猫怪談

   作 hachi様  

 

 

                                                                               

 

 


 

-7-


宮乃松家には、沈鬱な空気が充満していた。
何者かに息子を殺された忠助は、居間のソファに身を預けたまま微動だにせず、また、ゆりも体調不良を訴えて、部屋に閉じ篭っていた。
ふたりが早々に警察から戻ってこられたのも、ゆりがショックのあまり錯乱状態に陥ったからだった。
ゆりが、署内じゅうに響く声で、クロが、クロが、と叫ぶ姿は、鬼気迫っており、猛者揃いの警察官たちも、たじろいだほどだった。

忠助は、ソファに身を沈めたまま、頭を掻き毟った。
「くそっ!」
健司を殺してまで天吹グループ会長の座を手に入れたかったのは、ひとえに、友春のためだった。
忠助の父も、祖父も、天吹家に仕えるだけで一生を終えた。才覚がありながらも、それを開花させることなく、天吹家の番頭として終わってしまったのだ。

剣菱財閥の令嬢が、忠助を「番頭」と呼んだときの屈辱が、胸中に甦る。
忠助は、そんな想いを、息子だけにはさせたくなかった。

そんな感情が、長年にわたって宮乃松家をこき使ってきた、天吹一族への恨みと渾然一体になり、殺意にまで発展したのだ。


世間知らずの健司を罠にかけるのは、簡単だった。
健司は何も分からぬまま、父の跡を継いで会長の座についた。周囲の人間が、健司を軽んじるのは、子供でも分かる道理だった。
健司は焦っていた。どうにかして皆に認められたいと願っていた。
だから、忠助は、巨額の利益が出ると言葉巧みに健司を誘い、ハイリスクの先物取引に手をつけさせたのだ。

予想どおり、先物取引は失敗し、健司は巨額の損失を出した。
健司は、何とかして元金だけでも取り戻そうとした。だが、損失額は、坂を転がる雪玉のように増えていき、最後はどうしようもないほどの額にまで膨らんでいた。
手の施しようがないところまできて、忠助は、ふたたび健司に甘い言葉をかけた。
そして、硬く口止めをして、夜の松原に呼び出した。
忠助は、真っ暗な松原の奥で、息子とふたりで健司を脅し、首にナイフを突きつけて、睡眠導入剤入りのウィスキーを飲ませて泥酔させたあと、予め用意していた海水に顔を押しつけて、彼を殺害した。
その後、いったんホテルに戻り、アリバイを作って、健司の遺体を断崖まで運び、自殺に見せかけて海から投げ落とした。

すべては、うまくいったはずだった。

だが――― 


夜な夜な聞こえる猫の鳴き声。健司の初七日に起こった小火騒ぎ。朝になると玄関にばら撒かれている鼠の死骸。
息子の嫁は事故に遭い、挙句は、息子が何者かの手にかかり、殺されてしまった。

錯覚などではない。誰かが忠助に復讐をしているのだ。
主である健司を殺し、身代のすべてを奪った忠助に、復讐をしているのだ。

それは。
その相手は。

健司の怨念によって、物の怪と化した、クロなのか。


かたり。

廊下で物音がし、忠助は怯えた小動物のように、首を竦めながら振り返った。
「お義父さま、お休みにならないのですか?」
そこには、二階で休んでいた息子の嫁、ゆりが、力ない様子で立っていた。

忠助は、ふたたび前を向いて、深く俯いた。
「休める気分じゃないんだよ。」
「お義父さまも辛いのですね。もし良かったら、この間、病院で処方してもらった精神安定剤を飲みませんか?少しは落ち着くんじゃありません?」
「ああ、そうだな・・・」
忠助が答えると、ゆりは、いったん居間を出てから、薬と水を持って戻ってきた。
「どうぞ。」
目の前に置かれた薬を、忠助は、何の躊躇いもなく飲んでから、ふう、と深い溜息を吐いた。

ゆりは、黙ったまま、じっと忠助の前に立っている。
忠助は怪訝に思い、顔を上げて、ゆりを見た。
ゆりは、漆黒の服をまとい、雪よりも白い顔で、忠助を見下ろしていた。
「どうしたんだね?」
忠助が問うと、ゆりは、漆黒のワンピースの裾をふわりと翻して、忠助の前に座った。
大きな瞳には、哀しみも、苦しみも、浮かんでいない。
ただ、ガラス玉のような、無機質な輝きが、満ちているだけだった。

その瞳を見ていたら、何故か、忠助の身体に、たとえようもなく不気味な悪寒が走った。

忠助は右手で左腕を摩り、悪寒を拭い去ろうとした。
その様子を、ゆりは何も言わず、じっと見つめている。
見つめられているだけなのに、息苦しさを感じ、忠助は慌てて彼女に話しかけた。
「これからどうするつもりだい?実家に帰るのか?」
ゆりは、ふっと瞼を伏せ、答えた。
「実家といっても、父や母もとっくの昔に亡くなっていますし、頼るべき兄弟もいません。私にとっての実家は、天吹の家でしたけれど、そこも、健司さんが死んでしまって、帰られる場所ではなくなってしまいました。」
ガラスの瞳が、ふたたび忠助を捉えた。
「お義父さまこそ、これからどうなさるつもりです?」
「わ、私は・・・」
無機質な瞳に見つめられ、忠助は、知らずのうちに気圧されていた。
「今は、友春のことしか考えられないが、天吹グループのことを考えると、そうも嘆いてはいられないからな。会長として、会社が混乱しないよう、尽力を―― 」
そこまで話したとき、身体の芯が、揺らぐのを感じた。
ゆりは、変わらず、無機質な瞳を、忠助に向けている。
「・・・この期に及んでも、まだ天吹グループに拘るのですね。」
ガラスの瞳の奥に、黄金色の炎が燃え上がった。
反射的に、忠助の肌が粟立った。

窓は締め切っているのに、何故か、ゆりの髪が、風に揺らいだ。
髪を煽られながら、ゆりが、薄く微笑む。
「ねえ、お義父さま。鍋島の猫化け騒動の話はご存知かしら?」
「あ、ああ・・・も、ち、ろん・・・」
呂律が回らない。腕に力が入らない。
ゆりはガラスの瞳を忠助に向け、薄く微笑んでいる。
「私、いつも思っていました。どうして罪を犯した藩主が断罪されず、主の無念を晴らそうとした猫が、成敗されなくてはならないのかと。」

やけに咽喉が渇いた。
忠助は、薬を飲んだ残りの水を飲もうと、グラスに手を伸ばした。
だが、伸ばした手に力が入らず、グラスを取り損ねた。
がちゃん、と派手な音がして、グラスが倒れ、零れた水がテーブルに広がった。
だが、ゆりはテーブルに広がる水には目もくれず、淡々と喋り続けている。

「愛するひとを殺した犯人は、罪を悔い改めることなく、のうのうと生きている。化け猫にとって、それがどれほど苦しくて、どれほど哀しいことか、お義父さまには想像がつきますか?愛するひとには、何の罪もないのに、犯人の都合だけで殺されなければならなかったならば、苦しみも、哀しみも、余計に深くなる。それが、分かりますか?」

おかしい。
脳裏に、先ほど飲んだ、薬のことが過ぎる。
だが、忠助が気づいたときには、すでに手遅れだった。

ゆりは、能面のように白い顔で、忠助を見つめている。

「ま、まさか・・・」

忠助の呻きを消すように、窓の外で、猫が鳴いた。



ゆりが、ゆっくりと立ち上がった。
俯いた顔は、すっかり黒髪に覆われている。
だが、ソファに座ったままの忠助には、髪の奥に見え隠れする、ゆりの瞳が見えていた。

「ひいっ!!」

忠助は、声にならない悲鳴を上げて、ソファからずり落ちた。


黒髪の陰で光る、ゆりの瞳は、猫のような、黄金色に輝いていた。



「た、た、たすけ・・・」
忠助は、四肢を必死に動かして、ゆりから逃れようとしている。
だが、身体が痺れるのか、いくら逃げようとしても、まったく動けない。
ゆりは、そんな忠助を、黄金色に光る瞳でじっと見下ろしていた。

「・・・命乞いをするの?お前が健司さんを殺したときには、命乞いも許さなかっただろうに・・・」

ゆりの足が、絨毯を踏み、忠助に近づく。
「ひいっ!ひぃぃぃーっ!!」
忠助は、痺れる手足を必死に動かしながら、掠れた悲鳴を上げた。

ゆりが、手を伸ばして、忠助の襟を掴む。
「ひぃぃぃぃぃっ!!」
身を縮めて抵抗する忠助の首に手を回し、襟足に尖った爪を立てる。


そして、ゆりは、この世のものとは思えぬ壮絶な形相に、真っ白い顔を歪めた。


「懺悔は、息子と一緒に、あの世でするが良い!!」

叫び終わらぬうちに、ゆりは、忠助の咽喉笛に喰らいついていた。



長い牙が喰い込み、忠助の咽喉から、ぱあっ、と血飛沫が上がった。

 

 

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