-5-
健司が自殺した夜、宮乃松父子が宿泊していたホテルは、広大な松原の中にあった。 松原を貫く道には、歩道も、街灯もない。
道の上にまで張り出した松の枝が陽光を遮り、昼だというのに、周囲は薄暗く沈んでいた。
立派な白亜のホテルも、幾百本もの松に包まれ、全体的に暗い印象を受けた。 しかし、中に入ると、その印象は一変した。
大きな窓の向こうは砂浜になっており、正面には広大な海原が広がっている。 「わあー!」
煌く海の景色に、悠理が窓ガラスに貼りついて、感嘆の声を上げた。
そんな彼女に背を向けて、清四郎は館内案内図と睨めっこをしている。
「何やっていんだよ、清四郎。」 景色を見ようともしない清四郎に気づき、悠理がくちびるを尖らせる。
「何って、館内案内を見ているんですよ。分かりませんか?」
清四郎は、悠理を振り返りもせず、行きますよ、と言って歩き出した。その後を、慌てて悠理が追う。
増築を重ねたせいなのか、廊下が不自然に曲がっている。ふたりは幾度か角を折れ、先へ、先へと進んでいった。
四度目の角の手前で、清四郎が立ち止まった。 視線の先には、トイレの入口がある。 清四郎は、迷わず男子トイレに進んだ。
「悠理、来てください。」 「えっ?でも・・・」 「大丈夫。お前なら、男子トイレに入っても不自然じゃない。」
「どーいう意味だ!?」 怒りながらも、悠理は清四郎と一緒に男子トイレへ入った。
清四郎は、用を足すわけでもなく、トイレの中を見回して、小さく首を横に振った。 「ここじゃないな。」
そう呟くと、悠理を置いて、男子トイレから出て行く。
いくら悠理が男に見えても、こんな場所に置いていかれては堪らないので、訳の分からぬまま、慌てて後を追う。
清四郎は、廊下をしばらく進むと、また次の男子トイレに入り、またすぐに出てきた。 「ここでもない。」 「だから、何なんだよ!?」
訳が分からず叫ぶ悠理。その頭を、ぽんぽんと軽く撫でてから、清四郎はまた歩き出した。
長い渡り廊下を越え、またトイレが現れる。
清四郎は、迷わず中に入っていく。 三度目にもなると、悠理もすっかり慣れてしまい、堂々と男子トイレへ入った。 「で、何をしたいんだよ?」
悠理の質問が聞こえなかったのか、清四郎は、無言で壁際まで進み、窓に触った。 「ここだ。」
喜色を滲ませた呟きに、悠理も何ごとかと窓に駆け寄る。 「見てみろ。」 清四郎は、窓の錠に人差し指を当てた。
錠そのものが緩くなっており、軽く押しただけで、かちゃかちゃと左右に揺れる。 「元々、建てつけが悪かったんだ。窓枠にも隙間ができている。」
悠理が窓に顔を押しつけるようにして確かめると、二枚の窓枠の間には、5ミリほどの空間ができていた。
清四郎が窓を開ける。
窓の先には、鬱蒼とした松原が広がっていた。
「ここなら人目につかず、ホテルに出入りできる。出た後で、誰かが鍵を閉めたとしても、この壊れかけた鍵くらい、マイナスドライバーが一本あれば、外からでも簡単に開けられますよ。」
「でも、アリバイはどうするんだよ?あいつら、ケン兄ちゃんが死んだ時刻には、ホテルにいたんだろ?」
簡単ですよ、と、答えながら、清四郎は窓を閉めた。
「あらかじめ健司さんをここの近辺に呼び出しておき、この広い松原のどこかで、睡眠導入剤入りの酒を飲ませれば、大した移動もなくて済みます。」
睡眠薬は、処方箋なしでは手に入れられない。睡眠導入剤を使ったのは、市販薬のほうが足もつきにくいと考えての行動であろう。
清四郎は、咽喉仏に言葉を溜め込むように、一時、躊躇してから、言葉を続けた。
「おそらくは、脅して酒を飲ませたのでしょう。そして、彼らは・・・健司さんが酩酊したのを見計らってから、命を、奪ったのですよ。」
悠理の気持ちを慮ってか、清四郎は、殺す、という言葉を使わなかった。 それでも、悠理は辛そうに顔を歪めて、眼を伏せた。
「・・・じゃあ、ケン兄ちゃんは、ここの海に投げ込まれて殺されたのか?」
「人間の命を奪うのには、洗面器一杯の水があれば充分だ。おそらく、犯行は真っ暗な松原の中で行われたはずです。あとは、健司さんから携帯電話を奪い、遺体を車に隠して、トイレの窓からホテルに戻る。予め、ルームサービスが届く時間を指定しておけば、安心して行動もできます。」
話し声が近づいてきたので、ふたりはトイレを出て、ロビーに向かった。
「ルームサービスが届いた直後、健司さんの携帯から美晴さんにメールを出し、ふたたびトイレから密かに外へ出る。このホテルは、フロントに常時三人は待機していますし、ロビーには絶えず客がいる。誰にも気づかれずに玄関から出入りするのは不可能です。しかし、逆に言えば、玄関から出入りしなければ、ずっとホテルにいたこととなります。無事にホテルを抜け出した二人は、二台の車に分乗して、あの断崖に向かい、健司さんの遺体を投げ落として、自殺に見せかけた工作をしたんですよ。」
「二台の車?」 「健司さんの車だけだと、帰りに困りますからね。」 このホテルから、あの断崖まで、車を飛ばせば30分もかからないだろう。
宮乃松父子にとって、危ない橋だったが、渡る価値はあった。
「日本企業の九割が、同族経営です。つまり、番頭がいくら業績を上げようが、主人にはなれない仕組みなんですよ。」
清四郎が、複雑そうな顔で、呟いた。
悠理には、彼の言いたいことがよく分からなかったけれど、何かに対して酷く怒っているのは、おぼろげながら理解できた。
ふたたび天吹家に集結した一行は、収穫をそれぞれ報告し合った。
「美晴さんに紹介してもらった、秘書室のチーフって人、本当によく喋ってくれたわ。」
可憐はそう言うと、隣にいた野梨子と顔を見合わせて、苦笑した。
「本当に。よほど鬱憤が溜まっていらっしゃったのでしょうね。お陰で一気に天吹グループ通になってしまいましたわ。」
二人が聞いた話によると、健司は若いながらも懸命にやっていて、うるさ型の役員連中も、将来を楽しみにしていたようだ。
「でも、お祖父さんとお父さんが相次いで亡くなって、急に後を継ぐことになったから、やっぱり反対意見もかなりあったみたいね。何しろ、健司さんは三十歳を少し過ぎたばかりでしょ?宮乃松忠助を会長にして、健司さんが一人前になるのを待つべきだって言う人たちが、なかなか引かなくて、ずいぶんと揉めたらしいわ。」
「でも、天吹本家の血筋は、健司さんしかいないし、いくら宮乃松家が先祖代々、天吹家発展に尽くしてきたといっても、所詮は奉公人だという理由で、反対派の意見は一蹴されてしまったそうですの。」
「それが尾を引いて、今も会社は真っ二つ、って、あのひと、ずっと愚痴っていたわ。」
可憐は肩にかたかる髪を煩そうに払い除け、男が根に持つとしつこいのよね、と溜息混じりに呟いた。
野梨子がさらに説明を続ける。
「宮乃松さん父子は、利益のためなら強引に物事を進める性格らしくて、評価は賛否両論だそうですの。友春さんが、ゆりさんと結婚したのも、天吹家と縁戚関係を結びたかったからではないかと噂する人も多いそうですわ。」
確かに、あの父子が考えそうなことである。
「でも、実際のところは、友春って息子、ゆりさんにベタ惚れらしいわ。結婚式のときも、感極まって、ひとりで泣いていたらしいし。」
「あの男が自分の結婚式で泣いたのかよ!?」 魅録が驚きに身を乗り出し、はああ、と大袈裟に息を吐いた。
まあ、惚れているからこそ、ゆりの事故が黒猫のせいだと聞いて、天吹家で暴れたのだろう。そう思えば、多少は許せる気分になった。
美童のほうも、大きな収穫があったらしい。
「クラブ幸姫にはさ、忠助お気に入りの、アキコちゃんっていう娘がいたんだけど、そのアキコちゃん、店を辞めていてさ。だから、アキコちゃんと仲が良かったっていうショーちゃんのご機嫌を取って、何とか連絡を取ってもらって・・・」
「前置きは良いから、本題をお願いします。」 清四郎にぴしゃりと言われ、美童はくちびるを尖らせた。 「ここからが良いところなのに。」
「発表の基本は、まず結果から。状況説明はそのあとに、必要に応じてというのが、常識ですよ。」
美童は、ムッとしながらも、皆が発する催促の雰囲気に圧され、話し出した。
「聞いて驚くなよ。健司さんが大損を出した、先物取引。実は、それを勧めたのは、宮乃松忠助なんだってさ。」
ホステスのアキコは、忠助が健司に対して、熱心に先物取引を勧めていたのを、しっかり覚えていた。
先物取引にはハイリスクが伴うが、成功すれば、そのぶん、莫大な富が得られる。
忠助は、ハイリターンの部分だけ強調して喋っていたそうで、ハイリスクについては、ほとんど説明をしていなかったという。
最初は興味もなさそうだった健司も、忠助の熱弁に感化され、最後はずいぶんと乗り気になっていたそうだ。
アキコは、いかにもお坊ちゃま育ちで騙されやすそうな健司に不安を感じたものの、口を挟んでお得意様の忠助を怒らせるわけにもいかず、内心はハラハラしながらも、黙って話を聞いていた、と語った。
それが、健司が会長の座についた直後の話。 「つまり、すべては仕組まれていたって訳か。」 魅録が忌々しげに言い捨てた。
最後に、清四郎がホテルで調べてきたことを説明して、全員の話が終わった。 すべてを聞き終えると、皆は、重々しい溜息を吐いた。
「僕の話はあくまで仮定だし、皆が集めてきた情報だけでは、いくらでも言い逃れできます。どうにかして、決定的な証拠を掴まなければ。」
「一芝居打ったにしても、追いつめるまではいきませんわね。」 すごい勢いで思考を巡らせているのか、野梨子の顔が、能面よりも無表情になった。
囲碁を打つときも、野梨子はよくこんな顔をする。全神経が思考に集中して、表情筋にまで気が回らないのだ。
そんな野梨子を見て、清四郎が沈鬱そうに眉を顰めた。
「野梨子。」 「何ですの?」
「僕たちより前に、一芝居打っている人がいます。」
「・・・え?」
野梨子だけでなく、その場にいた全員が、弾かれたように清四郎を見た。
「今回の事件を、肥前鍋島の猫化け騒動になぞらえて―― 宮乃松父子の犯罪を告発している人が、すでにいるんですよ。」
ちり、と闇の中で、鈴が鳴った。
少し遅れて、ふたつの眼が、ぎらりと光る。
その眼に向かって、真っ白な影が、ゆっくりと歩んでいく。 白い腕が、風に靡く薄のように、ふわりと動き、闇の中で光る眼に差し伸べられた。
「おいで。」 闇が蠢き、鈴の音とともに、空気が微かに震えた。
白い影は、腕の中に納まった、真っ黒な闇に頬ずりした。
「クロ・・・もう良いわよね?懺悔の猶予は、たっぷり与えてあげたんですもの。」 にゃあ、と、闇が答えた。
家から何者かが出てくる音がして、白い影は、緩慢な動作で振り返った。 腕の中から、闇が飛び降りる。
白い影は、軽く腕を払い、闇の痕跡を消すと、玄関に向かって歩き出した。
玄関の前には、若い男が立っていた。
男は、白い影を認めると、気遣わしげな表情で、微笑んだ。
「ゆり。」
男が、白い影の名を呼んだ。
白い影は、男に向かって、艶然と微笑みかけた。
白い影の背後では、まるで彼女を見守るかのように、ふたつの眼が、闇の中で黄金色に輝いていた。
|