プルシアンブルーの肖像   -5-   

 

 

冷たい床の上で、華奢な体を抱きすくめた。

口づけで悠理の白い肌に紅い痕を残す。

 

制服に覆われた細い体が、無防備に投げ出されている。

滑らかな布の上から、存在を確かめるように手を這わせた。

緩やかな隆起を描く胸が、怯えるように震えていた。

 

悠理の長い睫も震えている。

僕が傷つけた頬の赤みは引かないのに、小づくりな顔は色を失っていた。

ただ、血の色の唇だけが目に痛いほど鮮やかに紅かった。

薄い茶色の瞳はガラス細工のようで、感情を映さない。

ただ、僕の罪を映している。

 

それは、あの日と同じ。

 

 

友人だと信じていた男に裏切られ、愕然と見開かれた瞳。

無理やりに押し開いた体は、その心と同じく無垢で、頑なに僕を拒んだ。

 

生徒たちの笑いさざめく学び舎の裏で。 

愛している、と繰り返しながら、悠理を抱いたのは下草の上。

緑の樹液が制服にいくつも染みを作った。

彼女の、純潔の証とともに。

 

 

恐れ続けていた、記憶の断片が蘇る。

これが、僕が逃げた過去か。

 

 

愚かな男の絶望的な片恋の顛末。

許される罪ではない。

 

 

 

逃げてくれ。

 

そんな願いと反対に、悠理は無抵抗のまま身を投げ出している。

何かを諦めたような、透明な瞳で。

しなやかな体の柔らかさに感じたのは、欲望よりも哀しみだった。

蘇った記憶は、獣じみた欲情を制した。

 

「悠理・・・っ」

感情が暴発する。

喉から振り絞るように、名を呼ぶ。

 

謝罪の言葉など言えるはずもない。

ましてや、愛を乞うことなどできない。

 

制服の上から、彼女の胸に額を寄せる。少年のような薄い胸元に、僕の涙が滲んだ。

おそらくは、生まれて初めて流す、悔恨の涙。 

逃げ出そうとした卑怯と罪の重さに慄きながら、それでも悠理を求める心を抑えきれなかった。

 

どうして、こんな恋をしてしまったのか。

出逢ったことを悔いた。 

僕のためでなく、彼女のために。 

 

 

 

 

ふいに、髪に温かいものが触れた。 

「・・・せいし・・・」

悠理の指だった。

「清四郎・・・」

彼女の胸に顔を埋める僕の髪を、震える指が何度も梳く。

両手が僕を抱えるように回された。ぎゅ、と背中に回った手がシャツを掴む。

顔を埋めた悠理の胸が、動悸に激しく上下した。

思わず顔を上げた僕の前には、幼い泣き顔。

 

「・・・えっ・・・えっ」

嗚咽が悠理の唇から漏れる。涙が溢れ出し、流れ落ちた。

 

「よ・・・良かったっ・・・」

彼女の口から漏れた言葉に、耳を疑う。

「あたいのこと・・・わかるんだよね?清四郎、もうどっかに行っちゃったりしないよね?」

幼い口調。

とめどなく流れる涙。

殴りかかってきた気の強い娘の顔は、どこにもなかった。

憎しみと軽蔑の色は、濡れた瞳には見出せなかった。

 

「もう本当に、おまえと会えないかと思った。そんなん、ヤダって、思った。」

それは、どうして僕を探していたのかと問うたことへの、悠理の返答だった。

 

「事故にあったなんて知らなかったから、おまえがあたいに会いたくなくって、逃げたんだって思って・・・」

それは、当たっていた。僕は逃げたのだ。

自分の罪から。

彼女から。

 

「おまえは戻って来たけど、あたいのことも全部忘れちゃってる・・・なんて思ったら、腹が立って、ムシャクシャして・・・」

悠理の怒りは当然だ。罵倒されても殴られてもしかたのない罪を犯したのだから。

それなのに、すべてを忘れ、悠理をなおも傷つけた。

 

悠理の頬に指で触れた。涙が腫れた頬を流れ落ち、僕の指を濡らした。

血のにじんだ唇も首筋に散った口付けの痕も、涙に濡れた指で辿る。

それは、未練じみた行為だった。

もう僕は、忘れたかった記憶を思い出していた。悠理に触れる資格などないことを、知っていた。

 

僕は身を起こし、背中に回った悠理の腕をゆっくりと下ろした。

「せいしろ・・・?」

問いかけるような悠理の声とともに、パタンと力なく腕が床を鳴らした。

 

「もう、帰ってください。」 

虚脱したような彼女から顔を背け、僕はそれだけやっと口にした。

 

「や・・ヤダ!」 

悠理は声を荒げる。 ガバリと身を起こす気配。

「おまえが思い出すまで、あたい、帰らないからな!」

 

悠理のそれが、僕の理不尽に対する怒りのためだけでなく、いまだ彼女の中で消えない友情ゆえの言葉だとは、わかっている。

 

僕は力なく呟いた。

「もう・・・思い出しました。」 

彼女を安心させるための笑みを浮かべようとしたが、できなかった。

 

「ほ、本当?!全部?!じゃ、明日は学校に来る?!」

僕は首を横に振った。

 

頭は混乱していた。

すべての記憶を取り戻したわけではなくても、一番大切なことは思い出していた。

もう、悠理の前に顔を出せないということは。

 

勉強机に近寄り、開けたままだったPCの蓋を閉める。

そのまま、椅子に座り、顔を覆った。

 

「帰って、ください。」

 

僕にはそれだけしか言えなかった。

何もかも、彼女のせいにしてしまいそうで怖かった。

いっそ、恨みたくなる。

 

僕の想いを知りながら、友情を求める無神経さを。

僕の欲望を知っていながら、無防備な姿を見せることを。 

自分の罪を忘れ平穏だった僕の心を、この煉獄に連れ戻したことを。

 

 

 

 

 

冬の午後の光が、急速に陰る。

 

僕の懇願にもかかわらず、悠理は帰ろうとはしなかった。

 

「・・・・このアルバム、あたいんちにもある。学校のだ。」

勝手に本棚からアルバムを抜き出し、壁にもたれて座り込む。

僕は机に顔を伏せたまま、動くこともできなかった。

 

「あたいたちが、初めて会ったのは、幼稚舎の入園式だったよ。憶えてる?」

アルバムをめくる音を、僕は背中で聞いていた。

目を閉じた瞼の裏に、幼い暴れん坊の面影が過ぎる。

「おまえってば、ヘナチョコでさぁ。野梨子にかばわれてやんの。」

桜が満開の、春だった。

悠理の言葉に誘われ、鮮やかに蘇る記憶。

 

「昔は、いけすかない奴だってずっと思ってたんだよなぁ・・・どっちかっていうと、野梨子の方を、だけど。おまえと野梨子は、いつもセットだったし。」

ひとり言のような口調で、悠理は思い出を辿る。

「中学部で初めて同じクラスになったんだよな。可憐や美童も一緒になって。」

魅録も含め、一同が顔を合わせたディスコ。ミセスエールとの出会いと、有閑倶楽部結成。

「いつの間にか、おまえってば強くなってて、あたい悔しくってさ。」

 

悠理は淡々と話し続けた。

彼女らしく、勘違いや主観に満ちた語りだったが、僕の記憶を喚起させるのには十分だった。

 

「退屈だ、退屈だ、なんて言いながら、結構いろいろあったよな。危ない目にもいっぱいあったし。」

 

もう、僕はすべてを思い出していた。倶楽部の面々と乗り越えたたくさんの事件、冒険。

その記憶のどのシーンにも、悠理は鮮やかに存在していた。

 

「おまえはいつでも頼りになるリーダーだったよ。底意地悪いし優等生面が鼻につくけど、あたいは・・・」

悠理はそこで言葉を切った。

こくりと、息を整える音。

「・・・・あたいは、おまえが好きだった。」

 

僕は彼女を振り返った。

青色の室内に落ちた、淡い影の中。

部屋の隅で座り込んでいる悠理は、僕を真っ直ぐ見つめていた。

哀しげな、笑みを浮かべて。

 

 

――――友達の顔を保てなくなった、あの日。

どこかで、僕は自惚れていたのだろう。

女としての自覚もなく、初恋すら知らない彼女の幼さは知っていたけれど。

悠理からの信頼と友愛を、誤解していた。

悠理は僕を受け入れるに違いないと思っていた。

 

恐怖と嫌悪に歪んだ顔。全身での拒否。

それでも、自分のものにしてしまえば、心さえも手に入ると思っていた。

これまでの関係を、すべて壊してしまってもいい。そう思っていた。

 

――――清四郎なんか、だいっ嫌いだ!

 

泣きじゃくる彼女に、憎しみの目を向けられ、初めて僕は自分の過ちに気がついた。

愚かな、自惚れを。 

 

僕が壊したのは、友情と信頼。

捨て去ろうとしたのは、彼女が好きだと言ってくれた、友人としての自分。

 

 

 

時間の止まったような午後。

僕たちは、無言で見つめ合っていた。

階下から来客を告げる声が聞こえたが、意識までは届かなかった。

ただ、目の前の悠理だけが現実だった。

記憶を失っているときでさえ、そうであったように。

 

悠理の笑みが崩れる。

くしゃりと顔をゆがめると、笑みは容易に泣き顔になる。

 

「ごめん・・・。ごめん、清四郎。」

哀しげな瞳はそのままに、悠理は呟いた。 

 

 

 

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なんか暗くてすみません。もしかしてRシーンに突入か?と自分でも思っていたのですが、悠理ばかりか清四郎も泣いちゃって、@つものも@たなかった模様。←殴

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