プルシアンブルーの肖像   -1-   

 

 

激しかった昨夜の雨は、午後には小降りに変わっていた。

「ケイちゃあん、どーしたん?」

 

 

女の間延びした声にうんざりしつつ、僕は――――いや、オレは鏡に見入っていた。

上半身裸の自分の体と、見慣れぬ顔をマジマジと見る。

 

「なんや、あんまりオトコマエなんで、見惚れてんの?それって、ナルちゃんやでぇ。」

キャッキャと煩い女の声を無視し、水道の栓を捻った。

この古いアパートの洗面所はひどく狭い。背後のワンルームの敷きっぱなしの布団にしどけなく横たわる女に水が飛ばないよう気をつけなければならなかった。

顔を洗い、ごわごわしたタオルで拭く。

濡れた髪が額に張り付いた自分の顔を、もう一度眺めた。

情事のあとの気だるさがまだ残る体には、そうとわかる鍛えられた筋肉の隆起。体脂肪率はかなり低そうだ。

 

他人事のように思うのは、オレには記憶がないからだ。

この顔が、なんという名のどこの誰のものなのか。

 

「ケイちゃん、なんか思い出した?」

女の能天気な言葉に、振り返る。

「セックスしたくらいで、思い出しませんよ。」

「そのしゃべり方、やめてや。慇懃無礼で、らしくないわ。」

「”らしく”、って・・・・」

オレは苦笑した。

 

女の言葉を信じるなら、彼女とオレが出会ってからまだ24時間も経っていない。

深夜、雨の中道端で倒れていたオレを彼女が拾って自分のアパートに連れ帰った。

オレの記憶は、女に声を掛けられたあの夜道からしかない。

それ以前は、霧の向こう。

いや、豪雨の向こうだ。

 

「きっと、交通事故に遭ったんや。ケイちゃん、頭に血がついてたし。」

そう言いつつも、この女は病院や警察に怪我人を連れていってやろうとは思いもしなかったらしい。

女の部屋の薬箱には消毒薬と絆創膏程度しかなかったが、頭部の怪我はさっき自分で治療した。

 

この部屋の主は、不健康な顔色にそぐわない派手な明るい染髪の若い女。

少し頭が足りないのかも、と失礼にも思わないではなかったが、どうも元家出少女らしく、当局に身元を詮索されることを恐れているだけのようだ。

 

「ケイちゃん、この服着てみてや。」

女はカラーボックスから男物の革のジャンパーとTシャツを取り出した。女を捨てた彼氏の置き土産らしい。

今オレが着ている下着もパジャマ替わりのスウェットもすべて借り物だ。

下着まで他人の古着なのか、と不快には思わない。今のオレにとっては、この顔も身体も他人のもののようだから。

拾われたとき着ていた服は、濡れそぼり血と泥に汚れていた。

「すごく上等のものやから、捨てるのは惜しいね。洗って汚れを落としてみるわ。」

少々はすっぱでだらしないところがあるようだが、基本的に気の善い女であることは、数時間でわかっていた。

寝たのは、あくまで成り行きではあるが。

 

 

オレが革ジャンを羽織ると、女は嬉しそうな顔をした。

「すっごい似合う!カッコ良いーーっ!」

少しきついが、着れないことはない。

「うん、髪型ももう少しワイルドな方がいいわ。あたし、やってあげる。」

女は嬉々としてオレの髪をいじりだした。

下りた前髪を残して、撫で付けたり立たせたり。

「粗野なのが好みなんだな。それなのに”ケイちゃん”?」

オレにその名をつけたのは、もちろんこの女だ。

「だって、服の縫い取りに『S・K』ってあったんやもん。」

「それだと、Kが苗字でSが名でしょう?」

「エスちゃんって、呼ばれたいんか?あんた。」

女はケラケラ笑った。

「あんたは『サトル』とか『シンゴ』とかの雰囲気ちゃうもん。『ケイ』のがかっこええわ。」

 

どうせ、借り物の服、見慣れぬ顔、忘れた過去。

名前ぐらい、なんでもかまわない。

 

「僕は『かとう さとる』や『きむら しんご』かもしれないんでしょうがね。」

肩をすくめて苦笑すると、女は顔をしかめた。

「ケイ!”ボク”って言うのは、”サトル”よか似合わんから、やめてって!」

”僕”は、ワイルド好みの女のお気に召さないらしく、始終訂正される。

「あんた、すっごいイイ身体してるし、腕っ節もきっと相当やで・・・。」

しばらく髪をいじっていた女は、出来栄えに満足したのか、櫛を置いた。

 

鏡に映った自分の姿にオレは眉を顰める。

ジャラジャラと鎖の装飾のついた革ジャン姿の髪を立たせた鏡の中の男は、立派なチンピラ。

ますます見慣れぬ他人に見えた。

 

「・・・すっごいセクシー。」

どこが?と無意識で髪をぐしゃりとかきまぜる。

作品を崩された女は怒りもせず、革ジャンの背にひしりとしがみついてきた。

「なぁ・・・今夜ゾクの集会があるねん、一緒に来てくれるやろ?」

「別にかまわないが。」

いわば、一宿一飯の恩義。他に用事もない。

「やったあ!皆に見せびらかしちゃう!ケイちゃん、すっごいカッコいいもん!!」

女はキャイキャイ喜ぶ。

「あ、それに、たくさんの人間が集まるから、ケイちゃんのこと知ってる人もいるかも知れへんよ。」

つけたしのように言われた言葉に、肩をすくめた。

 

警察や病院へ行き、自分の身元を確かめたいという気持ちは、なぜか沸かなかった。

当然あるべき不安も、ない。

過去も未来もない。自分が何者かもわからない。

どうもひどく豪胆か、いい加減な男ではあるようだ。

僕は流されるまま、この状況を楽しんでいる。

いや、すべては他人事。表面的にしか感情が動かない。

自分を失った、とはそういうことだ。

 

それとも、過去を思い出したくないだけなのかもしれない。

過去の、なにかを。

――――感情を。 

  

 

 

失くしたはずの感情が動いたのは、”彼”を見た時だった。

 

 

雨の止んだ夜の湾岸。数十台のバイクや四輪が集まっていた。

いわゆる不良少年たちの一群。

思わず目を細める。剣呑さのためではなく、濡れた地面にライトが反射し、眩しかったためだ。

それぞれ派手なスタイルで決めているはずの集団は、それでも群れとなると無個性な一塊にしか見えなかった。

借り物の服を着けた自分もまたその中の一人であると思うと、思わず笑みが漏れる。彼らの誰よりも無個性なのは自分であるのだと、わかっていた。

記憶喪失者の気楽で皮肉な笑み。

だが、傍らの女は、自分の高揚につられたのだと思っているようだ。

「今日の集会には、魅録さんも来てるんやて!」

はしゃいだ声に、訊きかえした。

「ミロクさん?」

「ここら一帯の族を締めてた、伝説的ヘッドなんや!なんでも、ブイブイ言わせてたとき、まだ中坊だったらしいで。今は普通の高校生してるらしいのに、いまだに鶴の一声で皆は集まる。会えばわかるわ。タダモンじゃないって。お話させてもらったことはないけど、あたしも憧れてるんや!」

「へぇ・・・」

 

確かに、一際目立つ男が、集会の中心に居た。

精悍な顔つきの若い男。

服装もピンク色の髪も周囲の若者たちと大差はないはずなのに、百人近くの人の中で、彼だけが光彩を放っているかのようだった。

いや、彼だけではない。

大型バイクに跨ったまま談笑している彼の後ろには、細身の少年が座っていた。

明るい色の髪、涼しげな目元。笑み一つ浮かべない、引き結ばれた赤い唇。

メットを外したとき現れた息を飲むほどの美貌が、闇夜にもかかわらず眩しく目を焼いた。

 

無個性な集団の中で、圧倒的な個性。

 

くらりと、視界が眩んだ。

「ケイ?」

眩暈と頭痛に襲われて額を抑えたオレの顔を、女が覗き込む。

「どうしたん?どこか痛む?」

確かに、ひどく痛かった。

頭痛と、激しすぎる動悸がもたらす、胸の痛み。

失ったはずの感情が胸を締め付ける。

だが、失ったはずの記憶が、命じる。

 

この感情を、抑え込め、と。

 

僕は無理に笑みを作った。

「あれが・・・ミロクさん?なるほど、そのピンクの髪は彼にあやかってなんだな。」

「うふふ、そうやねん。ワイルドでイケてるやろ?」

僕はもう一度顔を上げて、彼に目を向けた。その彼の隣に立つ少年と。

いくら抑えても、視線も感情も、彼らに引き寄せられる。

 

「あの・・・もうひとりは?」

「ああ、悠理さんやな。」

魅録の周囲には大勢の者たちがいたにもかかわらず、女は僕が誰のことを言っているかわかったようだ。

それほど、彼らは特別な存在だった。

 

「ユウリ・・・」

音を口の中で転がす。

また、胸に痛みが走った。

 

「悠理さんもカッコいいやろ。たぶんな、魅録さんのカノジョやろと思うねん。たいてい一緒にいるし。」

「・・・女、なんですか?」

「ああ、ちょっと見は美少年やろ?男勝りで喧嘩も強いらしいで。魅録さんとは男同士のダチみたいなもんやって言うひともいるけどな、とてもあたしらにはかなわへんわ。あんな綺麗なひとやもん。」

"ミロクさん"に心酔している女の声に、無言で頷く。

 

雨に濡れた路に反射するヘッドライトが、彼らを照らしている。

視線すら、彼らから外せない。

いや、彼女から。

 

数百メートルは離れた位置にいる僕の視線に気づいたはずもないけれど、ふいに彼女が顔を上げた。

猫のような目が大きく見開かれる。

 

「せ・・・清四郎?!」

 

赤い唇から漏れた彼女の声は、かすれていた。

どうして、こんな人込みの中で聞き取れたのだろう?

 

「清四郎!!」

 

続く、涙混じりの絶叫。

こちらに駆け寄ろうとする彼女の姿に、思わず後ずさった。

 

眩暈と頭痛。

一瞬、視界が暗くなる。まるで、降り止んだはずの豪雨の幻に、遮られたように。

 

 

 

 

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ええと・・・安全地帯シリーズのよしみで、ケイちゃん再登場でっす♪←嘘です、ごめんなさい。

「銀のピストル」に出てきた菊正宗慧とはなんも関係ございません。こっちを先に書いて放置してる間に、清四郎の別人格=ケイを、キリリクで登場させてしまったんでした。安易にも同じ名前ですが、関係ありません。こちらは、フツーのありがち記憶喪失ネタでございます!(って言い切るのも情けないぞ、自分!)

背景:月とサカナ