記憶を捨て逃げ出した事実で。 自分の弱さも狡さも知った。 叶わぬ想いを抱いたまま、彼女の隣で見守り続けることなど、僕にはできはしない。 諦めなければならない。 それが、どんなに不可能なことに思えても。
「あのときの自分はどうかしてたんだと、今は思います。」 僕は悠理に向かって、なおも言葉を重ねた。 安心させたかった。 僕を赦そうとする寛大さに、応えたかった。 「もう、吹っ切ることができました。目が覚めた気分です。」 言葉を重ねながら、それが本当であればいいのにと、思っていた。
「・・・・あたいのこと、嫌いになったの?」 悠理が低い声で問う。 「まさか!悠理のことは好きですよ。昔からね。」 悠理がどんな表情をしているか、夕闇で見えない。 「それを、僕は勘違いしてしまった・・・・だけ、です。」 思いがけず、語尾が震えてしまった。 嘘をつくのは、得意のはずなのに。
僕は焦燥感にかられ、再び歩き始めた。 公園の街灯まで、あと少し。 青く沈んだ光景の中、街灯の白い光が、救いの出口にように見えた。 夕刻だとはいえ、道に出ればまだ人通りもある。 ほころびそうになる嘘をつくろいながら、このまま悠理と二人きりでいるのは耐えがたかった。
歩き出した僕に対して、悠理は立ち止まったままだった。 「悠理?」 彼女がついて来ないことに気づき、僕が振り返った時。
全身に衝撃が走った。 視界が旋回する。
ドサ、と腰が地面を打った。 悠理に突き飛ばされ転んだのだと気づいたのは、彼女に馬乗りに押さえ込まれてからだった。
またか、と思った。 悠理は時に暴力的に僕へ感情をぶつける。 しかし、受身も取れなかったのは、殺気を感じなかったからだ。
僕を見下ろす悠理の顔は影になりよく見えない。だけど、あの透明な目をしているのだろう。 「・・・・あたいの気持ちは、置いてけぼりかよ?」 怒りを抑えた静かな声で、そうと知れた。
あの日と反対に、土の上に押えつけられ。 僕の腹の上に馬乗りになった悠理に、襟を締め上げられた。 記憶を失っていた時も、僕が抵抗しなければ、そうしようとしていたように。 そう、いまの僕に抗えるはずもない。 息がつまるのは、彼女に襟を締められているためではない。身動きすらできないのは、僕の負い目のためだ。
「・・・自分の気持ちから逃げて、傷つけるだけ、傷つけて・・・!」 悠理の言葉に、胸を抉られた。 記憶を失うことで、逃げたのは、僕。 自分勝手な思い込みと傲慢さで、彼女の心にも体にも、傷をつけた。
「そんで、謝って許されるなんて、思ってたわけじゃないけど・・・」 悠理は言葉を切って、ひっくと、しゃくりあげる。 「でも、でも、あたい・・・!」 悠理はつかんだ僕の胸に顔を伏せ、身を震わせた。
「あたいの気持ちは、どうすればいいんだよっ!」
涙声の絶叫。
僕の制服の胸元に広がる温かい感触は、悠理の涙。 額を押し付けて、悠理が肩を震わせて泣いている。 僕はそんな彼女の涙を止めることができなかった。 慰めるための手さえ、触れることは許されない。 友人であった頃のようには。
もう逃げないと誓ったはずなのに、たまらず僕は悠理から目を逸らし伏せた。 愛しい女からの憎悪。 僕はそれを、甘んじて受け止めなければならない。 罰にさえならない。当然の義務だった。 だけど、まだ、悠理の顔を見ることはできなかった。 息も出来ないほどの胸の痛みに、伏せた瞼の裏が熱くなる。 せめて、涙を見せたくなかった。 これ以上惨めな姿を晒したくはなかった。
どれほど、そうしていただろう。 陽が落ちて下がった気温も、背をつけた土の冷たさも、感じなかった。 悠理の重みだけを感じていた。
僕が伏せていた目を開けた時。 いつしか、空には星が瞬いていた。 月明かりに照らされ、僕を見下ろす悠理の顔が見えた。 そうあるはずの、憎しみの表情ではない。 くしゃくしゃに歪んでいたけれど、それは幼い泣き顔だった。
「・・・許して。」 すがるような瞳に光る涙。
悠理の言葉に、僕は困惑する。 なぜ、悠理が謝るのかわからない。
「怖かったんだ、全部壊れちゃいそうで。変わってしまいそうで。だから、気づかないふりをして、見ないようにして・・・」 涙の雫が悠理の頬を流れる。 「あたいが逃げたことで、あんなにおまえを傷つけてしまうなんて、思わなかったんだ。」 僕の胸元をつかんでいる悠理の指に力がこもった。 「怖かったのは、おまえじゃなくて、自分の気持ちだったのに・・・・!」
星明りが捕らえた雫。 僕にも見ることができた。 見えなかった表情が。 見えなかった心が。
「ずっと、おまえが、好きだったのに・・・・・!」
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僕は呆然と、ただ悠理を見つめていた。 とめどなく頬を流れる涙を。
僕の胸元に広がる温もり。それは、濡れた布のためだけでなく。 胸の内側に、涙は吸い込まれた。
しゃくりあげながら、悠理は僕の胸に拳骨を下ろした。 だけど、それは彼女らしくなく、力の入らない拳だった。 痛みなど、まるで感じない。 のし掛かられ殴られているのに、僕はまだ凝固したままだった。
力のない握りこぶしが、僕の胸を打つ。 まるで、ノックしているように。
「・・・・記憶を失ってた時・・・野梨子には、特別なものを感じたんだろ?あたいのことは、男の子だと思ったのにさ。それ聞いただけで、腹の中に石を飲んだみたいな気分になった・・・・」
悠理の言葉の唐突さに、思考がよく働かない。 現実だとは思えなかった。 都合の良い夢に思えた。 先ほど、悠理が叫んだ言葉が。
「そーゆーのが、ずっと、怖かった。おまえには、あたいよりもずっとお似合いな子がいるし・・・・誰かと自分を比べたり、嫉妬したりしたくなかったんだ。」
悠理の涙が、ポタポタと拳にかかる。それは僕の制服を濡らす。 悠理は拭いもせず僕を殴り続けた。
「怖かったんだ。自分がすごく嫌な奴になっちゃいそうで・・・・ううん、なっちゃってた。おまえの気持ちなんか考えず、自分ばっかり悲劇の主人公みたいに思って、おまえを詰って・・・・・」
僕の胸を打ちつけた悠理の手が、震えている。 言葉通り、怯えるように。
「だけど、おまえがあたいを見なくなる方が、もっと怖いよ・・・!」
小さな手の感触に、心が震えた。 悠理に”違う”と言ってやりたかったのに、唇も震えて、言葉が出ない。 僕の弱さと嘘が悠理を苦しませているのに、泣きじゃくる彼女が愛おしくてならなかった。
僕は悠理の腰に手をやり、伏せていた体を起こした。 悠理はペタンと座り込み、うなだれてしゃくりあげた。 ひっくひっくと嗚咽する彼女を無理に立ち上がらせ、制服についた汚れを払った。 力の抜けた悠理の体は、支えていなければ、すぐに崩れ落ちる。
すべて、無意識の行動だった。 気づくと、両腕で抱きしめていた。触れることさえ、許されないはずの彼女を。
これが、夢でもいい。 この場だけの、一瞬の機会でも。 悠理への想いを、抑えなくていいのなら。 もう、隠さなくていいのなら。
「僕は・・・・おまえを諦めた振りをしなくても、いいのか?」
僕がやっと出せた言葉は、やはり震えてかすれていた。 情けないほど動揺している。
「振り?」 悠理が僕の胸から顔を上げた。 小首を傾げた頬には、まだ涙のあと。僕の胸に染み入った雫。 それを、なおも得たくて、悠理の頬に唇を寄せた。
「過去も自分も捨てて、それでもおまえを忘れることができなかった・・・・諦めるなんて、無理です。」
それ以上、もう何も言えなかった。 頬の涙を唇で拭い取り。 僕はそのまま、悠理の唇に口づけた。
いつかのような、触れるだけのものではなく。 傲慢な激情に煽られての、噛み付くようなものでもなく。
唇を柔らかくなぞり、吐息を吸った。 ゆっくりと奥まで愛撫し、悠理の心を探った。 おずおずとぎこちなく僕に応えようとする彼女を見つけ、そっと絡め取った。 甘く優しい口づけは、しだいに深まる。 舌と唾液を貪る。 合わさった胸の鼓動が重なる。 彼女も僕を求めているのだと、心音が教えてくれる。 泣きたいほどの歓喜が、全身を貫いた。
唇をわずかに離す。 悠理の伏せた睫が震えていた。 上気した頬を両手で掬い上げ、自分の片頬を重ねた。 それだけで、こみ上げてくる感情に胸が震え、吐息が漏れる。
「悠理・・・・」 「・・・せ・・・いしろ・・・。」
震える声で僕の名をつむぐ唇に、もう一度キスを落とした。 一時も、離したくない。 そんな僕の口づけに、悠理が応える。 離れたくない、と。
悠理の心を感じられる。 悠理も僕を感じている。
あれほど「愛してる」と繰り返し、体を重ねても、こんな感覚は得られなかった。 傲慢に押し付け奪うだけの愛しか、僕は知らなかったのだ。
涙が溢れた。 いくら泣いても、羞恥など感じなかった。 温かい涙は、罪も後悔も流してくれる。 悠理の涙と僕の涙が溶け合う。 ふたり抱き合ったまま、何度も口づけを交わし続けた。
一瞬だけでいいなんて、嘘だ。
これが夢ならば、目覚めた僕は正気ではいられない。 もう、僕は悠理を離せない。 重ねた心は、離れられない。
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次回、ようやくエピローグです。 |
背景:月とサカナ様