放課後、帰路の途中。所用を思い出したと、野梨子を先に帰した。 僕が向ったのは、学校から程近い公園だった。
都心にもかかわらず緑豊かなこの公園には、下校途中にそばを通るにもかかわらず、僕が足を踏み入れたのは数えるほどしかない。 そのほとんどが、悠理と共に。 自然児悠理は、都会のオアシスのようなこの公園がお気に入りで、試験前合宿などで僕や野梨子と帰る時は、必ず寄りたがった。 僕はそんな時、勉強からの現実逃避だと、叱ったものだけど。 公園の中ではしゃぐ悠理を見るのは、楽しかった。
今、僕が逃避してはならない現実は、この公園だ。 そう。 ここは、あの日悠理に対して、僕が許されざる罪を犯した場所だった。
罪の記憶から逃げてはならないという思いが、忌まわしい場所に僕を向かわせた。 いや、赦すことで、すべてをなかったことにしようとした悠理が、僕をそこに向かわせたのかもしれない。
部室に集まった仲間達が早々に下校し、僕と悠理がはからずもふたりきりになった、あの日。
――――そろそろ僕達も帰りますか。悠理、お迎えは? ――――なんか歩きたい気分なんだ。途中まで、一緒に帰ろ!
ふたりきりになる機会を、避けていたのは僕。もう、彼女への抑えきれない想いを自覚していたから。 それでも、彼女の無邪気な申し出に、面映い思いで応諾した。
あの日も、公園の林の中に僕を誘ったのは悠理だった。 この公園から見る夕日は、ビル群に邪魔されず木々に縁取られ、美しく沈む。 公園内の道やベンチには、この夕刻の静寂を楽しむ老人やカップルの姿が見られた。
――――もっといい場所、この前見つけたんだ!
悠理は僕の手を引いて林に分け入った。日没に間に合うように、息をはずませ早足で。 そこは、木々に遮られ喧騒から離れた小さな草地だった。 寝転んで見上げなきゃだめだと袖を引かれ、悠理の隣で草の上に横たわった。 確かに、彼女の言葉通り、爽快で美しい光景だった。ここが東京の片隅であることを忘れさせる、見事な日没。
ふたり、そうして夕焼け空を見上げていただけならば、美しい友情の思い出になっただろう。
――――いつもは、野梨子と一緒だろ。清四郎とふたりで、ここに来たかったんだ。 ――――え?
思いがけない言葉に驚いて、僕は半身を起こし隣の悠理を見つめた。 夕映えに照らされた彼女の表情は、照れたように赤らんで見えた。
――――だ、だって、野梨子は草の上に寝転んだりしないだろ。この気持ち良さのわかんない奴に、とっておきの場所を教えてやるもんか。
悪戯っ子のような笑みを浮かべる、彼女の幼さを知っていて、なお。 甘えるように擦り寄ってくる髪の甘い匂いが。 夕映えの中の悠理の美しさが。 友人の一人のままでいたくはないと、僕の感情を昂ぶらせた。
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冬の性急な訪れに葉の散った林を、ひとり進む。 空はあの日と同じ、見事な夕焼け。 ゆっくりと草を踏んで歩いていた僕は、目指す場所にあるはずのない姿を見出し、足を止めた。 我が目を疑う。
「清四郎・・・?」 草の上に寝転がっていた悠理は、上体を起こして僕を見た。 制服の背についた落ち葉が何枚か落ちる。
あの日と同じ彼女の姿に、息さえ止まった。 確かに、ここは悠理のお気に入りの場所だった。だけど、僕のせいで忌まわしい場所となったはずだ。
「ゆう・・・り・・・」 喉がかすれて声が出ない。 彼女が理解できない。
あの日。 突然組み敷いたとき、驚きのあまり大きく目を見開いていた悠理。
――――どうして、こんなことするの?!
そう問われて、想いを告げた。
――――愛しています。
だけど聞きたくないとばかりに、悠理は自分の耳をふさいで、顔を背けた。
無理やりに奪った口付け。止まらない感情と欲望のまま、悠理を抱いた。 それでも、ただのレイプにはしたくはなかった。
泣きながら身悶える彼女を、丹念に責めた。 痛みだけではなく、快楽を感じるように。 僕の想いが、届くように。
強張っていた体は、しだいにほぐれ濡れて開いた。 力ではなく言葉と愛撫で、抵抗を封じた。
交わり重なった肌と肌のぬくもり。 蒼ざめていた頬に色が差し、全身が薔薇色に染まる。 伏せた睫が、何度も震えたのは快感ゆえに。 抵抗の言葉は、甘い吐息に変わった。
彼女の意思ではなく、僕の意思で体を溶かした。 ひょっとしたら、それは、より残酷な行為だったのかもしれない。 女であることの自覚さえなかった幼い悠理に、体は女であることを思い知らせたのだから。
――――おまえは、もう僕のものです。僕の女だ。
たったひとりの、女。 他の誰にもこんな感情を抱いたことはなかった。 愛も所有欲も征服欲も、すべてが悠理だけに向かった。
半ば意識を飛ばし力なく横たわった悠理の髪を梳きながら、僕は想いを遂げた充足感に浸っていた。 悠理は僕を受け入れてくれたのだと、錯覚していた。
――――愛してる、悠理。少しは、僕を好きですか?
問いは、睦言。彼女が僕を好いていてくれることはわかっていた。 いつも僕を頼り甘えてきたのは悠理だったから。 それが、恋でなくても良かった。 いつか、僕に惚れさせてみせると自惚れていた。
悠理は目を開けて、僕を見つめた。 涙に濡れた茶色の瞳は、ガラス細工のように透明だった。
――――おまえなんか、だいっ嫌いだ!
嫌悪に満ちた泣き声に、傲慢な自惚れは、砕け散った。
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黄昏時は一瞬。 陽の落ちた空は、急速に藍色に染まる。
「清四郎、野梨子と帰らなかったのか?」 悠理の問いかけが、僕を回想から引き戻した。
「・・・・。」 愕然と言葉も出せず立ちすくむ僕に、悠理の表情が曇った。 「なんだよ、幽霊を見たような顔してさ。」 幽霊を見たほうが、驚かなかっただろう。
この場所で平然とした顔を僕に向ける悠理が信じられなかった。
記憶を失った僕に対して、悠理が抱いたであろう怒りと悔しさが、少し理解できた。 切られるような胸の痛みと共に。 ひとり取り残された気がする。 それが忌まわしい思い出であっても、共有した時間を否定された気がして。
「夕日に、間に合わなかったな。」 凍りついたように動けない僕の前で、悠理は立ち上がり、スカートについた落ち葉を乱暴に払った。それは、いつものような粗雑な態度に見えた。 だけど、僕は気づいた。 悠理の手が震えている。
「・・・悠理。」 「・・・ん?」 顔を上げて僕と目を合わせた悠理の瞳の中に、怯えと惑いを読み取る。 平気なわけはない。 忘れたわけでもない。 友情ゆえに僕を赦そうとしても、いまだ拭えない過去に、苦しんでいる。
僕は竦んでいた足を叱咤し、悠理に背を向けた。 「安心してください。僕はすぐに去りますから。」 「え?」 「ここに、来るべきではなかった。」 「・・・・。」 僕は下草を踏みしめ、悠理に背を向けたまま歩き始めた。 「待ってよ!」 悠理が駆け寄って来た。 「あたいも帰る。もう陽も落ちたから、すぐ暗くなっちゃうし。」
僕の隣で、悠理も歩き始める。 悠理との距離は、十数センチ。 だけど、心の距離は計りかねていた。 薄闇の中、表情も見えなくなる。
「帰りの車は?家まで送って行きましょうか?」 「いいよ。携帯で呼ぶから。」 内心安堵する。何食わぬ顔で悠理と過ごすのは、まだ苦しい。 悠理が嫌悪や恐怖を僕に感じていたとしても、彼女はそれを表に出そうとしなかった。 精一杯の虚勢を張って、元の友人関係に戻ろうとしている。
「・・・・悠理、もう大丈夫ですよ。」 「な、なにが?」
優しい悠理。 強い悠理。 僕も、彼女に報いなければならない。
「もう、吹っ切れました。事故と記憶喪失が、結果的に良い機会になったようです。」 「・・・へ?」
薄闇の中、僕は足を止めた。 悠理も立ち止まる。
悠理に笑顔を向けて、僕は続けた。 「一時の熱病みたいなものだったんでしょうね。今は、憑き物が落ちたように、すっきりしていますよ。」 ぎこちない笑みだったが、夕闇がごまかしてくれるだろう。
「僕達は、友人に戻れますよね?酷い事をした僕を、おまえが許してくれるなら。」 「・・・・!」
夕闇は、僕のついた嘘をごまかしてくれるけれど。 悠理の表情をもまた、見えなくさせた。
こんなに近くに居ても見えない。 触れることは出来ない。 それは、心の距離そのままに。
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・・・・あと少しで終われるかな? |
背景:月とサカナ様