~6~
少年の姿を見た瞬間、可憐の全身が粟立った。
怖い。それは、未知なるものに対して、本能が感じる畏怖だ。
隣から清四郎の息を呑む気配が伝わってきた。見れば、憎しみに滾る眼で、少年を睨んでいる。静かな怒りがこちらにまで伝わってきて、可憐も思わず息を呑んだ。
「―― 悠理を返せ。」
「駄目だよ。お姉ちゃんは、僕の金魚なんだもん。」
子供独特の甘い声。なのに、禍々しい。
少年は音もなく歩いて、悠理に近づいた。清四郎が悠理の名を叫ぶ。可憐も咽喉が裂けんばかりの音量で叫んだ。けれど、悠理は反応を示さない。
「お母さんが言ったんだ。お母さんがお仕事に行っている間、金魚と遊んでいてね、って。」
少年の丸い指が、ぐったりした悠理の頬に触れる。
「だから、金魚は返せないんだ。」
悠理の上体が揺れる。ふらりと身を起こして、立ち上がる。まるで、操り人形みたいに。
「今度はどうやって遊ぼうかな?」
「・・・白秋の詩には、三匹目の金魚までしか出てきませんよ。」
清四郎が押し殺した声で言う。
「悠理を返しなさい。悠理は君のものじゃない。悠理は―― 」
力を宿した強い瞳。ただ、真っ直ぐに少年を見つめている。
「―― 悠理は、僕のものです。」
悪霊と対峙しているというのに。悠理が絶体絶命の危機に晒されているというのに。
可憐は、涙が出そうなくらい感動していた。
「駄目っ!金魚は僕のだもん!一緒に遊ぶんだもん!」
感動は、少年の声に掻き消された。
「お母さんが言ったんだもん!お母さんが帰るまで、金魚と遊んでいてって!!お前なんか嫌いだ!どこか行っちゃえ!!」
少年が駄々を捏ねて叫ぶ。子供の中には、無邪気と残酷が同居している。子供だからこそ、残酷な行為を平気で行える。
大人たちは、笑いながら蝶の羽を捥ぐことは出来ない。
少年は、蝶の羽を捥ぐように―― いや、金魚の鰭を引き千切るように、悠理を。
残酷極まりない想像に、吐き気がこみ上げた。
「悠理を返さないなら、僕のほうから返して貰いに行きますよ。」
少年とは対照的に、清四郎の声はどこまでも静かだった。
清四郎はゆっくりと鳥居の前に立ち、手を伸ばした。
見えざる壁は、清四郎を拒絶している。いくら押そうが、弾き返される。
だが、諦めるわけにはいかなかった。正確には、諦める気など微塵もなかった。
目の前には悠理がいる。悠理が存在する世界こそ、自分の居るべき場所。
ただ、悠理だけを見つめて――
清四郎は、悠理への想いを、満身の力に籠めた。
ねっとりとした圧力に、身体が押し潰されそうになる。それでも歯を食い縛って、足を進める。咽喉の奥まで圧力が加わり、窒息しそうだ。とてつもない悪意が襲い掛かり、全身の筋肉がめりめりと悲鳴を上げる。
二度、三度、押し返されるのを、精神力だけで堪える。
「清四郎!負けちゃ駄目!!」
可憐の声。背中に温かな手を感じた。その手は、必死に清四郎の背中を押している。
「惚れた女を救うのが、真の男ってものよ!!」
可憐らしい激励が、清四郎を奮い立たせた。
悠理へと伸ばした手が、圧迫感を越える。可憐の力も加わって、上半身も境界を乗り越えた。ここまで来れば、あと一息だ。足に力を籠めて、見えざる壁を乗り越える。
清四郎は荒い息を吐きながら、境内の石畳に立った。
「さあ、悠理を返して貰いましょう。」
少年は、無言のまま清四郎を睨んでいる。その小さな身体から放たれた燐光が、暗い空に揺らめいている。まるで、清四郎に対する憎しみを具現化したようだ。
少年の口が、耳まで裂けた。
目尻が切れ、そこから鮮血が溢れた。
真珠のような白い歯が、凶悪なまでに伸びて牙になる。
幼い顔は、一瞬のうちに般若のごとき形相に変化した。
見紛うことなき、鬼の姿だ。
「これは、僕の金魚だ。」
醜悪な鬼の口から、幼い少年の声が漏れた。
剃刀のような爪が、悠理の白い首に伸びる。清四郎は咄嗟に、止めろ、と叫んだ。
「ただで悠理を返せとは言いません!代わりに、この僕が君の金魚になりましょう。」
背後で、可憐が擦れた悲鳴を上げる。
「煮るなり焼くなり、切り刻むなり、好きにして構いません。その代わり、悠理を返してください。」
清四郎は、返事を待たずに、己の左手を思い切り振って、鳥居の柱に激突させた。
腕時計のレンズが砕け、月光にきらきら光りながら散り落ちる。文字盤に残った大きな欠片を手に取り、それを、自分の左肘の内側に当てた。
「清四郎!何をするのよっ!?」
清四郎は振り返り、蒼白になった可憐に微笑みかけた。
「悠理を・・・お願いします。」
可憐は、何も答えなかった。否、答えなかったのではなく、答えられなかったのに違いない。自慢の美貌は、もう涙でぐしゃぐしゃになっていたから。
清四郎はふたたび前を向き、醜悪な鬼と対峙した。
力を籠めて、欠片を肘から手首まで滑らせる。鋭い痛みが腕から全身に走り抜け、僅かに眉を顰める。だが、己の手を焼いた悠理は、もっと痛かったはずだ。
清四郎は次々と溢れる鮮血を、己のシャツに擦りつけた。
「さあ、僕の服も赤くなりました。これで金魚の資格を得たのでしょう?さあ、悠理を・・・僕の悠理を、返しなさい。」
血が滴る腕を、悠理に伸ばす。
「悠理。戻って来い。この手は、お前のものだ。野梨子のものではありません。」
ゆっくりと、悠理に近づく。
「悠理!聞こえているのでしょう!?僕の元へ、戻ってきなさい!!」
ぴくん。 悠理の肩が、微かに揺れた。
遠くから、清四郎の声が聞こえてきた。
僕の、悠理。
この手は、悠理のものだ。
そんなはずはない。清四郎には野梨子がいる。
どんなに願ったって、決して悠理のものにはならない。
でも、でも―― もしかしたら。
悠理は闇の中で、そっと振り返った。
明るい光が、彼方に見える。清四郎の声は、そこから聞こえてきていた。
悠理―― 戻ってきなさい。僕の手の中に。
僕の手は、僕の悠理を守るために、ある。
悠理は闇の中で否定する。違う。そんなはずはない。だって、清四郎は・・・
光の中から清四郎が現われた。赤い服を着ている姿なんて、はじめて見た。それに、季節外れな赤い手袋をして。
いや、違う。あれは手袋なんかじゃない。
あれは、清四郎の血だ。腕を真っ赤に染めて、必死に悠理を呼んでいる。
「悠理!!僕はここにいる!!」
堪らず悠理は駆け出した。あの腕が野梨子のものであっても構わない。清四郎が酷い怪我をして、悠理を呼んでいるのだ。早く、早く、傍に行って、助けなきゃ――
「清四郎!!」
伸ばした手は、宙を掴んだ。
「清四郎!!」
突然、悠理が叫んだ。
泣き出しそうに顔を歪めて、清四郎を見つめている。
「悠理っ!」
悠理の咽喉には、ぴったりと鬼の爪が当てられている。清四郎は無意識のうちにポケットから小袋を取り出し、中身を鬼にめがけて投げつけていた。
それは、慌しさの中で何とか準備ができた、唯一の武器らしい武器だった。
その正体は、塩化ナトリウム―― つまり、塩だ。
清四郎の奇襲に、鬼は怯んだ。
「悠理!走れ!!」
恐らく悠理には現状など分かってはいないだろう。だが、彼女はすぐに、こちらに向かって駆け出した。清四郎も悠理を目指して飛び出した。彼女の背後には、凶悪な鬼が迫っている。
悠理は躊躇いもなく、清四郎の胸に飛び込んできた。彼女を抱きとめながら、残りの塩を鬼に投げつける。今度は大した効果はなかったが、それでも鬼の足は止まった。その隙に、悠理を抱いて鳥居を目指す。
―― が、鳥居を越えることは出来なかった。
またもや見えざる壁に弾き返されたのだ。
清四郎は悠理を背中に庇い、境内を振り返った。そこで悠理も鬼の存在に気づいたらしく、ひい、と上ずった悲鳴を上げた。
「な、なんだよ、あれ!?」
悠理の指が肩に食い込む。その僅かに痛みを伴った感触が、これが悪夢ではなく現実だと、清四郎に思い知らせる。
清四郎はくちびるを噛み、悠理を背中に庇ったまま、一歩、後退りした。
「僕の金魚を、返せ。」
鬼の口から、澄んだ子供の声が漏れた。
それを合図にしたかのように、停滞した空気が、さらに重く澱んだ。
あからさまな敵意に、呼吸もままならない。
「母ちゃん母ちゃん どこへ行た・・・赤い金魚と遊びましょ。」
伸びた牙が口唇を破り、そこから真っ赤な血が滴る。
「母ちゃん帰らぬ、さみしいな・・・金魚を一匹 突き殺す。」
濁った眼から、血の涙が溢れる。
「まだまだ帰らぬ、くやしいな・・・金魚を二匹 絞め殺す。」
腐った吐息が、夜を汚す。
「なぜなぜ帰らぬひもじいな・・・金魚を三匹 捻ぢ殺す。」
伸びた爪が触れ合い、かちゃかちゃと音を立てる。
「・・・悠理。そのライダージャケットを脱いでください。」
鬼を見据えたまま、背後の悠理にそっと囁きかける。悠理は慌ててジャケットを脱いだ。それを後ろ手で奪い、自分の肩に羽織る。
「ちょっと清四郎!!なに赤い服着てるのよ!?悠理が助かったって、あんたが死んだら意味ないじゃない!!」
可憐が泣きながら叫ぶ。
「涙がこぼれる日も暮れる・・・赤い金魚も―― 死ぬ、死ぬ。」
悪鬼と化した少年は、すぐそこまで迫っている。
清四郎は、少年に向かって、一歩、足を踏み出した。
悠理には、訳が分かっていなかった。
必死に記憶を辿っても、黄昏の中を清四郎と歩いていたまでしか思い出せない。何となく、夢の中でずっと清四郎の声を聞いていた気もするけれど、はっきり覚えていなかった。
でも、清四郎が悠理を守るために、お化けと向かい合っているのは分かった。
「悠理!!清四郎が着てるジャケットを脱がせなさい!!赤い服を着ていると、殺されるのよ!!」
可憐が涙をぽろぽろ零しながら叫んでいる。悠理は清四郎の背中を見た。彼の背中は、さっきまで悠理が身につけていた赤いライダージャケットに覆われている。その背中越しに、不気味に笑うお化けの姿があった。
勝手に身体が動いて、清四郎の腕を掴んだ。
「行ったら駄目だ!」
清四郎の腕に縋りついて、必死に後ろへと引き戻そうとする。でも、清四郎は穏やかな笑みを浮かべたまま、そっと悠理の手を払った。
「僕は大丈夫です。悠理、もうすぐ魅録や美童たちが助けに来ます。それまで一人でも頑張れますね?」
「一人じゃ嫌だ!清四郎が一緒じゃなきゃ、嫌だもん!!」
血塗れになった左腕が、悠理の頬に触れた。
「僕はいつでもお前と一緒です。この先も、ずっと、ずっと。」
優しい微笑が、心に刺さる。
「今まで気づいてやれなくて、ごめん。でも、これからは、ずっと一緒ですよ。」
勝手に涙が溢れてくる。それを見た清四郎は、泣き虫だと心配だな、と苦笑した。
「僕はずっと、お前を見守っていますから。」
突然、悠理は突き飛ばされた。尻餅をついた拍子に、鳥居の柱に肩をしたたかにぶつけた。痛みを堪えて顔を上げると、化け物が清四郎の咽喉に鋭い爪を向けていた。
「清四郎っ!!」
清四郎は振り返らない。咽喉仏の横に当てられた爪が、楽しむように揺れている。
「四匹目は・・・切り殺そうかなあ。」
化け物は、心から楽しそうに。
笑った。
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