プルシアンブルーの肖像   -3-   

 

 

 

検査入院は一日で終了した。

「精密検査の結果はまだだが、今のところこれといって異常は見つからない。しばらくは自宅療養で様子を見よう。」

検査結果を見ながら難しい顔で僕にそう言ったのは、父親だというこの病院の院長だった。

 

「それで、もしも、なんだが。」

彼は厳つい顔を曇らせる。

「もし、しばらく記憶が戻らないようなら、心療内科で診てもらうか?」

「・・・・わかりました。」

外傷は浅く、検査で疾患が見つからない以上、心因性健忘症の可能性あり、ということなのだろう。

眼鏡と髭で覆われてさえ、院長の苦渋の表情は見えた。

同情を禁じえない。

原因が自分であるとわかっていても、他人事のように感じてしまうのは、どうしようもなかった。

 

肩が凝ったのか自らの首に手をやっている院長に、良心が咎め、僕は言葉をかけた。

「肩が凝っているなら、揉みましょうか?」

院長は小さな目を見開く。

「お、おう、頼む。おまえはよく肩を揉んでくれたもんだ。」

「おや、僕は結構、良い息子だったんですか?」

院長席の後ろに立ち、軽く彼の肩を揉んだ。

「ああ・・・・・優秀で礼儀正しい、自慢の息子だ。」

「巨大な猫を被ってたんですね。」

僕が声を殺して笑うと、院長はぎょっとした顔で振り返った。

「清四郎、本当に記憶がないのか?」

 

 

 

成績優秀・品行方正な、生徒会長――――とは表の顔。

金と閑と若さにものをいわせ、世界を又に駆けた遊興三昧。犯罪まがいの騒動頻発。

泣く子も黙る有閑倶楽部のリーダーが、菊正宗清四郎。

僕だ。

 

 

 父親から聞かされた武勇伝(それも親が知る氷山の一角)は、興味深かった。

もっとも、やはり他人事。

 

退院し自室に戻った僕は、記憶と己を探して室内を観察した。

思わず、落胆のため息をつく。

あまりにも隙がなく、整えられた部屋だった。

壁の一面を埋める本棚は多趣味であることを示しているが、概して面白みを感じさせない、まさに優等生の部屋だ。

 

やはり、自分がつかめない。

 

勉強机の上に伏せられたノートPCを開けてみる。この部屋にはいくつかPCがあるが、学生鞄と一緒に置かれているこれが、普段使いのものなのだろう。

机や鞄の中に、日記らしきものはない。あるとしたら、この黒い機械の中に違いない。

しかし、当然のようにパスワード入力画面が表示される。

僕はまたため息をついた。

整えられた引き出しの中を探っても無駄だろう。『菊正宗清四郎』は、パスワードをメモって残すタイプとは思えなかった。僕の『彼』に対する浅い知識をもってしても。

 

優等生らしく片付けられ、個性を感じさせないことがかえって個性のような机の上に、唯一ぬくもりを感じさせるものが置いてあった。

それは、土産物らしき写真立て。

『菊正宗清四郎』という消えた男の置き土産のようなその写真を、手に取った。

写っているのは、すでに周知の仲間たち。夏の高原を背景にした旅行中の集合写真だ。

 

はじけるような笑顔。高校生らしくはしゃぐ有閑倶楽部。

 

僕は写真の中の見知らぬ男を真似て、落ちた前髪を後ろに撫で付けた。

そして、もう一度ノートPCに向かった。

キーボードに指を走らせる。

自宅療養中の僕に、他にすることがあるはずもない。

 

 

 

 

「清四郎さん、お友達が見えられました。」

階下よりかかった声に、僕はPC画面から顔を上げた。

壁の時計を見れば、正午を少し過ぎたばかり。

昨日も病院に見舞いに来てくれた友人達が顔出す時間には、まだ早過ぎる。

「はい。」

返事をして部屋を出る。階下を見下ろすと、『菊正宗清四郎』の母親が僕に笑顔を見せた。

「悠理ちゃんよ、清四郎さん。」

言われなくてもわかった。記憶のない僕でももう見慣れてしまったしかめっ面で、剣菱悠理が玄関から階上の僕を見上げていた。

 

彼女は昨日、仲間たちと一緒に病院へ見舞いには来なかった。

記憶喪失者である僕の存在を、受け入れがたく思っているのだとなんとなく察していたから、不思議には思わなかった。

見舞い客の中に彼女の姿がなくてかえって安堵したものだ。

悠理の眼差しは、僕を落ち着かなくさせる。

 

彼女と、二人きりになりたくはない。

僕は母親のいる居間で来客の応対をするつもりだったのだが、時すでに遅し。

剣菱悠理は慣れた様子で靴を脱ぎ、階段を素早く上って来た。

「・・・・どうぞ。」

仕方なく、僕は部屋に彼女を招きいれる。

せめてと扉を開け放したが、室内に入るなり、悠理自身が後ろ手にドアを閉めてしまった。

 

真昼の静かな住宅街。冬の太陽が弱い光を窓から送り込む。

ドアに背中を預け、わずかに顔を伏せた悠理の髪が、透けて金色に見えた。

彼女は無言。

僕も立ったまま、落ち着かない感覚をもてあましていた。

 

「・・・学校帰りですか?早いですね。」

沈黙が耐えがたく、僕は早口で話しかけた。

「・・・サボった。」

 

制服姿のためだろう。ぞんざいな口調にもかかわらず、今日の悠理は少女に見えた。

彼女が顔を上げた拍子に、スカートがふわりと揺れる。

思わず目を合わせるのを避けて俯いた僕は、スカートの裾をぼんやりと見つめていた。

 

次の瞬間。

 

「?!」

 

いきなり、細い足がスカートを蹴り上げた。

「な、なにするんですか!?」

あまりに予想外だったので、避けることもできなかった。

タイツに覆われたしなやかな足に腹部を蹴られ、僕は体勢を崩す。

「うるせっ」

蹴りの次は、右拳。

思わず腕で防御し避けたが、女のものとは思えない鋭い拳に、腕が痺れた。

腹の痛みが、呼吸を乱す。

 

いきなりの攻撃に、僕はなかばパニックに陥った。

なおも暴力を振るおうと腕を振り上げた彼女を、本能的に払いのける。

悠理はそれでも攻撃の手を緩めず、回し蹴りで応戦した。

 

「やめろっ!」

 

怒鳴ると同時に、僕は腰を落とした姿勢で拳を悠理の腹に放っていた。

悲鳴も上げず彼女は吹っ飛び、床を滑った。

 

「・・・・・・あ・・・。」

うつ伏せに横たわる彼女を見た瞬間、一気に頭が冷えた。

広がったスカート。腹を抑え震える華奢な背中。

 

「だ、大丈夫か?」

僕は駆け寄って彼女の横に膝をついた。

自分のしたことに、恐怖さえ感じる。

僕は、女に、手を上げてしまったのだ。

 

「う・・・ってぇ・・・。」

悠理は唸りながら身を起こした。

汗の浮いた額に髪が張り付いている。その下の双眸は、強い光を放っていた。

「なんもかも、忘れたくせに・・・・拳法だけは、覚えてやがんだな!」

彼女を案じて身をかがめていた僕の襟元を、白い手がつかんだ。

見た目と違い、凶暴な手。

なおも、悠理は僕を殴る気でいる。

 

なんだ、この女は?

どういう人間なんだ?

 

頭突きをかわし、彼女を払いのけた。至近距離で僕の手が当たり、悠理の頬が派手な音を立てる。

再び床に上体をぶつけても、悠理は僕のシャツをつかんだ手を離さなかった。

 

口の中を切ったのか、唇に血がついている。荒い息をつきながら、悠理は僕を睨みつける。

「せ・・・いしろ・・・。」

喘ぐ息の下で名を呼ばれ、激しい既視感を感じた。

 

頭痛、眩暈。激しい胸の痛み。

耳鳴りがする。いや、これは雨音。豪雨に晒されている。

あの日の、冷たい雨。

 

雨の音に遮られもせず、僕は彼女の声を確かに聴いていた。

僕の名を呼ぶ、悠理の声。

嫌悪に満ちた、呪詛のような声を。

 

 

ポタリ。

 

水滴が、悠理の頬に落ちた。

雨粒ではない。ここは室内だ。

好天の空からは穏やかな日が差し、フローリングの床に僕たちの影を落としている。

僕は石像と化したように、動けず。

襟をつかまれたまま床に手をつき、横たわる悠理を見下ろしていた。

水滴の落ちた彼女の頬は、赤く腫れ始めている。

僕がつけた傷。

 

 

悠理が襟から手を離した。白い指先が、僕の顔に伸ばされる。

「・・・涙?」

そっと触れられた温かな指先の感触に、我に返った。

彼女の頬を濡らしたのは、僕の落とした涙なのだと、初めて気づかされた。

 

悠理の表情から、先ほどまでの敵意に満ちた色が薄れた。迷子のような戸惑いが代わりに浮かんでいる。

見下ろした薄い色の瞳に、憶えのある男の姿が映っていた。

 

――――菊正宗 清四郎。

 

嫌になるほど赤裸々に、過去の自分を感じられた。それまでの他人事が嘘のように。.

卑怯で、弱い男。

 

記憶がないはずの過去と、現状の双方が、厭わしくてならない。

女を殴り傷つけた自己嫌悪で、吐き気がした。

  

 

 

 

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今回、着せ替えは入院中のパジャマのつもりだったんですが、一行で退院してしまいました。(笑)

もうルックス的にはいつもの清四郎くんのはずです。残念!←殴

話はなんかどんどんおかしな方向に転がってしまっていますが、多くを語るまい・・・(訳:続きを考えていないので語れない。)

背景:月とサカナ