、悠理は凍り付いていた。
「た、助かったんですね・・・」 父親になったばかりの男が、僕の背中に泣きながらすがりついた。 布で拭ったが”赤子”という呼び名そのものの赤茶けた新生児は、母親が大事に抱きしめている。 誕生は22時14分、体重はおよそ3000グラム、女児だ。 母子とも元気であるが、早急にしかるべき処置をしなければならない。
「う、うわーっうわーっ!赤ちゃんっ?!」 わめく悠理に頷きつつ、僕は五代に顔を向けた。 「剣菱家にナースは?」 「今夜はちょうど医師もおりまするぞ!」 五代の返答を聞いて、やっと僕は安堵の吐息をついた。 強張っていた全身が弛緩する。 気づけば、いつの間にか雨も小降りに変わっていた。
僕を見て驚く悠理が見たかったのは、確かだけれど。 「・・・悠理!なんだって、腹痛で苦しんでいるはずのおまえが、ボートに乗って来るんですか!」 安堵とともに口をついて出たのは、笑顔を見たかったはずの彼女を、叱り飛ばす小言だった。 「むぅ・・・助けに来てやったのにぃ」 悠理の頬がぷっくり膨れる。
迎えに出た医師と看護婦に夫婦と乳児を引き渡し、なおも僕は悠理を叱った。 「だいたい、医師が剣菱家に居るのは、おまえの腹痛のためなんじゃ?」 「も、もう元気だよっ」 「そうだよな、俺らも見舞いに来て拍子抜けしたよ」 魅録が苦笑する。 「可憐とバイクで来たが、いきなりの荒天に帰りそびれちまって、足止め食ってたんだ」 「バイクで帰れば遭難ですよね」 ふむふむ頷く。 「そのおまえは、どうして遭難してたんだよ」 「む・・・」 珍しくも鋭い悠理の指摘に、僕は唇を噛み締めた。
――――どうして、悠理に会いに来たのか?
「な、なんだよ・・・?」 悠理が怯えた顔をした。 無意識のうちに、僕は無言の圧力をかけてしまっていたらしい。 二三歩後ずさった悠理を追って、僕は足を一歩踏み出した。 「悠理、僕は・・・」
――――何を、言うつもりなのか?
自分でもわからない。 剣菱家の広いエントランス。まだ風雨の名残の雫を垂らしながら、僕は悠理を真っ直ぐ見つめた。 ただ、告げたかった。 矢も盾もたまらず、ここに向かったことを。 ただ、悠理に会いたかったのだと。
口を開いた僕を制止したのは、またもや女の悲鳴だった。
「やだっ、清四郎!なによその血!!」 悲鳴は、可憐。 「あ、可憐。清四郎、すごいんだじょ!台風の中、赤ん坊を取り上げたんだ!」 「ええ?!なんの話?」 僕がSOS電話をかけた時には彼女はもう床についていたか風呂だったのか。髪をアップにした可憐は、艶かしいネグリジェ姿だった。 「怪我してるんじゃないのね?でもびしょ濡れじゃない!早く、お風呂に入って温まってらっしゃい!」 「そ、そうだな。清四郎、部屋を用意させてるから、とりあえず着替えてきなよ」 「いつもの部屋だぜ。隣は俺」 「あ・・・はい」 仲間たちに追い立てられるように、僕は部屋に連れて行かれた。
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熱いシャワーを頭から浴びる。 晩秋の雨で凍えた体に、体温が戻った。反対に、アドレナリン噴出で沸騰していた頭が冷えた。
――――僕は、悠理に何を告げようとした? その答えは、手を伸ばせばすぐに届くところにあるはずなのに。自分のことなのに、理解できない。 感情的で非理性的。衝動的で突発的。 まるで、今夜の僕の行動は、悠理のようではないか。
「清四郎ぉ、いーか?」 ちょうど風呂から上がった時に、部屋の扉がノックされた。 いいか、と訊きつつも、返事を待たずノックと同時に入って来たのは、もちろん悠理だ。 「・・・いいですよ」 僕が着替え中だったらどうする気だ?僕は男で、一応悠理は女だというのに。 どうせ、猿頭にはそんな認識はないのだろうけど。
悠理は色気皆無の、ホルスタイン柄着ぐるみパジャマ姿。 ついでに僕はと言えば、この家でいつも用意されるフリル付き少女漫画風パジャマだ。 いつもなら自分で着替えは持参するのだが、今日は失念していた。足止めを食らった魅録も当然同じ状態だろうと思い、己を慰めるしかない。(だからいつもより就寝には早い時間なのに、彼は部屋に引っ込んだまま顔を出さないのだろう。)
「あのさ・・・」 無遠慮に入室したにもかかわらず、悠理は扉を背に、うつむいてモジモジしている。 「どうしたんですか?」 悠理は意を決したように顔を上げた。小作りな白い顔は、薄っすらと紅色に染まっていた。 「おまえの上着、血と泥でぐしゃぐしゃだったから、洗濯に回したんだけど・・・ポケットにこれが入ってたって、メイドが持って来たんだ」 悠理は僕の目の前に、掌を差し出した。 小さな手に握られていたのは、雨に濡れた薬包。 「これって、おまえがいつも作ってくれる薬だろ?あたいが学校休んだんで、本当に心配して来てくれたんだな」 悠理は眉を下げて、ますます頬を染めた。 「・・・ごめんなさい」 ペコリと、悠理は髪を揺らして頭を下げる。
「魅録もそうだけど・・・本当に、心配かけて悪かったよ」 いつも彼女のためを思って厳しく指導する勉強には、”鬼”呼ばわりする悠理が、珍しくも僕に(魅録の名はスルー)、感謝と負い目を感じている。
ふわふわの頭のつむじを見下ろし、なんとも言いがたい衝動に駆られた。 意地っ張りで口の悪い悠理が、時折見せるこんな素直さに、僕はどうも弱い。
僕は悠理の肩に手を伸ばした。 触れた肩は、思いのほか細く小さかった。 「・・・違いますよ。心配して、来たんじゃありません」 「え?」 「・・・おまえに、会いたかったから」 「なんで?」 悠理は目をまん丸にして僕を見上げる。 「・・・・今日は、僕の誕生日だったから」 「???」 至近距離で見つめあったまま、僕たちはしばし凝固していた。 疑問符だらけの悠理の表情も、さにあらんや。 言った僕だって、わけがわからない。
――――どうして、僕は?
頭で考えてわからなければ、無意識に身をまかせるべきかもしれない。 先ほどから、僕の身のうちで爆発寸前なまでに膨れ上がっている衝動。 自分でも理解できない行動の理由が、わかるかもしれない。
「悠理・・・」 僕は悠理の肩に置いた手に、力を込めた。 悠理の肩が怯えたようにびくりと竦む。だけど彼女の表情は、ポカンと無邪気なまま。 それが、ひどく胸苦しい。
世界は静まり返っている。 あれほど激しく窓を打っていた雨音と風の音が聴こえなくなっていた。 台風一過。いや、現在台風の目の中なのかもしれない。 不思議な静寂。 現実感が遠のく。 ただ、目の前の悠理の存在だけが、リアルだった。触れた肩の、ぬくもりと。
もっと、近づきたい―――― そう意識したわけではないけれど。 引き寄せられる。心も体も、悠理の方へ。
視野狭窄、意識混迷。 ただ、悠理の顔しか目に入らない。 僕を真っ直ぐ見つめる、茶色い宝石のような瞳しか。
「・・・・・あの〜」 その時、悠理の背後の扉が小さくノックされた。 控えめな声がかかる。 凝固していた悠理が、慌てて扉から背を離した。細い肩が、僕の手の下から逃れる。 「はーい!」 悠理は焦った声で返事をし、勝手に扉を開けた。
ゴチン。
間抜けな音が夜のしじまに響き、僕よりも来訪者と悠理の方が驚いた顔をした。 「うわっ清四郎、どしたんだよ?!」 「・・・・・。」 僕は苦虫を噛み潰す。 突っ立っていた僕の額に、扉がぶち当たったからだ。 「だ、大丈夫ですか?」 来訪者は、見慣れぬ男。 僕はよほどぼんやりしていたのだろう。 その彼が、先ほどの妊婦の夫であると気づくのに、数秒を要した。
ごめんなさい、変なところで切って。次で終わります。 何度邪魔が入れば気が済むんだって?いや、最後のは邪魔じゃないです。ええ、たぶん。 ラスボス(百合子?)は、出ませんので、ご安心ください。(笑) |