プルシアンブルーの肖像   -4-   

 

 

「清四郎・・・」

嫌悪と怯えの混じった悠理の声が聴き取れた。雨音に遮られてでさえ。

 

 

そこで出合ったのは偶然だった。

所用の帰り。本降りになった雨に、タクシーを拾おうかと大通りに出た。

傘を差したまま、歩道に立ちすくむ。

1ブロック先のレストラン前に停まった高級車から降り立ったのは、見知った友人とその両親の姿だった。

 

彼女と目が合った瞬間、胸に走った痛み。

ただ、逃れたかった。 

 

「・・・・・おまえと出会わなければ、良かった。」

それは、その場の邂逅だけでなく。巡り逢ったことさえ悔いた。

 

 

「!!」

思わず漏らした呟きが、彼女には届いたようだ。 

悠理はすぐに顔を逸らせ、背を向けた。

雨の向こうに消える後姿を、身動きすらできずに見送った。

 

消し去ってしまいたいのは、彼女の唇がかたどった自分の名。

後悔にまみれた過去。

 

 

激しい雨に、視界がかすんだ。

転がる傘。

目を焼くヘッドライト。

遠ざかり消える、面影。

 

それが、僕が最後に見たものだった。

 

 

 

 

 

僕の頬に触れた悠理の手を、無意識で掴んでいた。

「痛っ・・・。」

床に横たわったまま、悠理が顔をしかめる。

指の力を緩めると、悠理は僕の手を振り払った。しかし、彼女は疲れたように体の力を抜いた。もう暴力を振るうつもりはなさそうだった。

 

「自分だけ、なにもかも忘れやがって・・・」

顔を逸らせたまま、悠理は吐き捨てた。

「あたいのことも、忘れやがって!」

彼女の言葉に、僕は首を振った。

「・・・・憶えています。」

「え?!」

悠理が目を見開いて僕に顔を向けた。

やっと、僕たちは真正面から顔を合わせた。

 

ふいをつかれたように目を見開く悠理は、無垢な子供のようだ。

その表情は、睨みつけてくる険しい顔しか知らないはずの僕の胸を疼かせる。

ひょっとしたら、僕の知っていた本来の悠理は、こちらの顔なのかもしれない。

 

悠理の唇に滲む血を、指先で拭った。柔らかな唇。

「少しだけですがね。」

床に手をつき悠理を見下ろしたまま、僕は悠理に苦笑を向けた。

 

記憶が完全に戻ったわけではない。

だけど、悠理に喚起される胸の痛み。野梨子を見たときの感覚。

それは、僕が完全に記憶を失っているわけではない証拠だろう。

先ほど脳裏を過ぎった、光景も。

 

苦い笑みに、顔が歪む。

「・・・・あなたが来るまで、僕は日記を読んでいたんですよ。PCに保存してあった自分の日記です。」

悠理の目が見開かれる。

 

僕はまた、笑みを浮かべた。

「いえ、なんてことのない日記でした。なにがしの会合の予定だとか、そこで発表された新説だとかの、おもしろくもない覚書。まぁ、日記なんて他人に読ませるものではないから、そんなもんでしょうがね。」

悠理は凍りついた表情で、僕を見つめている。

こくりと、細い喉が動いた。

「あたいとのことは・・・」

僕はゆっくりとかぶりを振った。

「数日しか読んでいませんが、なにも。」

 

悠理は安堵とも悔しさともつかぬ表情を浮かべた。

白く細い喉。震える唇。

泣き出しそうな顔。

 

僕はそんな彼女に、歪んだ笑みを見せることしかできなかった。

「・・・・僕は、おまえに憎まれるようなことをしたんだな。」

想像はついた。

確かに、日記には彼女のことは何も書かれていなかった。

だけど、PCのパスワードが、すべてを語っている。

 

『 YUURI 』

 

それは、僕が最初に試したパスワードでもあるのだ。

 

 

  

――――菊正宗清四郎は、剣菱悠理を愛していた。

おそらくは、一方的に。

出逢ったことを悔いるほど、激しく。

そして、失った。

自分を消し去りたいと思うほど、ひどく彼女を傷つけて。

 

 

悠理の唇に、また血が滲み始めた。

僕がつけた傷。

暴力行為の痕。

 

鮮烈な紅に目を奪われ、僕は唇を重ねた。

悠理は目を見開いたまま、硬直している。

かすかに触れるだけの口づけ。

それでも、口の中に苦い味が広がった。

 

――――嫌だ、清四郎・・・・あたいたち、友達だろ?!

 

閉じた瞼の裏に、悠理の怯えた顔が浮かんだ。悲鳴じみた泣き声と。

 

――――おまえなんて、だいっ嫌いだ!

 

瞼を開けても、呆然と僕を見上げる目の前の悠理に、泣きじゃくる彼女の顔が重なった。

 

自分を消し去ってしまいたいとまで望み、すべて忘れてしまいたいと、願ったはずなのに。

逃げることは出来なかった。

一目見た瞬間に、再び囚われてしまった。

 

僕はもう一度、悠理に口づけた。今度は、腫れた頬に。

彼女は大きな目を見開いたまま、微動だにしない。

もう掴んだ手も放しているから、いつでも僕を殴ることができるはずだ。

  

「どうしてだ・・・・?」

抵抗しない悠理に、僕は問いかけた。

いっそ、僕は望んでいたのに。

彼女から、罰を与えられるのを。

 

事故が原因なのかどうか、わからない。だけど、僕は逃げ出したのだ。

悠理から。

自分から。

 

情けなくも、卑怯な男。

 

「どうしてだ?どうして、僕を探していたんですか。僕の顔など、見たくもなかったんだろう。」

こくりと、また白い喉が動いた。

「だ、だって・・・」

やっと、悠理はかすれた声で答えた。

「だって、野梨子が泣くし・・・可憐だって美童だって魅録だって、おまえのことすごく心配して・・・・。」

大きな目に、涙が滲んだ。

「おまえと最後に会ったの、あたいだったし・・・」

 

――――出会わなければ、良かった。

 

悠理に投げつけた言葉。

本当は『好きにならなければ良かった』と、言いたかったのだろう。

だけど、無理だとわかっていたのだ。

 

「おまえは、友達だもん!」

悠理の目から涙が溢れた。

わずかに残る記憶、そのままに。

「大事な友達だもん!」

 

僕は首を振った。

彼女が友情を求めても、僕には答えられない。

友人としての長い年月の記憶がないためではなく。

 

まるで、呪詛のような恋だ。

記憶を失ってもなお、僕は悠理に焦がれてならない。

 

 

逃げてくれ。

 

 

僕は心の中で、悠理に懇願した。

逃げ出した僕を見つけ出し、再び捕らえたのは、彼女だったけれど。

抑えの効かない激情に翻弄される自分が恐ろしかった。

 

三度目の口づけは、白い喉に。

本能的な怯えにか、悠理の肌が粟立った。

 

殴り倒されてもいい。

今の僕は、悠理以上に無防備だ。むしろ、彼女からの罰を待っている。

悠理が本気で抵抗すれば、僕はこれ以上なにもできない。

 

だから。

 

逃げてくれ。

 

 

 

 

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なんかどんどんとんでもなくなるなぁ・・・コスプレ記憶喪失物のはずだったのに・・・(大汗)

背景:月とサカナ