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昨夜は全員で天吹家に泊まった一行が、翌朝、美晴に作ってもらった朝食を有難く頂いていると、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「やだ。こんな朝っぱらから事故でもあったのかしら?」 可憐が顔を顰めて言う。朝っぱらといっても、時刻はすでに十時を回っていたが。
「長閑なところのほうが、車も飛ばしやすいからな。人口密度の比率から計算したら、都会より田舎のほうが、死亡事故も多くなるんじゃねえか?」
魅録の台詞を聞いて、トーストを齧っていた美童が、鼻の頭に皺を寄せた。
「ちょっとさぁ、朝食を食べているときに、物騒な話題は止めようよ。せっかくの御飯が不味くなるじゃないか。」
「物騒な話題って、美童の運転技術からしてみれば、他人事じゃないだろ?」
「そりゃあドライビングテクニックに関しては、僕と魅録じゃ比べ物にはならないけどさ。」 魅録にからかわれ、美童が不貞腐れる。
「お前と魅録の運転技術を比べるほうがおかしいだろ。運転が下手なのはしようがないからさ、せめて安全運転しろよな。」
悠理が箸を咥えたまま、美童をせせら笑う。 そこに、品よく箸を口に運んでいた野梨子が、切れ味鋭い毒舌で参入した。
「悠理、違いますわ。美童の運転技術は、安全運転を心がける以前の問題ですもの。」 「お前ら、二度と僕の車には乗せないからな!」
そんな話をしているうちにも、サイレンはどんどん近づいてくる。 まるで、この家を目指しているようだ。 「まさか・・・」
清四郎の呟きは、サイレンに掻き消された。
パトカーは、天吹家の前に停車した。
「天吹美晴さん。署までご同行願えますか?」
ドラマに出てくるような二人連れの刑事の登場に、全員が、呆気に取られた。
刑事が美晴の背に手を回し、連れ出そうとしたところで、魅録がはっと我に返った。
「おっと。逮捕状を見せないってことは、任意同行なんだろ?本人の意思確認もせずに連れて行くのは、違法じゃねえのか?」
魅録の言葉を聞いて、若い刑事が美晴の背から手を離した。
「何があったかは知らないが、美晴さんが罪を犯せるような人じゃないってことは、俺が証明するぜ。」 その台詞に、今度は初老の刑事が振り返る。
刑事が、魅録を射殺しそうな眼で見ているのに気づいた野梨子が、前に進み出た。
「私たちに不審を抱いていらっしゃるなら、どうぞ警視庁に問い合わせてください。そろそろ彼のお父さまも、出勤されているでしょうから。」 「警視庁?」
「ええ。彼のお父さまは、警視庁にお勤めですから。」 「鬼の時宗という仇名くらい、所轄の方々も聞いたことがありませんか?」
野梨子の後ろで、清四郎が薄く笑う。 「鬼の・・・時宗・・・」 刑事の顔から、血の気が引いた。
クーデターを企むテロリストの人質になったり、たびたび爆発事件に巻き込まれたり、ローマ法王を暗殺しようとしたプロのスナイパーと素手で格闘したり、ありとあらゆる危機に晒されながらも、必ず生還してみせる警視総監の名は、もはや伝説であった。
その、伝説の男の息子が目の前にいるのだから、刑事たちに驚くなというほうが無理なのだ。
たとえ、それが魅録にとって、とんでもなく迷惑なことであっても。
「何なら時宗のおっちゃんを、うちのジェット機に乗っけて、ここまで連れてこようか?刑事さんも一度は会ってみたいだろ?」
あっけらかんと悠理が言う。 その、とんでもない発言に、刑事たちは目を剥いた。
「あら、悠理のところの自家用機は、今、おじさんが使っているんじゃなかった?」
「あ、そっか。父ちゃん、アラブの王様のところからまだ帰ってきてなかったっけ。」 刑事たちは、あんぐりと口を開けたまま固まった。
そこに、清四郎が、爽やかながらも腹黒そうな微笑を浮かべて、二人に話しかける。
「僕たち民間人には、警察に協力する義務がありますから、喜んで何でもお話しますよ。でも、刑事さんが何も教えてくれなければ、協力したくとも、何をお話して良いかさえ分かりません。せめて、何があったかくらい、聞かせてもらえませんか?」
勝負は、戦う前から、すでに決まっていた。
「今朝、宮乃松友春の他殺体が、有明海の干潟で発見されました。」
「えっ!?」
あまりの衝撃に、全員が、椅子から腰を浮かしかけた。
皆の衝撃を他所に、刑事は淡々と説明を続けている。
「死亡推定時刻は、本日の午前一時から三時。死因は溺死ですが、襟足にスタンガンの痕らしき火傷がありました。おそらく犯人は、背後からスタンガンで宮乃松友春に襲い掛かり、身体の自由を奪ったところで、満潮の海に落としたのだと思われます。」
幸いにも、その時刻まで、美晴を含む全員が起きていた。もちろん外出はしていない。
普通なら、それでも怪しまれるだろうが、鬼の時宗の息子や、剣菱財閥令嬢という肩書きが大きな威力を発揮したのと、やけに弁が立つ清四郎が交渉をしたお陰で、美晴も勾留されずに済んだ。皆がいなければ、そのまま警察に連れて行かれただろう。
友春の死体は、日中でもひと気のない郊外の、海の干潟の上で発見された。 うつ伏せになり、泥に顔を埋めるようにして死んでいたという。
死体があった干潟の近く、砂利が敷き詰められた空き地に、友春の車が放置してあった。
車の鍵は、友春のズボンのポケットにあった。現金が入ったセカンドバッグは、車の助手席に、手つかずの状態で残っていたそうだ。
現場の状況からして、強盗目的や、発作的な犯行とは考えにくかった。
怨恨による殺人として捜査を開始して間もなく、警察は、宮乃松家に対して度重なる嫌がらせがあったのを知った。
それで、まず疑ったのが、天吹美晴だったのだ。
天吹家のリビングで、清四郎が暗澹たる面持ちで溜息を吐いた。
「・・・刑事の口調からして、美晴さんが怪しいと訴えた人物がいるのでしょう。」
「どうせ番頭がチクったに決まっている!畜生!一発殴ってやらないと気が済まない!」 息をまく悠理を横目で見て、清四郎は、首を横に振った。
「忠助さんが、美晴さんが怪しいと、警察に訴えるはずはありません。嫌がらせの理由を聞かれて困るのは、他の誰でもない、彼ですからね。」
「まさか、主を殺して下克上を達成させたなんて、言えるはずもありませんわよね。」
清四郎や野梨子が言うように、嫌がらせをしているのが美晴だと言い張れば、その訳を話さざるを得ない。藪を突いて蛇を出すのは、不本意であろう。
「じゃあ、いったい誰が美晴さんのことを警察に伝えたんだよ?」 魅録が苛立ちを含んだ声で質問する。
清四郎は、組んだ指に額を乗せ、くぐもった声で、答えた。
「ゆりさんですよ。」
「・・・え?」
驚く皆を見もせずに、清四郎は話を続けた。 「昨日、僕が、宮乃松父子の犯罪を告発している人物がいると話したのを、覚えていますか?」
皆、いっせいに頷く。 「あれは、ゆりさんのことです。」 「な・・・」 可憐のくちびるが、もの言いたげに戦慄いた。
清四郎は、俯いたまま、さらに話を続ける。
「ゆりさんが、今回の事件を鍋島猫化け騒動になぞらえて、宮乃松父子の犯罪を無言のうちに告発していたのですよ。」 「何だよ、それ?」
美童が碧眼を訝しげに細めて尋ねた。 それに答えたのは、清四郎ではなく、野梨子だった。
「佐賀を舞台にした戯作ですわ。家臣が主君から地位を奪い、その二代のち、主君に成り代わった家臣の子孫が、ふとしたことで、主君の子孫を殺してしまうんです。その一部始終を見ていた主君の子孫の飼い猫が、物の怪となって、家臣の子孫の妻に憑依し、さまざまな怪異を起こす―― という話です。」
家臣が主君の地位を奪う。家臣の子孫が主君の子孫を殺す。 主君の飼い猫が、物の怪に変化し、家臣の妻に憑依して怪異を起こす。
否応なしに、今回の事件を思い起こさせた。
「ゆりさんは、健司さんの飼い猫であるクロが、怪異を起こしているように見せかけていたんです。よく考えてみてください。毎朝、玄関先に置かれていた鼠の死骸も、書斎の小火も、ゆりさんが犯人だと考えれば、簡単に解決できるんです。夜毎、聞こえる猫の鳴き声も、あらかじめ録音していた音源を再生すれば、それで済む。ゆりさんが起こした交通事故も、本人は大した怪我も負っていない。飛び出した黒猫を避けようとしたという、事故の原因も、ゆりさんの自己申告だけなんですよ。」
「つまり―― ゆりさんは、宮乃松父子の犯罪を、世に知らしめたかった、って訳なの?」 可憐が身を乗り出して質問した。
「世に知らしめたいなら、警察に行ったほうが早く済むぜ。」 間髪置かず、魅録が反対意見を言う。
確かに、罪を告発したいのならば、警察に訴えたほうが、手っ取り早いだろう。 だが、ゆりは、そうしなかった。 なぜ。どうして。
堂々巡りの疑問が、胸中に渦巻いた。
「化け猫は―― 」
沈黙を破るかのように、悠理が呟いた。
「化け猫は、どうして飼い主を殺した家臣じゃなくて、奥さんに憑いたんだろう?」
「どうして、って―― 」
清四郎が顔を上げ、眼を見開いて、虚空を見つめた。
「本人よりも、本人が大事に想う人間に憑依したほうが、ダメージを受けやすいから。つまりは・・・愛する人が痛みを受けるほうが―― 悔恨、しやすいから。」
話しながら、考えがまとまっていく。 まさに、そんな感じだった。
「・・・化け猫は、犯人が罪を悔い、懺悔するのを待っていたんだ・・・」
化け猫―― つまり、ゆりは。
宮乃松父子が、みずから罪を打ち明けるのを待っていた。
「じゃあ・・・」 魅録が呻いた。
「いくら待っても、犯人が悔い改めない場合は、どうなるんだ?」
その場は、水を打ったように静まり返った。
沈黙を破ったのは、美童だった。 「だからって、人殺しまでするのか!?そんなのおかしいじゃないか!」
立ち上がり、大袈裟に両腕を広げる。
「いくら兄妹同然に育ってきた幼馴染だからって、復讐のために人が殺せる!?ねえ野梨子!清四郎が殺されたからって、相手を殺すような真似はしないだろ!?」
いきなり話を振られ、野梨子はたじろぎながらも、凛と答えた。 「・・・私なら、相手がどんなに憎くても、公正な法の裁きを望みますわ。」
それを聞き、美童はさらに勢いづいた。
「普通はそうだろ!?家族や恋人が殺されたって、復讐なんかしないものだよ!ましてや殺されたのが幼馴染なら、いくら憎くても、報復なんかしないさ。それも、自分の夫を!」
そう。 もしも、ゆりが友春を殺したのならば、彼女は自分の夫を手にかけたことになるのだ。
清四郎は、美童を見て、哀しげに首を横に振った。
「動機はともかく、ゆりさんが友春さんを殺したと考えるのが、一番しっくりとくるんですよ。友春さんは、ひと気のない深夜の海辺で、後ろからスタンガンで襲われた。つまりは、相手をまったく警戒していなかったということです。相手が美晴さんだったとしたら、いくら非力な女であっても、友春さんもそれなりの警戒をするはずですし、ましてや無防備な背中を見せはしないでしょう。」
美童は反論したかったようだが、言葉が見つかずに、うっと詰まってしまった。
清四郎は、テーブルに視線を落とし、低い声で、こう締めくくった。
「友春さんは、信頼し切っていた相手に、不意打ちで襲われ、殺されたんですよ。」
「そんなことあるもんか!!」
爆発したかのように、悠理が叫んだ。
「ゆりちゃんが人殺しなんか出来るもんか!清四郎は知らないだろうけど、ゆりちゃんは、とっても優しくて、とっても可愛くて、とっても思いやりがあって・・・クロだってケン兄ちゃんと同じくらい、ゆりちゃんに懐いていたんだぞ!人殺しするような人に、クロが懐くもんか!ゆりちゃんは、絶対に人殺しなんかしていない!!」
可憐も悠理に追随して、清四郎に反論した。
「そうよ!あんなに細くて弱々しそうな人が、旦那さんを殺せるはずないわ!あの男、すごい乱暴者だったけど、奥さんにはベタ惚れだったんでしょ?それに、あのふたりは新婚じゃない!今がいちばん幸せな時期よ?何より、あの男を殺したって、何の得にもならないわ!」
「可憐の言うとおりですわ。」 野梨子もふたりの肩を持った。
「自分の旦那さんが殺されたなら、復讐に走るかもしれませんが、今回は逆ですもの。いくら幼馴染とはいえ、他人の夫が殺されたからといって、自分の夫を殺して復讐するなんて、理に適っていませんわ。」
「あっ。」 清四郎が、弾かれたように顔を上げた。
「アルバム―― 」 「え?」
「ゆりさんのアルバムには、健司さんの写真がたくさん貼られていました。」 「そりゃそうでしょ。幼馴染なんだから。」
「確かにそうです。でも、写真に・・・白い服を着て、野の花を持ったゆりさんが、健司さんに寄り添っている姿が、何枚もありました。ほとんどが小さい頃の写真でしたが・・・もしかして、あれは・・・」
「・・・花嫁、姿・・・?」
そこで、それまで黙って話を聞いていた美晴が、震える声で皆に言った。
「健司さんに聞いたことがあるわ。ゆりさんは、小さい頃、ずっと健司さんのお嫁さんになるんだって言い張っていたって。それに、ゆりさんは男の人が苦手だって言って、誰とも交際しようとしなかったそうなの。だから健司さん、ゆりさんと友春さんとの結婚が決まったとき、本当に安心したって・・・」
「まさか・・・」
皆の顔から、いっせいに血の気が引いた。
ゆりが、幼い頃から健司だけを想いつづけていたとしたら。 報われない想いを断ち切るために、友春と結婚したとしたら。
その結婚相手が、ずっと想いつづけていた健司を、己が欲望を満たすために、手にかけたとしたら。
「急ごう。」
清四郎が立ち上がった。
「おそらく、ゆりさんは、捕まることを恐れていない。もしかしたら、死さえ厭うていないかもしれません。ならば、警察から追いつめられる前に、成すべきことをするはずだ。」
「成すべきことって・・・?」 美童の問いに、魅録が立ち上がりながら答えた。
「もう一人の犯人に、復讐をするのさ。」
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