プルシアンブルーの肖像   -8-   

 

 

 

記憶を捨て逃げ出した事実で。

自分の弱さも狡さも知った。

叶わぬ想いを抱いたまま、彼女の隣で見守り続けることなど、僕にはできはしない。

諦めなければならない。

それが、どんなに不可能なことに思えても。

 

 

 

「あのときの自分はどうかしてたんだと、今は思います。」

僕は悠理に向かって、なおも言葉を重ねた。

安心させたかった。

僕を赦そうとする寛大さに、応えたかった。

「もう、吹っ切ることができました。目が覚めた気分です。」

言葉を重ねながら、それが本当であればいいのにと、思っていた。

 

「・・・・あたいのこと、嫌いになったの?」

悠理が低い声で問う。 

「まさか!悠理のことは好きですよ。昔からね。」

悠理がどんな表情をしているか、夕闇で見えない。

「それを、僕は勘違いしてしまった・・・・だけ、です。」

思いがけず、語尾が震えてしまった。

嘘をつくのは、得意のはずなのに。

 

僕は焦燥感にかられ、再び歩き始めた。

公園の街灯まで、あと少し。

青く沈んだ光景の中、街灯の白い光が、救いの出口にように見えた。

夕刻だとはいえ、道に出ればまだ人通りもある。

ほころびそうになる嘘をつくろいながら、このまま悠理と二人きりでいるのは耐えがたかった。

 

歩き出した僕に対して、悠理は立ち止まったままだった。

「悠理?」

彼女がついて来ないことに気づき、僕が振り返った時。

 

全身に衝撃が走った。

視界が旋回する。

 

ドサ、と腰が地面を打った。

悠理に突き飛ばされ転んだのだと気づいたのは、彼女に馬乗りに押さえ込まれてからだった。

 

またか、と思った。

悠理は時に暴力的に僕へ感情をぶつける。

しかし、受身も取れなかったのは、殺気を感じなかったからだ。

 

僕を見下ろす悠理の顔は影になりよく見えない。だけど、あの透明な目をしているのだろう。

「・・・・あたいの気持ちは、置いてけぼりかよ?」

怒りを抑えた静かな声で、そうと知れた。

 

あの日と反対に、土の上に押えつけられ。

僕の腹の上に馬乗りになった悠理に、襟を締め上げられた。

記憶を失っていた時も、僕が抵抗しなければ、そうしようとしていたように。

そう、いまの僕に抗えるはずもない。

息がつまるのは、彼女に襟を締められているためではない。身動きすらできないのは、僕の負い目のためだ。

 

「・・・自分の気持ちから逃げて、傷つけるだけ、傷つけて・・・!」

悠理の言葉に、胸を抉られた。

記憶を失うことで、逃げたのは、僕。

自分勝手な思い込みと傲慢さで、彼女の心にも体にも、傷をつけた。

 

「そんで、謝って許されるなんて、思ってたわけじゃないけど・・・」

悠理は言葉を切って、ひっくと、しゃくりあげる。

「でも、でも、あたい・・・!」

悠理はつかんだ僕の胸に顔を伏せ、身を震わせた。

 

「あたいの気持ちは、どうすればいいんだよっ!」

 

涙声の絶叫。

 

僕の制服の胸元に広がる温かい感触は、悠理の涙。

額を押し付けて、悠理が肩を震わせて泣いている。

僕はそんな彼女の涙を止めることができなかった。

慰めるための手さえ、触れることは許されない。

友人であった頃のようには。

 

もう逃げないと誓ったはずなのに、たまらず僕は悠理から目を逸らし伏せた。

愛しい女からの憎悪。

僕はそれを、甘んじて受け止めなければならない。

罰にさえならない。当然の義務だった。

だけど、まだ、悠理の顔を見ることはできなかった。

息も出来ないほどの胸の痛みに、伏せた瞼の裏が熱くなる。

せめて、涙を見せたくなかった。

これ以上惨めな姿を晒したくはなかった。

 

 

どれほど、そうしていただろう。

陽が落ちて下がった気温も、背をつけた土の冷たさも、感じなかった。 

悠理の重みだけを感じていた。

 

僕が伏せていた目を開けた時。

いつしか、空には星が瞬いていた。

月明かりに照らされ、僕を見下ろす悠理の顔が見えた。

そうあるはずの、憎しみの表情ではない。

くしゃくしゃに歪んでいたけれど、それは幼い泣き顔だった。

 

「・・・許して。」

すがるような瞳に光る涙。

 

悠理の言葉に、僕は困惑する。

なぜ、悠理が謝るのかわからない。

 

「怖かったんだ、全部壊れちゃいそうで。変わってしまいそうで。だから、気づかないふりをして、見ないようにして・・・」

涙の雫が悠理の頬を流れる。

「あたいが逃げたことで、あんなにおまえを傷つけてしまうなんて、思わなかったんだ。」

僕の胸元をつかんでいる悠理の指に力がこもった。

「怖かったのは、おまえじゃなくて、自分の気持ちだったのに・・・・!」

 

星明りが捕らえた雫。

僕にも見ることができた。

見えなかった表情が。

見えなかった心が。

 

「ずっと、おまえが、好きだったのに・・・・・!」 

 

 

 

 

 

僕は呆然と、ただ悠理を見つめていた。

とめどなく頬を流れる涙を。

 

僕の胸元に広がる温もり。それは、濡れた布のためだけでなく。

胸の内側に、涙は吸い込まれた。

 

しゃくりあげながら、悠理は僕の胸に拳骨を下ろした。

だけど、それは彼女らしくなく、力の入らない拳だった。

痛みなど、まるで感じない。

のし掛かられ殴られているのに、僕はまだ凝固したままだった。

 

力のない握りこぶしが、僕の胸を打つ。

まるで、ノックしているように。

 

「・・・・記憶を失ってた時・・・野梨子には、特別なものを感じたんだろ?あたいのことは、男の子だと思ったのにさ。それ聞いただけで、腹の中に石を飲んだみたいな気分になった・・・・」

 

悠理の言葉の唐突さに、思考がよく働かない。

現実だとは思えなかった。

都合の良い夢に思えた。

先ほど、悠理が叫んだ言葉が。 

 

「そーゆーのが、ずっと、怖かった。おまえには、あたいよりもずっとお似合いな子がいるし・・・・誰かと自分を比べたり、嫉妬したりしたくなかったんだ。」

 

悠理の涙が、ポタポタと拳にかかる。それは僕の制服を濡らす。

悠理は拭いもせず僕を殴り続けた。

 

「怖かったんだ。自分がすごく嫌な奴になっちゃいそうで・・・・ううん、なっちゃってた。おまえの気持ちなんか考えず、自分ばっかり悲劇の主人公みたいに思って、おまえを詰って・・・・・」

 

僕の胸を打ちつけた悠理の手が、震えている。

言葉通り、怯えるように。

 

「だけど、おまえがあたいを見なくなる方が、もっと怖いよ・・・!」

 

小さな手の感触に、心が震えた。

悠理に”違う”と言ってやりたかったのに、唇も震えて、言葉が出ない。

僕の弱さと嘘が悠理を苦しませているのに、泣きじゃくる彼女が愛おしくてならなかった。

 

僕は悠理の腰に手をやり、伏せていた体を起こした。

悠理はペタンと座り込み、うなだれてしゃくりあげた。

ひっくひっくと嗚咽する彼女を無理に立ち上がらせ、制服についた汚れを払った。

力の抜けた悠理の体は、支えていなければ、すぐに崩れ落ちる。

 

すべて、無意識の行動だった。

気づくと、両腕で抱きしめていた。触れることさえ、許されないはずの彼女を。

 

これが、夢でもいい。

この場だけの、一瞬の機会でも。

悠理への想いを、抑えなくていいのなら。

もう、隠さなくていいのなら。

 

「僕は・・・・おまえを諦めた振りをしなくても、いいのか?」

 

僕がやっと出せた言葉は、やはり震えてかすれていた。

情けないほど動揺している。

 

「振り?」

悠理が僕の胸から顔を上げた。

小首を傾げた頬には、まだ涙のあと。僕の胸に染み入った雫。

それを、なおも得たくて、悠理の頬に唇を寄せた。

 

「過去も自分も捨てて、それでもおまえを忘れることができなかった・・・・諦めるなんて、無理です。」

 

それ以上、もう何も言えなかった。

頬の涙を唇で拭い取り。

僕はそのまま、悠理の唇に口づけた。

 

いつかのような、触れるだけのものではなく。

傲慢な激情に煽られての、噛み付くようなものでもなく。

 

唇を柔らかくなぞり、吐息を吸った。

ゆっくりと奥まで愛撫し、悠理の心を探った。

おずおずとぎこちなく僕に応えようとする彼女を見つけ、そっと絡め取った。

甘く優しい口づけは、しだいに深まる。

舌と唾液を貪る。

合わさった胸の鼓動が重なる。

彼女も僕を求めているのだと、心音が教えてくれる。

泣きたいほどの歓喜が、全身を貫いた。

 

唇をわずかに離す。

悠理の伏せた睫が震えていた。

上気した頬を両手で掬い上げ、自分の片頬を重ねた。

それだけで、こみ上げてくる感情に胸が震え、吐息が漏れる。

 

「悠理・・・・」

「・・・せ・・・いしろ・・・。」

 

震える声で僕の名をつむぐ唇に、もう一度キスを落とした。

一時も、離したくない。

そんな僕の口づけに、悠理が応える。

離れたくない、と。

 

悠理の心を感じられる。

悠理も僕を感じている。

 

あれほど「愛してる」と繰り返し、体を重ねても、こんな感覚は得られなかった。

傲慢に押し付け奪うだけの愛しか、僕は知らなかったのだ。

 

涙が溢れた。

いくら泣いても、羞恥など感じなかった。

温かい涙は、罪も後悔も流してくれる。

悠理の涙と僕の涙が溶け合う。

ふたり抱き合ったまま、何度も口づけを交わし続けた。

 

 

一瞬だけでいいなんて、嘘だ。

 

これが夢ならば、目覚めた僕は正気ではいられない。

もう、僕は悠理を離せない。

重ねた心は、離れられない。

 

 

 

 

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次回、ようやくエピローグです。

背景:月とサカナ