猫怪談

   作 hachi様  

 

 

                                                                               

 

 


-3-



野梨子と合流したあと、ドライブがてら美味しいイカ料理を食べに行く予定だったが、さすがの悠理もすっかり意気消沈してしまい、食欲も失せてしまったようだった。

「健司さんが亡くなった場所というのは、悠理が小さい頃、健司さんと一緒に遊んだ、思い出の場所なんでしょう?ドライブする気分じゃないかもしれませんけど、これも何かのご縁ですし、皆で一緒に花でも供えに行きませんこと?」
野梨子が控えめに提案する。
皆、あまり乗り気ではなかったものの、このままホテルに帰って部屋に篭っていたら、余計に気が滅入りそうだったので、野梨子の提案どおり出かけることになった。


健司が自殺したのは、切り立った断崖と、波に抉られた岩肌が見事なことで知られる、風光明媚な観光地だった。
外海に面した広大な岬は、大変に美しく、佐賀の名所のひとつに数えられるのだが、そういう場所であるがゆえに、自殺の名所という、不名誉な評判もあった。

佐賀市内からその場所まで、車で二時間弱かかる。
六人はワゴンカーに乗り込み、目的地に向けて出発した。
市街を抜けると、周囲の景色は一気に長閑なものに変わった。
まばらな集落と、豊かな田園。山麓を縫うように、緩やかなカーブがどこまでも続く。
後部座席に乗せた百合の花束がなければ、ご機嫌なドライブになったかもしれない。
だが、百合のきつい芳香が、自分たちが何をしに行くのかを、嫌でも思い出させ、車中の空気はずっと重苦しいままだった。


やがて、車は目的地に近づいた。
急勾配の坂を上がり、海沿いとは思えないほど緑深い駐車場に、車を入れる。
車を降りた一行は、まず、周囲の寂しげな雰囲気に驚いた。
誰も口には出さなかったが、これでは自殺の場所に選ばれても仕方ないと思っただろう。
「ここで、健司さんの車が発見されたんでしょ?」
可憐が眉根に嫌悪感を刻みながら、皆に話しかけた。
「ええ、ここに無人の車が放置されていて、崖の上からは、空のウィスキー瓶に、睡眠導入剤の空箱、携帯電話、それに健司さんの靴が発見されたそうです。」
「睡眠導入剤なんか飲んだって、眠くはならないだろ。」
何となく花束係になってしまった美童が、首だけで後ろを振り返って、清四郎に同意を求める。
「ま、通常どおり服用したなら、効果は気休め程度でしょうね。」
「通常どおりじゃなく、うんと飲んだら?」
「薬物ショックなどを起こさない限りは、具合が悪くなるだけで、死にはしません。まあ、胃が破裂するくらいの量を飲んだ場合は、別でしょうが。」
錠剤を胃が破裂するまで飲むのは至難の業である。第一、そんなことをしたら、死ぬより前に、死ぬほど苦しい想いをするから、自殺だって断念するだろう。
「じゃ、飲んでも意味ないじゃない。」
可憐が口を挟むと、清四郎は、そうなんですよねぇ、と心ここにあらずの返事をした。


駐車場を見回すのに気を取られ、それまで会話に参加していなかった魅録が、意味ありげな視線を清四郎に向けた。
「連休だっていうのに、売店が閉まっていやがる。きっとシーズン中だけ開けているんだろうな。夜はまだまだ寒いし、街灯もろくにない。これじゃ、日が暮れちまったら最後、それこそ猫の子一匹も通らないぜ。」
魅録の、妙に含みのある喋り方に、清四郎も、自然と策士の表情になる。
「魅録はずいぶんと宮乃松友春さんが気に入らないようですな。」
「ああ。嫌がらせの犯人を美晴さんと決めてかかったところが、やけに臭くて、気に入らないね。」
このふたり、多くを語らなくても、眼と眼で通じ合うものがあるらしい。
清四郎と魅録は、顔を見合わせながら、くちびるの端だけで笑った。

男同士が何やらアイコンタクトをしているのに、可憐が気づいた。
「気持ち悪いわね。何を見つめ合っているの?清四郎がホモっぽいことやると、洒落になんないわよ。ほら、早く行きましょ。」
可憐が本当に嫌そうな口調で言うので、魅録は堪らず笑い出し、清四郎はムッとした。


駐車場からすぐの場所に、岬の遊歩道へと繋がる階段があった。
階段は、踏むべき箇所の泥が流れて大きくへこみ、縁石が飛び出していて、ひどく歩きにくい。
案の定、運動神経が発達していない野梨子は、何度も躓いて、転びそうになった。


階段を昇り切り、木立を抜けると、突然、視界が広がった。

緩やかにアップダウンする大地は、自然ならではの見事な曲線を描きながら、突然、切り立った断崖で終わりを告げる。一面の草原は、海からの風に靡いて、一方向に傾いでいる。
そして、人影はどこを探してもなく、まるで此の世の果てに迷い込んだような気さえさせた。

皆が絶景に見蕩れていると、悠理が小さなくしゃみをして、身を震わせた。
「そんな薄着じゃ、海風が冷たいでしょう。上着はどうしたんだ?」
すぐ隣にいた清四郎が、悠理を見下ろして、心配そうに眉根を顰めた。
「邪魔だったから、ホテルに置いてきた。」
「海に来るんだから、寒いのは予想できたでしょうに。仕方ありませんね。」
軽く溜息を吐いて、上着を脱ごうとする清四郎を、悠理は慌てて手で制した。
「ちょっと寒気がしただけだから、大丈夫だよ!どうせ歩けばあったかくなるし!」
そう言って、勢いよく歩き出した悠理の後ろを、清四郎が苦笑しながらついていく。

遊歩道は、人ひとり歩くのがやっとな幅で、皆は、縦列する格好で先に進んだ。
しばらく歩いたところで、最後尾を歩いていた野梨子が、皆に向かって大声を出した。
「健司さんがお亡くなりになったところは、まだ先ですの?」
まだまだ寒い季節だというのに、野梨子の前髪は、汗ですっかり濡れていた。それに加えて、アップダウンの多さに、すっかり息が上がっている。
「美晴さんが言うには、突端の少し手前だって。」
美童も息が弾んでいる。
見れば、可憐もご同様である。魅録も暑くなったのか、ジャンパーを脱いで、片手にぶら下げていた。
そんな中、悠理だけが、寒そうに肩を竦めている。
悠理は、大きく身を震わすと、すぐ後ろにいる清四郎を見上げた。
「清四郎ちゃん。やっぱ上着、貸して。」


清四郎に向かって、悠理が手を伸ばした、そのとき。

海風に乗って、猫の鳴き声が聞こえてきた。


悠理は、はっとして、風上を見た。
瞬間、草間の陰を、小さくて黒い塊が過ぎった。

「・・・クロ!!」
「悠理!?」
咄嗟に駆け出す悠理。その後ろを、清四郎が追う。
黒い塊が過ぎった場所で止まり、草原を眺めるも、眼前には一面の緑が広がっているだけだ。
「どうしたんです?いきなり駆け出して・・・」
「クロがいたんだ!」
悠理は、追いかけてきた清四郎の腕を掴み、訴えた。
「間違えるはずがない!あれはクロの鳴き声だ!クロ、ここにいるんだよ!」
「何を言っている?猫の鳴き声なんか、聞こえなかった。第一、クロが飼われていた場所から、ここまでいったい何十キロあると思うんですか?悠理の気のせいですよ。」
そこに、遅れて皆も駆け寄ってきた。
クロがいたと何度も訴える悠理に、全員が困惑気味だ。
「本当にいたんだ!信じてよ!」
「あれ?」
必死に訴える悠理の後ろで、美童が呟いた。
「あそこ、人がいる。」
悠理を含め、皆が美童の指差す方向を眺めた。


はるか遠く、断崖の上に、ほっそりした女性が立ち尽くしていた。
背景の青空から、真っ黒なワンピースが、酷く浮いて見える。
「喪服・・・?」
可憐が眼を凝らしながら、呟く。
海風が音を立て、悠理がまた身を震わせた。
「もしかしたら、健司さんのお知り合いかもしれませんね。行ってみましょう。」
清四郎は、脱いだ上着で悠理の背中を包み、肩をぽんと叩いてから、歩き出した。


断崖の上に立つ女性は、向かってくる清四郎たちに気づくと、あからさまな警戒の色を全身に滲ませた。
しかし、一行の中に悠理の姿を見つけた途端、硬かった表情が、柔らかく解けた。
「悠理ちゃん・・・」
名を呼ばれた悠理は、女性の顔をまじまじと見て、口をあんぐり開けた。
「もしかして、ゆりちゃん・・・?」
ふたりは駆け寄ると、しっかりと抱き合った。
他の五人が、訳が分からずきょとんとしていると、それに気づいた女性が、こちらに向かって軽く会釈した。

皆より、四、五歳は年上だろうか?ほっそりした美女で、抜けるように肌が白いため、黒髪と漆黒の喪服が、より黒く、際立って見える。
まるで、哀しみが、彼女の美しさをより深くしているようだ。

美女を前にして、場もわきまえず、条件反射で進み出ようとする美童に、可憐がいち早く気づいて、その足を無言で踏みつけた。



女性は、健司の従妹で、悠理とも旧知の間柄だった。
彼女は、家庭の都合で健司の家で暮らしていたこともあり、悠理が遊びに行くたび、健司と彼女が、いつも相手になってくれていたそうだ。
幼い悠理にとって、嫌な顔ひとつせず遊んでくれる年上の二人は、本当の兄よりも親しみやすい存在だったという。


彼女は、宮之松ゆり、と名乗った。
宮之松という苗字を聞いた途端、悠理を含め、全員が硬直した。

悠理まで一緒に驚いたのも、当然だった。
ゆりは、鼠の死骸を持って怒鳴り込んできた、あの宮之松友春と、一年ほど前に結婚したばかりだったのだ。

ここしばらく疎遠になっていたのだから、ゆりの結婚を知らなかったのも、仕方のないことだったが、悠理は納得がいかないようだった。
何であんな奴と、と憤慨する悠理に向かって、ゆりは、どうしてもと望まれて結婚したの、と言って、微笑んだ。


友春が、鼠の死骸を持って、美晴のところに怒鳴り込んできた話は、さすがに初耳だったようで、それを聞いたゆりは、顔色を変えた。
「ごめんなさい。激昂すると、見境がつかなくなる人なの。本当にごめんなさいね。」
「ゆりちゃんが謝ることはないよ!悪いのは、ぜんぶ番頭の息子だ!」
「悠理の気持ちも分かるが、せめて名前で呼んでやれ。」
魅録が溜息まじりに悠理をたしなめる。
そこで、唐突に悠理が、あっと叫んだ。
「ゆりちゃん!さっき、あっちにクロがいたんだ!あれは絶対にクロだよ!ゆりちゃんは見なかった!?」
必死に訴える悠理に、ゆりは困惑気味だ。
「クロがこんなところにいるはずがないわ。健司さんの家からここまで、何十キロもあるんですもの。最近は歩くのも苦労していたクロが、こんな場所まで移動するのは不可能よ。」
よしんば何者かに連れてこられたとしても、ずっと飼われていた老猫にとって、ここの環境は苛酷すぎる。クロがいなくなって十日。生きていたとしても、かなり衰弱しているはずだ。とてもではないが、悠理が見たという猫のように、敏捷に動けはしないだろう。

「あれは、ぜったいにクロだよ・・・」
誰にも信じてもらえず、哀しげに眉を下げる悠理の肩を、可憐がそっと撫でる。
「心配し過ぎて、違う猫がクロに見えちゃったのよ、きっと。」
「違う!あれはクロだ!」
大きな瞳に涙が滲む。
悠理は清四郎に借りていたジャケットの袖口を使い、ごしごしと乱暴に涙を拭った。
清四郎は、その様子を、ただ静かに見守っていた。


何はともあれ、ゆりのお陰で、健司が飛び込んだとされる場所は分かった。
用意していた花束を、そこに備えて、皆で手を合わせる。
お参りが終わると、魅録と清四郎は揃って断崖の際に立ち、下を覗き込んだ。
「止めてください!危ないですわ!」
ふたりが、あまりにも危険な場所に立つので、堪らず野梨子が声を上げる。
しかし、ふたりが戻ってくる気配はない。

下を覗き込んでいた魅録が、後ろにいる皆には聞こえないよう、清四郎に囁きかけた。
「確かにこりゃ、自殺には持って来いだな。」
断崖の下は、まさしく絶壁になっており、落ちれば海面までまっ逆さまだ。しかも、海のあちこちから、切っ先鋭そうな岩がいくつも飛び出している。
「ええ。落ちたところが悪ければ、顔貌どころか、身体の原型もなくなりそうですし、本当にお誂え向きだと思いますよ。」
清四郎が、気色の悪い相槌を打つので、魅録はあからさまに顔を顰めた。

健司の死亡時刻については、携帯電話から発信された、美晴宛てのメールが決め手となって、すぐに断定された。
警察が出した結論は、こうだった。
健司は、日が暮れてひと気がなくなったのを見計らってから、この場所に来た。そして、断崖の上でウィスキーと一緒に睡眠導入剤を飲んだあと、最後に遺書めいたメールを美晴宛に発信し、海に飛び込んだ。
もちろんすべては推論に過ぎない。だが、それがもっとも現実的だという理由で、そう結論づけられたのだ。


「魅録。」
「ん?」
清四郎に呼ばれ、魅録は、はるか下に広がる海面から顔を上げた。
「さっき、駐車場で何を考えていましたか?」
含み笑いの清四郎に、魅録もにやりと笑う。
「たぶん、お前さんと同じことさ。」
ふたりは、にっ、と、意味ありげな微笑を浮かべてから、断崖に背を向けた。



ゆりと別れた一行は、青菜に塩をかけたように萎れてしまった悠理を元気づけるため、精進落としと称して、ご当地名物のイカを食べに繰り出した。
最初は元気がなかった悠理も、ぴかぴかのイカが乗った舟盛りを見た途端、食欲に眼を輝かせて、いつもの健啖ぶりを発揮した。

お腹一杯にイカ料理を詰め込んだあとは、鄙びた漁港や、立派な松原を見て回り、いくらかの観光気分を味わった。
ホテルに戻る頃には、悠理もずいぶん元気になって、明日は大きな遺跡で縄文人体験をしよう、と清四郎にせがむくらいに復活し、皆を安心させた。


まさか――― 同じ頃、ゆりの運転する車が事故を起こし、宮之松家だけでなく、天吹美晴まで騒ぎに巻き込まれているとは、誰も、想像すらしていなかった。


 

次へ

作品一覧

  photo by hachi