清四郎の胸の奥には、埋まったままの種がある。 芽吹く時期を逸し、眠ったままの小さな種子が。
歓びの種
ここ数年、身を置いていたフィールドワークの現場では望むべくもない贅沢。 豪華船の高級ホテルもかくやなバスルームで、清四郎は久しぶりにくつろぐことができた。 真っ白いバスローブを着ながら鏡に目をやり、思わず苦笑をもらす。 仲間達が驚くはずだ。 埃と日光のおかげで先の方が赤茶けてしまった髪。顔を覆う無精髭。 どちらかといえば書生肌だったかつての面影はなく、浅黒い肌の粗野な男が鏡には映っていた。
それでも、自分の変貌ぶりに驚いていた仲間達より、清四郎が襲われた衝撃の方が大きかったに違いない。
「あの悠理が、結婚ねぇ・・・。」 幼児を目にした時の自分の狼狽振りを思い、清四郎は顔を歪めた。 鏡を見つめながら、似合わない顎鬚を撫でる。
もう彼らも20代後半。魅録と野梨子が婚約したのだし、悠理だってそういう話のひとつもあっておかしくない歳だ。 それなのに、清四郎は悠理に対して一度もその可能性を考えたことはなかった。
南米のジャングルで、アフリカの砂漠で。 満点の星空の下、孤独を感じた時に胸を過ぎったのは、仲間達の面影だった。 清四郎の留学時、すでに公認の仲だった魅録と野梨子は、ひょっとしてもう結婚しているかもしれないと、実は思っていた。 宝石商として華やかに輝いているだろう可憐は、今でも玉の輿を目指しているのか。 美童は相変わらず、各国で浮名を流しているに違いない。 そして、悠理は――――。
清四郎の中で、悠理の面影はいつも変わらない。馬鹿で破天荒で愉快なトラブルメーカー。思い出すだけで、孤独感を蹴散らしてくれる、元気者。
帰国して皆に会いたいと思わないではなかったが、それは切迫した思いとはならなかった。 いつも、清四郎は感じていた。仲間達の存在を。 まるで、心の一番温かいところに埋まる種のように。 それは、芽吹きはしないけれど、確かに息づいている。 遠く離れていても、淋しくはなかった。 寂寥感など、記憶の中の悠理が、吹き飛ばしてくれた。
そして、3年ぶりに会った彼女は、やはり、あの頃のままで。 3年の月日など、感じなかった。 あの、悠理そっくりの幼子を目にするまでは。
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船室の扉をノックする音が聴こえた。 「はい?」 清四郎はバスルームから答える。 ローブの帯を結び、部屋に戻ろうと扉に手をかけたところで、今度はバスルームの扉がノックされた。同時に、扉がわずかに開かれる。
「もう、上がった?」 顔を覗かせたのは、悠理だ。 男の風呂場に平気で顔を出すのも、彼女らしいとはいえ。 「悠理、まだ支度はできてませんよ。」 清四郎は呆れて叱責したつもりだったのだが。 「わかってるよ。その髪、自分ではできないだろ。あたい、手伝ってやろうと思って。」 「は?」 悠理はにっかり笑って、背中に隠していた手を、じゃーん、と擬音付きで差し出して見せた。 「散髪と髭剃りは、あたいにまかせろ!」 両手に持っているのは、調髪鋏と剃刀。 「う・・・っ」 清四郎は慄いた。悠理と刃物の組み合わせはどう考えても、剣呑すぎる。 「悠理、その申し出ですが、遠慮させていただきますよ。」 「そう言うなって。やらせてくれよ!」 清四郎は丁重にお断りを入れたが、悠理は満面の笑顔で、ジリ、と迫って来る。 「いや、結構です!」 はっきりきっぱり清四郎が固辞した途端、悠理が飛び掛って来た。 狭いバスルームに逃げ場所はない。 清四郎は悠理の刃物を持った両手をがっしりつかんで、寸でのところで身動きを封じた。 悠理は顔を歪める。 「くそっ、抵抗すんない!」 「するに決まってるでしょう!」 ふたりは正面から睨みあった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あんたたち、何してるのよ。」 思い切り冷たい声を掛けられ、ふたり同時に扉へ顔を向けた。 悠理が開け放したバスルームの扉の前に、可憐と野梨子が立っていた。 「悠理、支度を手伝うのと、襲い掛かるのとは、あなたにとっては同意語ですの?」 野梨子の叱責に、悠理は口を尖らせた。 「だってさぁ、こいつ、ヤダってんだもん。自分じゃ髪なんて切れないのにさ。」 可憐が清四郎に顔を向けた。 「清四郎、その髪、伸ばしているの?」 「あ、いや。切りに行く暇がなかっただけですよ。」 「良かった。似合ってないわけじゃないけど、あんたのイメージじゃないもの。あたしが切ってあげようか?」 清四郎は安堵と共に即答する。 「お願いしますよ。」
「あーっあーっ!なんだよ、その態度の違いはっ!」 悠理はぷんすか怒り出した。 ぷっくり膨れた頬。きりりとした眉がコイル巻きになっている。 清四郎はついに、吹き出してしまった。
やはり、悠理は変わらない。 初めて出逢った頃と同じ子供のままの顔に、安堵する。 この悠理が恋をして結婚し、母になる日が来るなどと、とても想像できない。
だけど、悠理は剣菱家の令嬢だ。 あの両親が、娘を独身のまま放っておくわけはない。清四郎自身、剣菱の後継者にと請われ、悠理とは高校時代に婚約したことがある。 野心に目が眩んだ清四郎は、愚かにも、一生ものの友情を失ってしまうところだったのだ。 遙か昔の負い目が、胸を過ぎった。
「ほんとに、あたい散髪は上手いんだぜ!悠作の髪はいつもあたいが切ってるんだからな!」 唇を尖らせ拗ねる悠理を、清四郎は見つめた。 「そういえば、悠作くんはおまえそっくりのバサバサ髪でしたよねぇ。」 クスクス笑いながら、悠理の髪を撫でる。 幼子と同じ、ふわふわの髪。
甥っ子を愛しげに抱きしめていた悠理の表情が、清四郎の胸を過ぎった。 あんな顔もできるのだ。 慈愛の表情。母親かと見まごうほどに。 悠理もいつまでも、子供のままというわけではないのだろう。 そうあって欲しい、清四郎の思いと反対に。
「・・・・・じゃ、悠理には、髭剃りをお願いしましょうかね。」 清四郎がそう言うと、悠理の顔が輝いた。 「ほんと?!いいの?!」 可憐と野梨子が顔を見合わせ、清四郎の正気をあやぶんでいるらしきことはわかっていたが。 何か役に立ちたいと、悠理が思ってくれていることの方が嬉しかった。
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浴室に椅子を持ち込み、バスローブのまま清四郎は座った。 後ろに可憐が立ち、鋏を使う。 悠理は清四郎の前に膝をつき、シェービングクリームをかき混ぜている。 野梨子はふたりの助手を務める。 美女三人がかりの、贅沢な散髪だった。
悠理が神妙な顔で、清四郎の顎に手を当てた。 妙に真面目で緊張している悠理の顔に、清四郎は笑いたくなった。 が、衝動を堪える。 下手にからかって、悠理が剃刀を誤らせれば、たまったものではない。 人肌の温もりに温めたクリームの快感に、清四郎は目を閉じた。 悠理の緊張した指が頬を走る。そして、冷たい剃刀の刃が肌に当たる。 ゾリ、と剃られる感覚に、痺れを感じた。
悠理の腕を、信頼しているわけではない。 ”ナントカに刃物”とまでは思わないながら、かなり危ない橋を渡っている気がする。 自分でも酔狂だと思う。
だけど、いまさらだ。 ヘリから飛び降りて、清四郎の腕の中に飛び込んだ悠理。 彼女の相変わらずの無茶ぶりにさえ、歓びを感じている自分を、清四郎は自覚している。
目を閉じて刃を受けることで感じる快感は、スリルに酔っているのか。 それとも、友人の前で無防備になれる自分に対する、喜びか。
ジャキ、と音がするたび、褪せた色の髪が落ちてゆく。 髪の長さの分、離れていた月日。 それを切り落とすことは、何かの儀式のようだった。
熱いタオルを肌に押し当てられ、清四郎は目を開けた。 タオルを持った野梨子が鏡を指差す。 「清四郎、できましたわ。」 満足気な笑みを浮かべている可憐に対し、悠理は少しまだ緊張の面持ちだ。
鏡に映っているのは、短い黒髪を整えた、かつてと同じ姿の自分。 「ありがとうございます。」 見事な出来栄えに、清四郎は友人達に礼を告げた。 当然、と誇らしげに頷く可憐。 清四郎の礼が本心からであると知り、悠理の顔にも安堵の色が浮かぶ。
いつも無謀で強引なくせに、案外と小心な悠理。 野生の本能でか、理性的であるはずの清四郎の感情を、敏感に察してしまう。 そんなところが、くすぐったくも面映い。
胸の奥の種が疼いた。 芽吹く日など来なくていいのに。
「つ・・・・」 ピリ、と走った痛みに、頬を撫でた。 「えっ、切っちゃってた?」 悠理が焦った顔をした。 見ると、指先にわずかに滲んだ血がついている。 「ご、ごめ・・・」 悠理は眉を下げて泣きそうな顔をする。 「いや、これくらいは、自分で剃ってもやってしまいますよ。」 剃られている時には、気づかなかった程度の切り傷だ。 清四郎は悠理の髪をもう一度撫でた。 慰めるつもりでも、礼のつもりでもない。 ただ、そうしたかったから。 悠理は、やっと、笑みを浮かべた。
”会いたかった”と、言ってくれた悠理。 だけど、清四郎の方こそが。 ずっとこの笑顔を見たかったのだと、気づかされた。 会う必要もないほど、胸の中にはいつも悠理が住みついていたのだけど。
髭剃りシーン、夢では私=悠理の申し出(欲望?)を、清四郎くんてば、断固拒否。でもSSなら、好きに書けるもんね〜〜へへん♪と、夢とは違い、悠理ちゃんに髭を剃ってもらいました。実は夢では清四郎の入浴中に乱入した、私=悠理。つくづく幸せな夢であった・・・うへへv(←超厚顔無恥) |
背景:季節素材の雲水亭様