清四郎の差し出した手を取らず、悠理はぴょんとボートに飛び乗った。 日本製のものよりもスレンダーなボートは、川遊び用。夜の湖に漕ぎ出すには、あまりに華奢で心もとない。 「おっと。」 揺れる小さなボートの中でバランスを取り、清四郎はオールに手を伸ばす。しかし、一対しかないオールは悠理に奪われた。 「交互に漕ごうよ。まずは、あたいが先な。」 悠理はニッと歯を見せて笑い、ふわりとしたスカートの裾を払って清四郎の向かいに座った。
夕日が落ちた藍色の水面を、ボートは静かに進む。 手持ち無沙汰の清四郎は、膝の上で手を組み、じっと悠理を見つめた。 まだ夕闇は悠理の姿を隠すほど暗くはない。 ドレスの裾を無造作に足に挟み、オールを操る悠理は意気揚々、ご機嫌だ。 華奢な体を際立たせるドレスは、腰から下は動きやすくフレアーとなっていたのだけど、まさか胡坐を組むことまでは想定していなかっただろう。 川風にふわふわの薄い色の髪が揺れる。薄い化粧をほどこしていても、アーモンド形の目は少年のように輝いている。 中世的な美貌は、異国の空気に不思議なほど溶け込んでいた。
「なんだよ?」 清四郎の視線に気づき、悠理はほのかに頬を染めた。 無邪気さと女の香りが混在している。 徐々に色の変わる夕映えの空と同じく。 清四郎にとっての悠理も、心の中で鮮やかに色を変える。 「いえ、こんな風におまえとゆっくり二人きりなんて珍しいな、と。」 「へ?」 悠理は眉を寄せた。 「そうかぁ?一緒に誘拐されたり、昔から結構あったじゃん。」 「ゆっくり、と言ったんですよ。」 本当は、あわただしい事件の渦中以外でも、部室で二人きりになったことなど何度でもある。だけど、いつでも二人の関係は有閑倶楽部の一員同士だった。たとえ二人でいても、仲間の存在を感じていたように思う。 今日までは。
「おまえが・・・に、見える日が来るとはね。」 「へ?なんつった?」 先ほど、甲板に悠理が現れた時。 あまりの美しさに、清四郎は目を奪われた。 それは、不思議な感覚だった。 悠理の美貌は以前から知っていた。3年が経ち、彼女が特別に女性らしく変わったのかというと、そういうわけでもない。 再会したとき、ヘリから飛び降りてみせた彼女は、むしろ以前以上にワイルドで。 甥っ子に見せる優しい表情も含め、悠理はそうあるべき成長を遂げているに過ぎないはずだ。 「悠理が女に見えるって、言ったんですよ。」 「なっ・・・あたいは前から女だっ」 「おや、そうでしたか?これは失敬。」 清四郎の冗談に、悠理は憤慨しているが。 正直、清四郎は悠理をこれまで女として意識したことはなかった。 共に過ごした日々も、離れていた月日も。 彼女を思うだけで胸の中が温かくなる、大切な存在ではあるけれど。 先ほどのように、一緒のベッドでも眠ってしまえる、身近で気の置けない関係だった。 悠理が変わらないことを信じていた。自分の悠理に対する感情も。 「・・・悠理も、いつか恋をしたり結婚したりするんでしょうね。」 「!」 ほのかに染まっていた悠理の顔が、トマトのように紅くなる。 「それとも、まさかもう、彼氏の一人や二人、いるのかな?」
膝の上で組んだ手に顎を乗せ、清四郎は悠理を真っ直ぐ見つめた。自分の心の裡と、彼女の反応を探るように。
「“まさか“で悪かったなっ!んなの、イルワケナイだろっ」 悠理の返答に、清四郎は緊張を解いた。肩をすくめ苦笑する。 「で、しょうな。」 笑みは、自嘲の笑み。 思いがけないほど安堵した自分に、驚いていた。 しかし、馬鹿にされたととったのだろう。悠理は頬を膨らませた。 「おまえだって、どーせ男にしかモテてないんだろっ!あんな髭面だと、前みたく外面に騙される女はいないだろーし!」 「そんなに酷い格好でしたかね?」 清四郎は悠理の剃ってくれた顎を掌で撫でる。 「いや、結構カッコ良かったけど・・・・。」 悠理の呟きは小さかったけれど、清四郎は意外な言葉に片眉を上げた。 悠理は慌てて両手を広げ、自分の顔の前で振る。 「い、今のナシっ!嘘っ!」 「悠理、オール!」 悠理が両手を離したため、オールはするすると水中に吸い込まれる。 「わっ!」 さすがの反射神経。悠理は素早くオールの先を掴んだ。清四郎と同時に。 二人の手が重なる。 しっかりと握り締めたオールの感触に、二人同時に安堵の息をついた。 川風が心地良く身に纏わりつき、悠理の甘い香りを運ぶ。 ドキンと、胸が大きな音を立てた。 物理的な圧迫さえともなって、胸の奥から感情があふれ出す。 心の奥深くに埋まっていた何か。 ずっと感じていたそれが、表面に現れる。 悠理に喚起される感情が、なんという名であるのか、もうそろそろ認めてもいい頃だ。 「・・・・せーしろ?」 悠理の手の上からオールを握り締めたままの清四郎に、悠理は小首を傾げる。 それでも、清四郎は悠理の小さな手を離せなかった。 この手の温かさを、これからも感じていたい。思い出の中だけでなく、こうしてずっと。 「・・・僕は、恋愛など興味がないままに、この歳まで来てしまったと思っていましたが・・・」 「うん?」 清四郎が変わったわけではない。悠理が変わったわけでも。 ずっと抱き続けていた想いに、気がついただけ。 「どうも、そうではなかったようです。」 「?」
悠理は眉を顰めた。 悠理の表情に影が下り、視線が戸惑うように逸らされる。 「なんだよ・・・やっぱりおまえは、器用で要領の良いヤナ奴だよな。」 「は?」 悠理はぞんざいな口調で、嘲笑するような言葉を投げつけた。 「あっちこっち飛び回ってるくせに、どっかで待ってる女がいるんだ?」 だけど、顔は逸らされたまま。
悠理の誤解に、清四郎は苦笑した。 「悠理、こっちを向いてください。」 「・・・・。」
悠理は顔を背けたまま、動こうとしない。 陽が暮れ、そろそろ湖上には闇が満ち始めていた。 だけど、湖上に浮かぶクルーザーと遠い対岸の灯り以外に、日本とは比べ物にならない星明りが二人を照らしている。 ほとんど波のない湖面に、月が映る。ゆらゆら揺れるその影を悠理は頑なに凝視している。
清四郎は重ねていた手を離した。 右手を悠理の頬に添え、顔をこちらに向けさせる。 悠理は唇を尖らせて睨みつけてくる。 その子供っぽい表情に、清四郎は笑い出しそうになった。
悠理を見ているだけで、飽きない。 このままでいる方がいいのかも知れない。 だけど。
「僕は美童じゃありませんよ。あちらこちらの港に、女を作っているとでも?」
至近距離で覗き込んだ悠理の目には、疑念と不信が浮かんでいた。 当然だろう。 3年も音信不通で不義理をし、再会したばかり。 予想外の再会がなければ、清四郎自身も気づかずこれから数年を過ごしただろう。悠理と顔を合わさないまま。 そして、いつか剣菱家令嬢の結婚を遠い空の下で知らされるのだ。それとも、今日のようにどこにいても急襲されるのだろうか。彼女の結婚式に出席するために。
だけど、もうだめだ。 気づいてしまったから。 埋め込んでいた、想いに。
だから、清四郎は悠理に告げずにはいられなかった。
「僕は、どうも・・・おまえを、愛しているようです。」 悠理の目がまん丸になった。 衝動的な告白。 要領が良いどころか、不器用極まりなかった。
――――“清四郎は、何を探しているの?”
探していたものは、いつも自分自身の中にあったのだと、今なら答える。 あまりに自然にそばにあったため、気づかなかったものなのだと。
ナイル川に落ちてタイムスリップした悠理は、清四郎と瓜二つの古代の王に出会うのであった・・・・なーんて話じゃなくてゴメンなさい。いや、そんな話にした方がゴメンなさいか?(笑) しかし、悠理は簡単に古代に馴染みそう。もちろん「王家の紋章」のキャロルのような未来の叡智はカケラもないから、石切り場で労働力として重宝され、ピラミッド建築に励む、とか。←殴 いやいや、その美貌で年若い王に召し上げられるのv が、顔面に蹴りを入れて拒否!しかし清四郎の前世である王には気に入られ、愛妾兼武術師範として・・・って、それじゃ「君の名残を」の巴御前だわ。悲恋はヤダー! |
背景:季節素材の雲水亭様