「清四郎・・・」 嫌悪と怯えの混じった悠理の声が聴き取れた。雨音に遮られてでさえ。
そこで出合ったのは偶然だった。 所用の帰り。本降りになった雨に、タクシーを拾おうかと大通りに出た。 傘を差したまま、歩道に立ちすくむ。 1ブロック先のレストラン前に停まった高級車から降り立ったのは、見知った友人とその両親の姿だった。
彼女と目が合った瞬間、胸に走った痛み。 ただ、逃れたかった。
「・・・・・おまえと出会わなければ、良かった。」 それは、その場の邂逅だけでなく。巡り逢ったことさえ悔いた。
「!!」 思わず漏らした呟きが、彼女には届いたようだ。 悠理はすぐに顔を逸らせ、背を向けた。 雨の向こうに消える後姿を、身動きすらできずに見送った。
消し去ってしまいたいのは、彼女の唇がかたどった自分の名。 後悔にまみれた過去。
激しい雨に、視界がかすんだ。 転がる傘。 目を焼くヘッドライト。 遠ざかり消える、面影。
それが、僕が最後に見たものだった。
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僕の頬に触れた悠理の手を、無意識で掴んでいた。 「痛っ・・・。」 床に横たわったまま、悠理が顔をしかめる。 指の力を緩めると、悠理は僕の手を振り払った。しかし、彼女は疲れたように体の力を抜いた。もう暴力を振るうつもりはなさそうだった。
「自分だけ、なにもかも忘れやがって・・・」 顔を逸らせたまま、悠理は吐き捨てた。 「あたいのことも、忘れやがって!」 彼女の言葉に、僕は首を振った。 「・・・・憶えています。」 「え?!」 悠理が目を見開いて僕に顔を向けた。 やっと、僕たちは真正面から顔を合わせた。
ふいをつかれたように目を見開く悠理は、無垢な子供のようだ。 その表情は、睨みつけてくる険しい顔しか知らないはずの僕の胸を疼かせる。 ひょっとしたら、僕の知っていた本来の悠理は、こちらの顔なのかもしれない。
悠理の唇に滲む血を、指先で拭った。柔らかな唇。 「少しだけですがね。」 床に手をつき悠理を見下ろしたまま、僕は悠理に苦笑を向けた。
記憶が完全に戻ったわけではない。 だけど、悠理に喚起される胸の痛み。野梨子を見たときの感覚。 それは、僕が完全に記憶を失っているわけではない証拠だろう。 先ほど脳裏を過ぎった、光景も。
苦い笑みに、顔が歪む。 「・・・・あなたが来るまで、僕は日記を読んでいたんですよ。PCに保存してあった自分の日記です。」 悠理の目が見開かれる。
僕はまた、笑みを浮かべた。 「いえ、なんてことのない日記でした。なにがしの会合の予定だとか、そこで発表された新説だとかの、おもしろくもない覚書。まぁ、日記なんて他人に読ませるものではないから、そんなもんでしょうがね。」 悠理は凍りついた表情で、僕を見つめている。 こくりと、細い喉が動いた。 「あたいとのことは・・・」 僕はゆっくりとかぶりを振った。 「数日しか読んでいませんが、なにも。」
悠理は安堵とも悔しさともつかぬ表情を浮かべた。 白く細い喉。震える唇。 泣き出しそうな顔。
僕はそんな彼女に、歪んだ笑みを見せることしかできなかった。 「・・・・僕は、おまえに憎まれるようなことをしたんだな。」 想像はついた。 確かに、日記には彼女のことは何も書かれていなかった。 だけど、PCのパスワードが、すべてを語っている。
『 YUURI 』
それは、僕が最初に試したパスワードでもあるのだ。
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――――菊正宗清四郎は、剣菱悠理を愛していた。 おそらくは、一方的に。 出逢ったことを悔いるほど、激しく。 そして、失った。 自分を消し去りたいと思うほど、ひどく彼女を傷つけて。
悠理の唇に、また血が滲み始めた。 僕がつけた傷。 暴力行為の痕。
鮮烈な紅に目を奪われ、僕は唇を重ねた。 悠理は目を見開いたまま、硬直している。 かすかに触れるだけの口づけ。 それでも、口の中に苦い味が広がった。
――――嫌だ、清四郎・・・・あたいたち、友達だろ?!
閉じた瞼の裏に、悠理の怯えた顔が浮かんだ。悲鳴じみた泣き声と。
――――おまえなんて、だいっ嫌いだ!
瞼を開けても、呆然と僕を見上げる目の前の悠理に、泣きじゃくる彼女の顔が重なった。
自分を消し去ってしまいたいとまで望み、すべて忘れてしまいたいと、願ったはずなのに。 逃げることは出来なかった。 一目見た瞬間に、再び囚われてしまった。
僕はもう一度、悠理に口づけた。今度は、腫れた頬に。 彼女は大きな目を見開いたまま、微動だにしない。 もう掴んだ手も放しているから、いつでも僕を殴ることができるはずだ。
「どうしてだ・・・・?」 抵抗しない悠理に、僕は問いかけた。 いっそ、僕は望んでいたのに。 彼女から、罰を与えられるのを。
事故が原因なのかどうか、わからない。だけど、僕は逃げ出したのだ。 悠理から。 自分から。
情けなくも、卑怯な男。
「どうしてだ?どうして、僕を探していたんですか。僕の顔など、見たくもなかったんだろう。」 こくりと、また白い喉が動いた。 「だ、だって・・・」 やっと、悠理はかすれた声で答えた。 「だって、野梨子が泣くし・・・可憐だって美童だって魅録だって、おまえのことすごく心配して・・・・。」 大きな目に、涙が滲んだ。 「おまえと最後に会ったの、あたいだったし・・・」
――――出会わなければ、良かった。
悠理に投げつけた言葉。 本当は『好きにならなければ良かった』と、言いたかったのだろう。 だけど、無理だとわかっていたのだ。
「おまえは、友達だもん!」 悠理の目から涙が溢れた。 わずかに残る記憶、そのままに。 「大事な友達だもん!」
僕は首を振った。 彼女が友情を求めても、僕には答えられない。 友人としての長い年月の記憶がないためではなく。
まるで、呪詛のような恋だ。 記憶を失ってもなお、僕は悠理に焦がれてならない。
逃げてくれ。
僕は心の中で、悠理に懇願した。 逃げ出した僕を見つけ出し、再び捕らえたのは、彼女だったけれど。 抑えの効かない激情に翻弄される自分が恐ろしかった。
三度目の口づけは、白い喉に。 本能的な怯えにか、悠理の肌が粟立った。
殴り倒されてもいい。 今の僕は、悠理以上に無防備だ。むしろ、彼女からの罰を待っている。 悠理が本気で抵抗すれば、僕はこれ以上なにもできない。
だから。
逃げてくれ。
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なんかどんどんとんでもなくなるなぁ・・・コスプレ記憶喪失物のはずだったのに・・・(大汗) |
背景:月とサカナ様