冷たい床の上で、華奢な体を抱きすくめた。 口づけで悠理の白い肌に紅い痕を残す。
制服に覆われた細い体が、無防備に投げ出されている。 滑らかな布の上から、存在を確かめるように手を這わせた。 緩やかな隆起を描く胸が、怯えるように震えていた。
悠理の長い睫も震えている。 僕が傷つけた頬の赤みは引かないのに、小づくりな顔は色を失っていた。 ただ、血の色の唇だけが目に痛いほど鮮やかに紅かった。 薄い茶色の瞳はガラス細工のようで、感情を映さない。 ただ、僕の罪を映している。
それは、あの日と同じ。
友人だと信じていた男に裏切られ、愕然と見開かれた瞳。 無理やりに押し開いた体は、その心と同じく無垢で、頑なに僕を拒んだ。
生徒たちの笑いさざめく学び舎の裏で。 愛している、と繰り返しながら、悠理を抱いたのは下草の上。 緑の樹液が制服にいくつも染みを作った。 彼女の、純潔の証とともに。
恐れ続けていた、記憶の断片が蘇る。 これが、僕が逃げた過去か。
愚かな男の絶望的な片恋の顛末。 許される罪ではない。
逃げてくれ。
そんな願いと反対に、悠理は無抵抗のまま身を投げ出している。 何かを諦めたような、透明な瞳で。 しなやかな体の柔らかさに感じたのは、欲望よりも哀しみだった。 蘇った記憶は、獣じみた欲情を制した。
「悠理・・・っ」 感情が暴発する。 喉から振り絞るように、名を呼ぶ。
謝罪の言葉など言えるはずもない。 ましてや、愛を乞うことなどできない。
制服の上から、彼女の胸に額を寄せる。少年のような薄い胸元に、僕の涙が滲んだ。 おそらくは、生まれて初めて流す、悔恨の涙。 逃げ出そうとした卑怯と罪の重さに慄きながら、それでも悠理を求める心を抑えきれなかった。
どうして、こんな恋をしてしまったのか。 出逢ったことを悔いた。 僕のためでなく、彼女のために。
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ふいに、髪に温かいものが触れた。 「・・・せいし・・・」 悠理の指だった。 「清四郎・・・」 彼女の胸に顔を埋める僕の髪を、震える指が何度も梳く。 両手が僕を抱えるように回された。ぎゅ、と背中に回った手がシャツを掴む。 顔を埋めた悠理の胸が、動悸に激しく上下した。 思わず顔を上げた僕の前には、幼い泣き顔。
「・・・えっ・・・えっ」 嗚咽が悠理の唇から漏れる。涙が溢れ出し、流れ落ちた。
「よ・・・良かったっ・・・」 彼女の口から漏れた言葉に、耳を疑う。 「あたいのこと・・・わかるんだよね?清四郎、もうどっかに行っちゃったりしないよね?」 幼い口調。 とめどなく流れる涙。 殴りかかってきた気の強い娘の顔は、どこにもなかった。 憎しみと軽蔑の色は、濡れた瞳には見出せなかった。
「もう本当に、おまえと会えないかと思った。そんなん、ヤダって、思った。」 それは、どうして僕を探していたのかと問うたことへの、悠理の返答だった。
「事故にあったなんて知らなかったから、おまえがあたいに会いたくなくって、逃げたんだって思って・・・」 それは、当たっていた。僕は逃げたのだ。 自分の罪から。 彼女から。
「おまえは戻って来たけど、あたいのことも全部忘れちゃってる・・・なんて思ったら、腹が立って、ムシャクシャして・・・」 悠理の怒りは当然だ。罵倒されても殴られてもしかたのない罪を犯したのだから。 それなのに、すべてを忘れ、悠理をなおも傷つけた。
悠理の頬に指で触れた。涙が腫れた頬を流れ落ち、僕の指を濡らした。 血のにじんだ唇も首筋に散った口付けの痕も、涙に濡れた指で辿る。 それは、未練じみた行為だった。 もう僕は、忘れたかった記憶を思い出していた。悠理に触れる資格などないことを、知っていた。
僕は身を起こし、背中に回った悠理の腕をゆっくりと下ろした。 「せいしろ・・・?」 問いかけるような悠理の声とともに、パタンと力なく腕が床を鳴らした。
「もう、帰ってください。」 虚脱したような彼女から顔を背け、僕はそれだけやっと口にした。
「や・・ヤダ!」 悠理は声を荒げる。 ガバリと身を起こす気配。 「おまえが思い出すまで、あたい、帰らないからな!」
悠理のそれが、僕の理不尽に対する怒りのためだけでなく、いまだ彼女の中で消えない友情ゆえの言葉だとは、わかっている。
僕は力なく呟いた。 「もう・・・思い出しました。」 彼女を安心させるための笑みを浮かべようとしたが、できなかった。
「ほ、本当?!全部?!じゃ、明日は学校に来る?!」 僕は首を横に振った。
頭は混乱していた。 すべての記憶を取り戻したわけではなくても、一番大切なことは思い出していた。 もう、悠理の前に顔を出せないということは。
勉強机に近寄り、開けたままだったPCの蓋を閉める。 そのまま、椅子に座り、顔を覆った。
「帰って、ください。」
僕にはそれだけしか言えなかった。 何もかも、彼女のせいにしてしまいそうで怖かった。 いっそ、恨みたくなる。
僕の想いを知りながら、友情を求める無神経さを。 僕の欲望を知っていながら、無防備な姿を見せることを。 自分の罪を忘れ平穏だった僕の心を、この煉獄に連れ戻したことを。
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冬の午後の光が、急速に陰る。
僕の懇願にもかかわらず、悠理は帰ろうとはしなかった。
「・・・・このアルバム、あたいんちにもある。学校のだ。」 勝手に本棚からアルバムを抜き出し、壁にもたれて座り込む。 僕は机に顔を伏せたまま、動くこともできなかった。
「あたいたちが、初めて会ったのは、幼稚舎の入園式だったよ。憶えてる?」 アルバムをめくる音を、僕は背中で聞いていた。 目を閉じた瞼の裏に、幼い暴れん坊の面影が過ぎる。 「おまえってば、ヘナチョコでさぁ。野梨子にかばわれてやんの。」 桜が満開の、春だった。 悠理の言葉に誘われ、鮮やかに蘇る記憶。
「昔は、いけすかない奴だってずっと思ってたんだよなぁ・・・どっちかっていうと、野梨子の方を、だけど。おまえと野梨子は、いつもセットだったし。」 ひとり言のような口調で、悠理は思い出を辿る。 「中学部で初めて同じクラスになったんだよな。可憐や美童も一緒になって。」 魅録も含め、一同が顔を合わせたディスコ。ミセスエールとの出会いと、有閑倶楽部結成。 「いつの間にか、おまえってば強くなってて、あたい悔しくってさ。」
悠理は淡々と話し続けた。 彼女らしく、勘違いや主観に満ちた語りだったが、僕の記憶を喚起させるのには十分だった。
「退屈だ、退屈だ、なんて言いながら、結構いろいろあったよな。危ない目にもいっぱいあったし。」
もう、僕はすべてを思い出していた。倶楽部の面々と乗り越えたたくさんの事件、冒険。 その記憶のどのシーンにも、悠理は鮮やかに存在していた。
「おまえはいつでも頼りになるリーダーだったよ。底意地悪いし優等生面が鼻につくけど、あたいは・・・」 悠理はそこで言葉を切った。 こくりと、息を整える音。 「・・・・あたいは、おまえが好きだった。」
僕は彼女を振り返った。 青色の室内に落ちた、淡い影の中。 部屋の隅で座り込んでいる悠理は、僕を真っ直ぐ見つめていた。 哀しげな、笑みを浮かべて。
――――友達の顔を保てなくなった、あの日。 どこかで、僕は自惚れていたのだろう。 女としての自覚もなく、初恋すら知らない彼女の幼さは知っていたけれど。 悠理からの信頼と友愛を、誤解していた。 悠理は僕を受け入れるに違いないと思っていた。
恐怖と嫌悪に歪んだ顔。全身での拒否。 それでも、自分のものにしてしまえば、心さえも手に入ると思っていた。 これまでの関係を、すべて壊してしまってもいい。そう思っていた。
――――清四郎なんか、だいっ嫌いだ!
泣きじゃくる彼女に、憎しみの目を向けられ、初めて僕は自分の過ちに気がついた。 愚かな、自惚れを。
僕が壊したのは、友情と信頼。 捨て去ろうとしたのは、彼女が好きだと言ってくれた、友人としての自分。
時間の止まったような午後。 僕たちは、無言で見つめ合っていた。 階下から来客を告げる声が聞こえたが、意識までは届かなかった。 ただ、目の前の悠理だけが現実だった。 記憶を失っているときでさえ、そうであったように。
悠理の笑みが崩れる。 くしゃりと顔をゆがめると、笑みは容易に泣き顔になる。
「ごめん・・・。ごめん、清四郎。」 哀しげな瞳はそのままに、悠理は呟いた。
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なんか暗くてすみません。もしかしてRシーンに突入か?と自分でも思っていたのですが、悠理ばかりか清四郎も泣いちゃって、@つものも@たなかった模様。←殴 |
背景:月とサカナ様