金魚

  BY hachi様


〜3〜


清四郎は、起き上がった悠理を見た途端、言い知れぬ不安を覚えた。
いつもの彼女ではない。まるで操り人形のような仕草。
「赤い服・・・どこ?」
ベッドから離れようとする悠理を、清四郎は咄嗟に背中から抱いて引き止めた。すると、悠理は激しく暴れ出した。
「放して!行かなきゃならないんだよ!早くあの子のところに行かないと、淋しがってる!!」
いくら細身で軽いとはいえ、悠理は喧嘩殺法の達人だ。本気で暴れられたら、生半可な力では抑えられない。悠理の腕を封じながら、暴れる足を払う。バランスを崩して倒れたところに圧し掛かって、完全に動きを封じた。
それでも悠理は必死に足をばたつかせて、清四郎の下から何とか抜け出そうとする。
「悠理!!僕の声が聞こえますか!?正気に戻るんです!悠理っ!!」
大きな瞳を至近距離から覗き込み、彼女の名を叫ぶ。すると、悠理は大きく仰け反ってから、くたりと弛緩した。
「・・・せいしろ・・・」
微かな声だったが、悠理は確かに清四郎の名前を呼んだ。
悠理が静かになったのを見計らってか、美童が恐る恐る近づいてきた。
「・・・悠理、また気絶したの?」
「・・・ええ。」
「清四郎って、やっぱり凄いよね。暴れる悠理を押さえ込んじゃうんだもの。あれならどんな娘だって押し倒せ・・・」
途中で清四郎が睨んでいるのに気づき、美童は自慢の美貌を引き攣らせた。
「よくもこの状況で下らないことが言えますね。そんなことを考えている暇があるなら、悠理の無事を神にでも祈っておいてください。」
神に祈ったところで悠理を危機から救えるはずはない。美童もそのくらい分かっているだろう。言葉の裏に隠された、邪魔をするな、との意味も理解したはず。
美童は大袈裟に肩を竦めて、分かったよ、と答えた。
ふたたび気を失った悠理を抱きかかえて、棒立ちになっている女性二人を振り返る。
「申し訳ないが、可憐と野梨子で手分けをして、悠理のクロゼットから赤い服を選び出して、鍵がかかる場所に移動させてください。それから美童は、五代さんに頼んで、晒し布を準備してもらえますか?」
「晒しって、何に使うのさ?」
「悠理を縛るのですよ。肌を傷つけずに、かつ確実に束縛するには、晒しのような布が一番なんです。」
清四郎がそう言った途端、三人の顔が強張った。それでも女性二人は頷き、美童も硬い表情のまま清四郎の指示に従った。
皆が出て行ってから、ようやく悠理を抱えたままだったことを思い出す。
清四郎は意識のない悠理を見つめ、小さく名を呼んだ。先ほどの状態からして、正気ではないものの、きっと悠理には聞こえていると確信したのだ。
ベッドに運んでからも、何度も悠理に呼びかける。
「悠理、悠理・・・聞こえているのでしょう?僕たちがきっと助けてみせるから、安心してください。お前を悪霊の餌食になど、絶対にさせません。」
清四郎の眠り姫は、悪夢に引き込まれ、青褪めている。
その姿が痛々しくて、己の胸を掻き毟りたくなる。
早く、本当に一刻一秒でも早く、いつもの溌剌とした笑顔を取り戻してやりたかった。
隣室からは、野梨子と可憐がクロゼットの中を掻き分ける気配が伝わってくる。
なのに、清四郎は―― 無意識のうちに、悠理に口づけていた。
自分でも理解不能の行動に驚き、慌てて身を起こす。
いったい何をしたのだ?
この、緊迫した状況下で。壁一枚隔てた先に、仲間がいる状態で。
清四郎は悠理の顔をまじまじと見つめながら、口づけの理由を必死になって探した。


翌朝早く、魅録はバイクを飛ばして剣菱家へ向かった。
応対に出たメイドに早朝の訪問を詫び、急いで悠理の部屋へと向かう。ノックもそこそこに部屋を開け、そのまま奥のベッドルームに入る。もちろん普段なら若い娘の部屋に無断で入るような真似はしない。たとえ、相手が色気なしの猿っ娘であってもだ。
驚いたことに、ベッドルームには悠理と清四郎の二人しかいなかった。
「他の連中はどうしたんだよ?」
「客間で休んでいます。長丁場になったら、それこそ体力勝負になりますからね。休めるうちに休んでもらわないと。」
「そう言うお前は寝たのかよ?」
「三人とは体力が違います。」
口ではそう言いつつ、やはり疲労の色は隠せない。
―― いや、疲れているのは身体ではなく、精神のほうか。
きっと一晩中、悠理の寝顔を見つめていたのだろう。
罪悪感と後悔に苛まれながら。
「・・・交代してやるから、お前もちょっと休め。」
「有り難い。実はずっとトイレに行きたかったんです。」
冗談とも本気ともつかない口調だ。それでも笑えるだけ、まだマシか。魅録はベッドの傍まで一人掛けのソファを移動させ、そこにどっかと腰を下ろした。腰を落ち着けて話し合いたい、という、男同士の無言のサインである。
清四郎は皮肉な笑みを片頬に浮かべ、トイレに行ってきます、と言って立ち上がった。
もっとゆっくりすれば良いのに、本当にトイレだけ済ますとすぐに帰ってきた。いくら勧めても、清四郎は休もうとしない。それどころか、早く調査の結果を見せてくれとせがむ。強情な友人に呆れながらも、魅録は紙束を差し出した。
映画が上映されたのは八年前。それから最初の被害者が出るまでの三年間に、神社の近郊で死亡、もしくは行方不明になった子供を、父のパソコンを使って徹底的に調べ上げた。
調べて気持ちのいい内容ではなかったが、それもこれも悠理を救うためであり、同時に、目の前の男を救うためでもあった。
「流石は魅録ですね。よくもここまで調べたものだと、感心しますよ。」
「分かりやすい親父のお陰さ。使っているパスワードが、千秋さんの誕生日に、二人の結婚記念日だろ?あれで警視総監なんだから、日本国家の安全が危ぶまれるぜ。」
魅録の言葉に、清四郎は忍び笑いを漏らした。
清四郎がリストに眼を通している間、手持ち無沙汰を埋めるために煙草を吹かす。
ベッドで眠る女性を鑑賞する趣味はないが、無事を確かめがてら、悠理を見る。驚いたことに、両手をそれぞれベッドに括りつけられているではないか。
「目覚めるたびに、あの少年の元へ行こうとするのですよ。」
魅録の驚きに気づいたらしく、清四郎が束縛の理由を説明する。
「目覚める度って・・・そんなに何度もか?」
「正確には五回です。赤い服を着て、あの子と遊ぶんだ、とうわ言のように呟いて。」
昏々と眠り続ける姿は、一見すると何の異常もないようだが、明らかに昨夜よりも窶れている。あの少年は、悠理の精神だけでなく、肉体も蝕んでいるのだ。
悠理には何の罪もない。もちろん殺害された女性たち、ましてやその家族や友人にも、罪などあろうはずがない。魅録はそのことに、強い憤りを感じていた。
だから、絶対に悠理を助けて、奴が二度と悪行を重ねないよう、封じてやる。
そのための下準備は、既に整っている。
紙束を捲っていた清四郎の手が、ぴたりと止まった。
「魅録、これは―― 」
「ああ。きっとそいつが奴の正体だ。」
清四郎に向かって、魅録は不敵な笑みを浮かべた。


筑水 浩輔。
それが、少年の名前だった。


浩輔少年は、八年前から行方不明になっていた。
彼が神社の少年と同一人物だと断定した理由はひとつ。魅録が覚えていたTシャツの柄である。浩輔少年の特徴のひとつとして、失踪当時の服装がリストに記載されていたのだ。
彼の正体を突き止めることができたのは、すべて魅録のお陰である。清四郎は、頼もしい友人に、心の底から深く感謝した。
朝食を済ますと、魅録と野梨子、そして美童は、悠理を救うヒントを掴むため、筑水少年の両親が住む街へと向かった。現住所と、当時、筑水一家が住んでいた住所は違う。当時の住居も気になるが、まずは両親から詳細を聞き出すことにしたのだ。
清四郎は可憐とともに、悠理に付き添うことにした。
悠理が目覚めて暴れたとき、可憐だけでは心もとないというのもある。だが、本当は自分自身が悠理の傍から片時も離れていたくなかったのだ。
何故そう思うのか、自分でもよく分からない。恐らくは、悠理をこんな目に遭わせてしまったことに、責任を感じているからだろう。
だが、そんな理由では、キスの言い訳にはならない。
焦燥と混乱を胸に抱えたまま、清四郎はずっと悠理の寝顔を見つめていた。
ベッドの反対側には、可憐がいる。社交的な彼女はお喋りも好きだが、今日は不思議と口を開こうとしない。たまに顔を上げて清四郎を見ては、また視線を落とすという動作を繰り返している。
そんなぎこちない空気の中に、第一報は飛び込んできた。
「・・・引っ越してる!?」
泡波浩輔の両親は、六年ほど前に転居しており、近所の住人は誰一人として引越し先を知らないというのだ。
「とにかくさ、筑水さんって近所づきあいの薄い人で、気がついたら引っ越してたって感じだったらしいんだよ。今、野梨子と魅録が当時の自治会長さんの家に行っているから、もしかしたら転居先も分かるかもしれないけど・・・時間がかかるのは確実。」
美童からの電話を切り、清四郎は小さく舌打ちした。
可憐が心配げにこちらを見ているのに気づき、努めて冷静に事情を説明する。それを聞いて、可憐の美麗な眉が歪む。悠理が非常に消耗しているのは、誰の目から見ても明らかだ。長引けば長引くだけ、悠理が受けるダメージは大きくなる。
「・・・清四郎。」
可憐が思い詰めた表情をこちらに向ける。
「あんた、悠理をどう思ってる?」
「どうって・・・そりゃあ好きですよ。仲間ですし。」
可憐は、そうじゃなくて、と語気を荒げてから、深々と溜息を吐いた。
「清四郎に聞いた私が馬鹿だったわ。もういい、今のは忘れてちょうだい。」
力なく頭を振って、可憐は悠理に向き直った。
「・・・本当に可哀想な娘よね。このまま死んじゃっても、絶対に死に切れないわ。」
「可憐。縁起でもないことを言わないでください。」
「あんたに言われたくないわよ!」
そう怒鳴った可憐の瞳には、何故か涙が浮かんでいた。


まったく。 まったく。 本当に、まったく、だ。
まったく、この男は何と鈍いのだ?天真爛漫そのものの悠理が、清四郎を見るときだけ泣きそうな眼をしているのに、どうして気づかないでいられるのだろう?
無理をしてはしゃいで。わざとお道化てみせて。それもこれも、全部清四郎のためではないか。美童や野梨子だけでなく、あの魅録だって、悠理の視線の意味に気づいているというのに。どうして当の本人である清四郎が気づかないのか、不思議で堪らない。
明日は清四郎と東村寺に行くんだ―― 一昨日、嬉しげに頬を染めて、そう話した悠理の姿を思い出し、可憐は本気で泣きそうになった。
このまま悠理が二度と眼を開けなかったら、可憐はきっと感情のままに清四郎を詰る。清四郎が今の何倍も苦しむのが分かっていても、きっと止められない。そうならないためにも、悠理を助けなければならないのだ。
夜が明けてからずいぶん経つ。昨夜は何度も暴れたらしいが、明るくなってからは眠り続けたままだ。きっと昼間は悪霊も活動し難いのだろう。可憐は清四郎に了解を取ってから、悠理の手足を縛る布を取り去った。
昼近くなって、第二報が入った。
「凄いことが分かったんだよ。筑水さん、奥さんじゃない人と暮らしていたそうなんだ。自治会長はあまり覚えていなかったけど、代わりに近所の噂好きのおばさんを教えてくれてさ。僕が行って尋ねたら、嬉々として喋ってくれたよ。八年前に引っ越してきたとき一緒に居たのは、なんと元の奥さんを追い出した女だったんだって。略奪して自分が追い出したって、その女が喋ってたそうだから、確かだよ。筑水さん、結局は二年足らずでその女とも別れちゃって、それが原因でまた引っ越したらしいんだ。」
美童の話を聞いて、清四郎はすぐに指示を出した。
「美童は筑水浩輔が住んでいた街に行って、離婚した母親の所在を当たってください。ところで魅録と野梨子はどうしていますか?ええ、筑水さんの転居先に・・・そうですか。分かりました。あまり無理はしないでください。」
清四郎は電話を切ると、悠理の寝顔を見つめたまま、黙り込んでしまった。
その眼の中に、いつもと違う色を見つけたのは、まったくの偶然だった。
「悠理・・・」
清四郎が何十回目かの呟きを漏らしたので、可憐は何気なく顔を上げた。声がした方向に視線を向けるのは、ごく自然な動作だ。
清四郎は、悠理だけをひたすらに見つめていた。
それは、可憐に求愛してきた男たちの眼と、よく似ていた。
そして、その中の誰よりも、情熱の色を濃く浮かべていた。
まさか―― 可憐の胸に、驚愕にも似た動揺が走った。


筑水浩輔の父親は、転居先からも更に転居していた。隣に住んでいたという老人の話だと、引っ越してからもう一年以上経つらしい。老人は、筑水氏を無口な上に礼儀知らずだと評し、引越しの挨拶にも来なかったと憤慨していた。もちろん、転居先など知ろうはずもなく、野梨子たちは古いアパートの前で溜息を吐いた。
驚いたことに、ここだけでなく、前の住まいでも、浩輔少年のことを知る人間は誰もいなかった。
野梨子には、父親の気持ちなど量りようもないが、息子が行方不明になっているのに転居を繰り返すなんて、いささか常識から外れていると思わざるを得ない。同行している魅録にそれを伝えると、彼は、男は弱い生き物だからな、とだけ答えた。
別行動をしている美童からは、まだ何の連絡も入らない。
「行こうぜ、野梨子。大家なら転居先も知っているはずだ。」
魅録に促され、野梨子は歩き出した。小柄な野梨子にとって、長身の魅録と歩幅を合わせて歩くのは至難の業である。大股で歩くのが苦手なので、半ば駆けるようにして後をついていく。
野梨子の幼馴染も、魅録と同じくらい上背があるが、彼は何も言わずとも、こちらに歩調を合わせてくれる。でも、野梨子は、自分のペースでずんずん歩く魅録に新鮮な驚きを感じていた。
野梨子の弾む息に気づいたのか、魅録が急に立ち止まって振り向いた。
「悪い、早く歩き過ぎたな。」
「いいえ。悠理のためにも、一刻も早く筑水さんの行方を突き止めなければなりませんわ。だから、私のことは気になさらないで。」
荒い息を吐きながら、笑顔で応える。魅録は、無理をするな、と言って、ふたたび歩き出した。でも、今度は先ほどと違って、緩やかな歩調だ。
清四郎以外の男性と並んで歩くなんて、皆無と表現して良いほどなので、何となく緊張してしまう。でも、嫌な気分ではないし、思ったよりも違和感はない。
相手が魅録だからなのか、それとも誰でも一緒なのか、経験不足で分からないけれど。
「・・・悠理のためにも、そろそろ私も清四郎から卒業しなくてはなりませんわね。」
「ん?何か言ったか?」
こちらを向いた魅録に、野梨子は、何でもありませんわ、と言って微笑んだ。


魅録から、今から父親の転居先である北海道に向かうと連絡が入ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
欧州育ちの美童にしてみれば、北海道なんて遠いうちに入らない。けれど、日本人にしてみれば、最果ての大地は、恐ろしく遠い場所だろう。案の定、電話の向こうから聞こえる魅録の声は、普段より沈んでいた。
父親を探し出すのに時間がかかるなら、美童が一刻も早く母親の行方を突き止めよう。
悠理は馬鹿だし、色気はないし、暴力は振るうし、女としては最低だけど、それでも美童たちの大事な仲間である。ここで一肌脱がなければ、男が廃るというものだ。
悠理がいてこその有閑倶楽部。
仲間の誰が欠けても、倶楽部は成り立たない。
美童は住所を頼りに、筑水一家が住んでいた家を探した。
少しは迷うかと覚悟していたが、それはまったくの杞憂に終わった。
八年前とはいえ、子供一人が行方不明になった事件は、やはり近隣の住人の記憶に深く刻まれていた。雑貨店の主人に尋ねたら、すぐに教えてくれたのだ。
そして、筑水一家が当時、住んでいた家は―― 悠理が倒れた神社から五分ほど歩いた場所にあった。
近所にある駄菓子屋の老婆は、浩輔少年のことをよく覚えていた。
浩輔少年が行方不明になる直前、少年の両親は離婚してしまい、母親は半ば追い出されるようにして家を去ったらしい。そのとき、少年はまだ七歳だった。
「あの子、お母さんがいなくなったのが受け入れられなかったんだろうね。よく笑う子だったのに、ちっとも笑わなくなって、学校にも行かなくなったんだ。毎日毎日さ、お母さんの帰りを待って、神社の上から駅を眺めていたよ。浩輔くんのお母さんは、毎日電車に乗って仕事から帰ってきていたからね。きっと電車に乗って帰ってくるって信じていたんだろうねえ。」
そう語る老婆の眼には、涙が光っていた。
老婆は、母親の居場所は知らなかったが、当時の勤務先は覚えていた。
「電車で二駅ばかり先にある、歯科医院で受付をしていたよ。前の院長は良い腕だったんだけどねえ。代替わりしてから、良い噂は聞かなくなったね。」
終わりのない昔話に突入しそうな気配だったため、美童は慌てて辞去を申し出た。もちろん最後に、長生きしてくださいね、の優しいひと言は忘れない。女性は死ぬまで女性だというのが、美童の信条である。
駅までの道程を急ぎながら、携帯電話で清四郎に繋ぎを取る。
彼が、仲間の誰よりも報告を待ち望んでいるからだ。電話の向こうの清四郎は、美童の現在地を知ると、気をつけて、と低く囁いた。
美童は咄嗟に振り返って、背後に聳える鎮守の森を見上げた。石段の上に、幼い少年の姿が見えるような気がして、大急ぎで駅を目指す。
歩いていて、ふと、心中に疑問が湧いた。
―― どうして『金魚』なのだろう?
しかし、この場で答を出したら祟られそうな気がして、慌てて疑問を打ち消した。



   



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