〜5〜
太陽が西の果てに差し掛かると、悠理は急に暴れ出した。
左手を振り回し、両足をばたつかせる。それでも清四郎の手を離そうとしないのは、無意識にも彼を求めているからか。可憐が足を押さえようとベッドへ駆け寄ると、清四郎から危険だから来るなと怒鳴られた。
「本気で暴れているんです!!可憐の腕力では、逆に跳ね飛ばされて怪我をしますから、手を出さないでください!」
「悠理が苦しんでいるのに、手を出すなって言うの!?あんた、自惚れるのもいい加減にして!!独りで抱え込むなら、他でやってよ!悠理はね、私の親友なのよ!!」
可憐はそう叫ぶと、靴のままベッドに飛び乗って、悠理の上に馬乗りになった。
体重をかけて暴れる太腿を押さえ込み、ついでに浮き上がる脇腹をベッドに押しつける。
薔薇の花が咲き乱れるホテルで、悠理に命を救ってもらった恩を返したい訳ではない。
ただ、ただ、悠理がいなくなるのが嫌だった。
きっと―― 可憐に向かって、死ぬな、と言った、悠理の気持ちは、今の可憐と同じだったのだろう。
清四郎が悠理の両腕を押さえつける。くちびるが触れそうな位置で、悠理の名を叫ぶ。
「悠理っ!負けるな!お前は一人じゃない!悠理っ!!」
悠理がかっと眼を見開いて、清四郎、と呟いた。
そして、悠理はまた意識を失った。同時に、もの凄い力で可憐を跳ね除けようとしていた四肢から、力が抜ける。
弛緩した悠理の上で、可憐はしばらく動けずに、ただ荒い息を吐いていた。
「・・・今まで大人しかったのに・・・どうして急に・・・?」
「夜が近づいているからですよ。今までの犠牲者も、すべて―― 太陽が沈んでいる間に殺されていますから。」
清四郎の冷静な口調に、可憐は絶句した。
「可憐。昼間に外した晒し布を下さい。」
悠理と手を繋いだまま、清四郎が手を差し出す。冷酷とすら感じられる口調に反して、心の中では、悠理が心配で堪らないのだろう。だが、それを指摘するのも億劫で、可憐は溜息を吐きながら、ベッド脇に纏めておいた白布を清四郎に渡した。
また悠理をベッドに繋ぐのかと思いきや、清四郎はおもむろに自分の手首と悠理の手首を一纏めに括りはじめた。
「何してるのよ!?」
「こうしておけば、悠理に異変があったとき、嫌でも分かるでしょう?」
確かにそうだ。そうなのだが――
「清四郎・・・あんた、どうしてそこまで一生懸命なの?悠理を守れなかったことに責任を感じているから?それとも、違う理由があるの?」
清四郎はしばらく考えてから、力なく首を左右に振った。
「分かりません。ただ、悠理を失うのが、とてつもなく嫌なんです。」
困った様子で首を捻る清四郎。どうやら、本当に分からないらしい。可憐は呆れるよりも、情けなくなってきた。
「・・・あんたって、本当に情緒ってものが欠如してるわよね。自覚ある?」
「自己判断では、平均だと思っていますが?」
「一度顔を洗って出直してきて頂戴。何だか清四郎の顔を見てると、情けなくって涙が出てきそう。」
言い合うのも無為な行動だ。可憐はベッドから降りて、元いたソファに戻ろうとした。
が、一歩を踏み出した途端、ふたたび悠理が暴れ出し、すぐに振り返った。
「あたいは金魚なんだ!赤い服を着ていかなきゃ・・・!!あの子が待ってる!」
「お前は金魚ではない!悠理!!正気に戻るんだ!!」
「いやだ!!離せっ!この手は野梨子のものじゃないか!!」
清四郎は暴れる悠理を背後から抱き寄せて、胸の中に封じ込めた。
「どうして野梨子が出てくるんですか!?悠理!僕をちゃんと見てください!僕はここにいる・・・悠理の傍にいるじゃありませんか・・・!!」
清四郎の悲痛な叫びは、悠理の絶叫に掻き消された。
それから黄昏時まで、悠理はふたたび眠り続けた。
ともに結わえた腕から、微かに身じろぎする気配が伝わってきて、清四郎はパソコンの液晶画面から顔を上げた。
今まで心霊研究家とメールの遣り取りをしていたが、明確な解決策は見つからなかった。とにかく専門家に相談してみろ―― 結局は、そんなあやふやな答しか返ってこず、落胆していたところに、悠理が動く気配がしたのだ。
「・・・せいしろ・・・?」
悠理は薄く開けた眼をこちらに向けて、清四郎の名を呼んだ。
「ここ、あたいの部屋・・・?なんか、頭、痛い・・・」
ゆっくりと起き上がって、周囲を見回す悠理。頭痛が酷いのか、力なく清四郎の肩に凭れかかってくる。シャツ越しに伝わってくる微かな吐息に、何故だかどきりとした。
「悠理。僕が誰だか分かりますか?」
「誰って、清四郎だろ?」
悠理の声に気づき、可憐が飛んできた。
「悠理っ!大丈夫!?どこか痛いところはない!?」
「すごく咽喉が渇いた・・・水、飲みたい・・・」
可憐は、待っていて、と叫んで、部屋から飛び出した。二人きりになったものの、意識がなかったときとは違い、今の悠理を激情のままに抱きしめることは、理性が許さなかった。こみ上げる衝動を抑えながら、そっと頭を撫でてみた。消耗が激しいのか、いつもなら嫌がって怒るだろうに、されるがままになっている。
「・・・あの、清四郎。トイレに行きたいんだけど。」
その悠理らしいひと言に、思わず苦笑を漏らす。笑われたのが不満だったのか、悠理は頬を膨らませている。
「少し待ってください。ほら、手を結んでいるのですよ。今、外しますからね。」
「間に合わないよ!すっごい行きたいんだ。もう結んだままで良いからさ。」
いくら何でも年頃の女性とトイレに入るわけにはいかないだろう。が、悠理は本当にトイレへ行きたいらしく、清四郎をぐいぐい引っ張りながら歩いていく。仕方なく後に続きながら、それでも片手で結び目を外そうとするが、固く縛っているため、なかなか解けない。その間に、悠理はトイレへと続く隣室のドアを押していた。
悠理が細く開けたドアの隙間から隣室に入る。結んだ手を引っ張られたが、清四郎の身幅では、もう少しドアを開けないと通られない。
ドアに触れようとした瞬間、そのドアがいきなり迫ってきた。
安堵し切っていたところに奇襲を受け、避ける術もなかった。挟まれた手首に激痛が走る。悠理が向こう側から満身の力でドアを押しているのだ。清四郎も押し返そうとするが、不自由な体勢のため、思うように力が出ない。蹴破ることも可能だが、それだとすぐ向こうにいる悠理に怪我をさせかねない。
「・・・清四郎の手は、野梨子のものだもん!」
血を吐くような呟きとともに、ドアの向こうで、かちり、と小さな音がした。それからすぐに、ものが焦げる匂い。手首に熱を感じる。悠理が手首の束縛を焼き切っているのだ。
「悠理っ!!」
清四郎の手首はさほど熱さを感じない。と、いうことは、悠理は己の手首を焼いているのだ。
清四郎は不自由な体勢のまま、思い切りドアを押した。ドアは呆気なく開き、踏ん張っていた清四郎は、無様にたたらを踏んだ。
視界の先に、洗面所に飛び込む悠理の後姿があった。ドアが閉まる寸前、彼女の右手首が赤く爛れているのが、はっきりと見えた。
すぐに後を追ったが、既に洗面所のドアは施錠され、押しても引いても、びくともしなかった。
「悠理っ!!悠理っ!!」
いくら叫ぼうが、内側から返ってくる声はなかった。
可憐がスポーツドリンクを持って扉を開けると、隣室から何かを壊すような凄い音がした。何ごとかとドリンクのボトルを放り出して、隣室に飛び込む。そして、眼前に広がる光景に、息を呑んだ。
パウダールームの扉が有り得ない角度に折れ曲がり、その前に、こちらに背を向けた清四郎が立ち尽くしていた。
悠理と繋がれていたはずの左手が、固く拳を握って震えている。可憐は一歩踏み出して、足元に白っぽい布切れが落ちているのに気づいた。
拾い上げるまでもなく、二人を繋いでいた白い布と分かった。可憐が驚いたのは、その一部分が焼け焦げていたことだ。視線を巡らせると、傍らにライターが落ちている。
ふたつを関連づけるのは簡単だった。導き出された答に、悪寒が走る。
「ちょっと清四郎!悠理は!?悠理はどこよ!?」
大股で近づきながら怒鳴る。でも、清四郎は振り返らない。可憐は彼を押し退けるように前へ回って、パウダールームの中を覗いてみた。
洗面台の前にも、トイレにも、バスルームにも、悠理はいない。
その代わりに、通常のトイレには考えられないものを見つけた。
「これ・・・ダストシュート?」
「悠理がゴミを自分で出すと思いますか?抜け穴ですよ。」
驚く可憐に向かって、清四郎は剣菱財閥の屋敷なら抜け穴くらい当然だと言い放った。
「剣菱財閥は世界各国様々な企業と取引をしていますから、テロの攻撃を受けないとも限りませんしね。本当によく出来た抜け穴ですよ。悠理の身体がギリギリ抜けられるサイズに作ってあるので、僕のような成人男性は絶対に後を追えません。」
清四郎は自嘲気味に笑ってから、洗面台に取りつけられたインターフォンで五代を呼び出し、抜け穴がどこへ通じているのか尋ねた。五代の答えは、万作が作った、地下の秘密通路。しかも、抜け穴の先には悠理の単車が保管されているという。
電話を切る前に、清四郎は車の手配を頼んだ。それと入れ替わりに、可憐の携帯電話に魅録から羽田到着の連絡が入った。
「魅録に悠理のライダージャケットの色を覚えているか尋ねてください。」
清四郎の質問に、魅録は赤だと即答した。可憐は軽い眩暈に襲われ、サイドボードに寄りかかった。昨日、隠した服の中にライダージャケットはなかった。きっと、バイクと一緒に保管しているのだ。
とにかく皆で神社へ向かうことにして、電話を切った。
移動の車中、清四郎は流れる景色には眼もくれず、ずっと俯いていた。とても声をかけられる雰囲気ではない。
「可憐・・・」
清四郎が話しかけてきたのは、ずいぶん経ってからだった。
「悠理は、どうして手に巻かれた布を焼き切るとき、僕の手ではなく自分の手を焼いたのでしょう?熱かっただろうに・・・どうして僕の手を焼かなかったんだ?」
その光景を想像した途端、可憐の眼から涙が溢れてきた。
「・・・あんた、本当に馬鹿ね。」
駄目だと分かっているのに、止まらない。言葉も、涙も。
「私だって、心底惚れた男の手を焼くくらいなら、自分の手を焼くわよ。悠理はね、あんたのことが、ずっと好きだったのよ。あんたは全然気づいていなかったけど、悠理はずっとずっと、あんただけを見てきたのよ!」
清四郎が、信じられない、と言わんばかりに眼を見開く。可憐は大粒の涙を零しながら、史上最悪に鈍感な男を睨みつけた。
「悠理にもしものことがあったら、絶対にあんたを許さないわよ。私だけじゃない。他の皆も、きっとそう。悠理を失恋させたまま死なせるなんて、絶対に許さないから!!」
美童が羽田に到着したのは、午後6時を20分ほど過ぎた頃だった。
とりあえず、清四郎から言われたとおりに動いてはいるが、それがどう役立つのかは今ひとつ不明だった。
電話をかける前に、留守番電話を確認してみる。これは沢山のガールフレンドを抱える美童の癖である。無論、倶楽部ほか知人用と、ガールフレンド用の携帯電話を使い分けてはいるが。
留守番電話には、羽田に着いたらすぐさま神社へ向かえと、可憐の妙に焦った声が録音されていた。空港の外は既に暗い。言い知れぬ不安に襲われ、すぐに可憐の携帯電話に連絡してみる。電話口に出た可憐は非常に興奮していて、聞き取り辛い金切り声だったものの、悠理が消えた経緯は何とか呑み込めた。
とにかく―― かなり切羽詰った状況のようだ。
美童は後ろを振り返った。
「先を急ぎます。きつくなったら、すぐに教えてくださいね。」
小さな包みを抱いた老婦人は、緊張に顔を強張らせながらも、しっかりと頷いた。
フロントガラスから前方を睨むと、駅前商店街の街灯に250ccのバイクがぼんやりと照らされているのが見え、清四郎の胸は破れそうなほど早鐘を打った。
バイクが停まっているのは、ちょうど石段の下あたり。まだ宵の内だというのに、人通りはまったくない。それが、清四郎の不安を余計に掻き立てた。
車から飛び出して、まずバイクに触れる。まだエンジンが熱い。メタリックなボディに見覚えのある猫マーク。間違いない。
「悠理のバイクなの!?」
可憐が後ろから叫ぶ。だが、清四郎に答える余裕はなかった。
「清四郎!!」
境内を目指して、一気に石段を駆け上る。たった百段ほどの石段が、まるで万里の道程のように遠かった。地面を這うしか出来ない自分がもどかしい。いっそ鳥のように飛んで行けたら、すぐに悠理を見つけ出せるのに――
残り数段というとき、社殿の前に白っぽい影が蹲っているのに気づいた。伸びやかな足が、賽銭箱の前に投げ出されている。
「悠理っ!!」
夜目でも間違えるはずがない。あれは、悠理だ。清四郎の、清四郎の――
―― 命よりも、大事な女だ。
清四郎は何の躊躇も感じずに、鳥居をくぐろうとした。
鳥居は境界を表すもの。俗界とは隔てられた世界を示す、印だ。越えてしまえば、そこは清四郎たちが暮らす安穏とした世界ではない。
だが、清四郎が居るべき世界は、悠理が存在する場所だ。たとえ其処が異形のものの住処であっても、悠理が居るのなら、構わない。
しかし、清四郎は境界を越えられなかった。
「・・・っ!?」
鳥居を越えようとした瞬間、清四郎の身体は見えざる壁に弾き飛ばされた。
咄嗟に身を捻って、何とか転落だけは免れた。が、危機的状況は何も変わっていない。もう一度、境内に突入を試みたが、やはり弾き返されてしまう。
悠理がすぐそこにいるというのに。命の危機に晒されているというのに。
たとえようもない焦燥感に、胸が焼けついた。
「清四郎っ!!」
可憐が荒い息を吐きながら後を追ってきた。如何なる場合もお洒落を忘れない彼女が、自慢の髪を振り乱して、必死の形相だ。清四郎の高さまで上がってきて、同じく境内に悠理を見つけ、悲鳴を上げた。半狂乱のまま鳥居を越えようとする可憐の肩を掴み、後ろに引き戻す。
「駄目です。結界が張ってあるらしくて、入られないんです。」
「何を言っているの!?悠理が目の前にいるのよ!何が何でも助けなきゃって思わないのっ!?」
「思っていますよ。」
清四郎は静かに言った。
「悠理は絶対に助けます。僕の命に代えても、きっと助け出してみせますよ。」
そのとき。
どこからか、子供の済んだ笑い声が聞こえた。
―― 赤い金魚と遊びましょ。
いつの間にか、真っ暗な拝殿の中に、幼い少年が立っていた。
NEXT
TOP