猫怪談

   作 hachi様  

 

 

                                                                               

 

 


-8-


「畜生!」
宮乃松家の玄関先で、魅録が忌々しげに呟く。
幾度チャイムを押しても、反応はない。
しかし、忠助のものらしきベンツはカーポートにちゃんとあるし、友春が亡くなったというのに、ふたりが揃って出かけているとは考えられなかった。


痺れを切らした一行は、玄関から裏手に回った。

庭に足を踏み入れた、そのとき、生ぬるい風が吹き抜け、鬱蒼と茂る木々をざあっと揺らした。

風に煽られたかのように、悠理がよろめき、足を止める。
「悠理?」
隣にいた野梨子もつられて立ち止まる。
そして、何気なく悠理の顔を覗き込んで、はっと息を呑んだ。

悠理の顔は真っ青に褪めており、血の気の失せたくちびるは、細かく戦慄いていた。

「悠理!どうしましたの!?」
驚いた野梨子が悠理の肩を抱く。
悠理は、瘧のようにがたがたと震えている。
皆も悠理の異変に気づき、近寄ってきた。
しかし、悠理は、皆に眼もくれようとせず、宮乃松家の窓をひたすらに凝視している。

「ゆりちゃんっ!!」
突然、悠理が叫び、窓に突進する。
「悠理っ!」
本能のままに突進する悠理を追って、清四郎も駆け出した。


悠理が一枚の窓に飛びつく。
窓は、分厚いカーテンに覆われていて、室内の様子をうかがい知ることはできない。
「ゆりちゃん!ゆりちゃんっ!!」
蒼白になった悠理が、狂ったように叫ぶ。
それを聞いて、清四郎が叫んだ。
「悠理っ!離れていろっ!!」
清四郎は、悠理の肩を掴んで、無理矢理に窓から引き剥がした。

悠理を退かせ、窓の前で型を取る。
そして、鋭い気合の声とともに、ガラス窓に強烈な蹴りを入れた。

甲高い音とともにガラスが散り、細かい欠片が、雨のように清四郎の上へ降り注いだ。


清四郎は、身体についたガラス片も払わずに、ガラスの割れた窓枠に手を突っ込み、鍵と下部のストッパーを開錠した。
窓を開け放ち、分厚いカーテンを、千切れんばかりの勢いで掴む。

カーテンを開けた途端に、濃厚な血の匂いが、鼻腔を刺激した。


「ゆりさんっ!!」

一行は、室内にいる、ゆりを見て、息を呑んだ。


ゆりは、床に横たわった忠助に圧し掛かり、その口元を真っ赤な鮮血で染めていた。





凄まじい光景を目の当たりにして、可憐と野梨子が同時に悲鳴を上げた。

ゆりに組み敷かれた忠助は、咽喉から大量の血を流し、ぐったりとしたまま、ぴくりとも動かない。

「止めろっ!!」
魅録が叫びながら室内に飛び込み、ゆりに体当たりした。
華奢なゆりが、魅録を受け止められるはずもなく、彼女は部屋の隅まで吹っ飛んだ。
ゆりの激突したスタンドランプが半ばで折れ、落下したガラス製のシェードが粉々に砕ける。
それを見て、今度は可憐や野梨子だけでなく、悠理も悲鳴を上げた。

魅録が忠助を助け起こす。
「おいっ!あんた!!」
魅録の呼びかけに、忠助はうっすらと眼を開けた。
「ああ・・・」
忠助は、掠れた声で呻くと、また眼を閉じた。
「美童!救急車だ!」
それまで呆然と庭に佇んでいた美童だが、名を呼ばれて我に返り、慌ててポケットから携帯電話を取り出した。


「ゆりちゃんっ!」
悠理は、がたがたと震えながら、それでもゆりに駆け寄ろうとした。
しかし、到着する寸前で、ゆりが身を起こし、鮮血に染まった顔を悠理に向けた。
「ひっ!」
ゆりの、すさまじい姿に、悠理の足が止まった。

口から胸元にかけて付着した血と、ざんばらに乱れた黒髪。
顔にかかる黒髪の間から、炯々と光る瞳が覗いている。
肌が白いだけに、真っ赤な血と黒髪のコントラストは鮮烈で、小柄なゆりの姿を、恐ろしいまでに壮絶なものへと変えていた。



清四郎が、服についたガラス片を払いながら、ゆりに近づく。
よろめきながら立ち上がったゆりは、清四郎と対峙した。
「・・・ゆりさん。最後は、化け猫として死ぬ気ですか?」
哀しげな顔で、清四郎が問う。
「自分を化け猫に仕立ててまで―― 宮乃松父子を、糾弾したいのですか?」
しかし、ゆりは何も答えなかった。

「ゆりちゃん!何でだよ!?」
悠理が泣きながら、ゆりに向かって叫んだ。
ゆりは、鮮血で染まった口元を上げて、うっすらと微笑んだ。

「・・・本当に、どうしてこんなことになったのかしらね・・・?」

大粒の涙を零す悠理の肩を、清四郎が、そっと抱いた。
「ゆりさん。今ならまだ間に合います。自首してください。そうすれば、忠助さんの罪も暴かれるでしょうし、天吹グループ会長の座も失うことになります。殺さずとも、健司さんの仇が取れるのですよ。」
「おい!ジジイ!大丈夫か!?」
清四郎の背後で、魅録が叫んだ。
どうやら忠助の容態が悪くなったらしい。魅録が、血の気の失せた忠助の頬を叩きながら、必死に声をかけている。

はっとして、清四郎と悠理が後ろを向く。
その隙をついて、ゆりが駆け出した。

「あっ!」
可憐が声を上げて、ゆりを指差す。
清四郎たちがふたたび振り返ったときには、ゆりの姿は廊下に消えていた。



清四郎たちは、慌ててゆりの後を追った。
ゆりは、黒いスカートを翻し、階段を駆け上っている。
清四郎と悠理も、ゆりの後を追って、階段を駆け上がった。

一足先に階段を昇り切ったゆりは、階上の廊下に並べてあったワインボトルを掴み、それを清四郎と悠理に向かって投げつけた。

ボトルは、階段の半ばにいた清四郎の足元で、砕け散った。
その瞬間、強い刺激臭が弾けた。

つんと鼻腔をつく、強烈な臭気。
清四郎は、顔を強張らせて、階上のゆりを見た。
ゆりは、同じようなワインボトルを両手に掲げている。
「逃げろ!ガソリンだ!」
清四郎はそう叫ぶと、悠理の手を掴み、たった今、昇った階段を、逆に駆け下りた。
その背後で、次々とガラスが割れる音がし、ガソリンの刺激臭はさらに濃くなった。


一階に着くと、清四郎は、皆と一緒に、二階に佇むゆりを見上げた。
階段は、砕け散ったワインボトルの欠片と、刺激臭を放つガソリンで覆われている。
いつの間にか、ゆりの手には、ライターが握られていた。
「ゆりちゃん!駄目だ!」
悠理の絶叫が、ガソリンの臭気で充満した空気を震わせた。

ゆりは、ライターを愛しげに撫でながら、階下の悠理に向かって、微笑んだ。
「悠理ちゃん、覚えている?このライター、私が健司さんの二十歳の誕生日にプレゼントしたの。それから、健司さんは、ずっとこのライターを使ってくれていたわ。」
そう言って、ゆりは、予め用意していたであろうポリタンクの蓋を開けて、横倒しにした。
中から、ガソリンらしき液体がこぽこぽと溢れ出るのが、階下からもよく見えた。
「止めろ!」
清四郎が絶叫する。
しかし、ゆりは止めようとしない。一本だけ残ったワインボトルを逆さにして、中身を自分の足元に撒いている。もちろん中身がワインであるはずはなかった。

ゆりは、足元を流れる液体を、ぼんやりと見つめながら、淡々と喋りつづけた。
「このライターを、健司さんが死んだ日に、友春さんの車で見つけたときは、分からなかった。でも・・・あの父子の只ならぬ様子を間近で見ているうちに、分かったわ。健司さんは自殺なんかしていない、ふたりに殺されたんだってことが。」
ガソリンが放つ強い臭気の中にあっても、ゆりの姿は白く、黒く、赤く、どこまでも鮮烈だった。
「罪を悔いて、自首してくれるなら、許そうと思った・・・でも、あのふたりは、悔いるどころか、美晴さんが事実に気づいていると勘違いして、彼女を襲おうと計画していたわ。健司さんから会社を奪い、命を奪っただけでは飽き足らず、健司さんの家族まで手にかけようとするなんて、絶対に許せなかった。」

「・・・ずっと、好きだったんですね。健司さんのことが。」
清四郎の言葉を聞いて、ゆりは微笑んだ。
「ええ、記憶にないくらい昔から、ずっと。」
ゆりは、哀しげに微笑むと、ライターに火を点けた。
気化したガソリンに引火しなかったのは、奇跡に近い偶然だったかもしれない。
「ゆりちゃん!止めて!止めてよ!ゆりちゃんっ!」
悠理が泣きながら叫ぶ。
それを見た、ゆりの眼からも、涙が零れた。
「・・・ごめんね、悠理ちゃん。健司さんが殺されたのは、私のせいなの。天吹の血を引く私が、多少なりとも天吹の後継者の資格を持つ私が、友春さんと結婚なんかしたから・・・健司さんは、殺されてしまったの。」

ゆりの手から、ライターが零れ落ちた。

小さな炎が、茜色の残像を引きながら落ちていく。


「ゆりちゃん!!」

悠理の悲鳴は、音を立てて燃え上がった炎に、掻き消された。



火は、ガソリンを伝い、瞬く間に階段を覆い尽くした。
まるで、巨大な生き物のように、熱い触手を伸ばし、すべてを破壊しようとする。


ゆりは、燃え盛る炎の中で、微笑んでいた。
「ゆりちゃん!ゆりちゃん!ゆりちゃんっ!!」
悠理が狂ったように泣き叫びながら、階上に向かおうとする。
「止めろ!」
その後ろから、清四郎が悠理を羽交い絞めにした。
「離せ!早く助けないと、ゆりちゃんが死んじゃうじゃないか!」
「あの火に飛び込んだら、悠理まで死んでしまいますよ!」
腕の中で号泣しながらもがく悠理を、清四郎は渾身の力で抱きすくめた。

救急車と、パトカーのサイレンが同時に聞こえてきた。
炎は、一階にまで真っ赤な触手を伸ばしている。その熱気は、呼吸も困難なほどだ。
「早く逃げないと、俺たちまで焼け死ぬぞ!」
忠助を抱えた魅録が叫ぶ。
すでに、野梨子と可憐は逃げたようだ。
「悠理!清四郎!早く!!」
美童が煙を吸わぬよう、口元を腕で覆いながら、ふたりを呼んだ。

炎の勢いは増し、すっかり焼けた階段の踏み板が、がらがらと音を立てて崩れ落ちた。
「ゆりちゃん!ゆりちゃん!ゆりちゃんっ!!」
だが、悠理は階下から離れようとせず、必死になって、ゆりの名を呼んでいる。
「悠理っ!」
清四郎は、悠理を羽交い絞めにしたまま、強引に外へ引き摺り出そうとした。
「嫌だ!ゆりちゃん!ゆりちゃん!」
抵抗する悠理の瞳から、大粒の涙が散る。


「行って。」


炎の中で、声がした。

続けて、細くて低い、猫の鳴き声も。


ふたりは、弾かれたように二階を見上げた。

燃え盛る炎の合間から、涙を流しながら微笑むゆりと、その胸に抱かれた黒猫の姿が、垣間見えた。

「・・・クロ・・・」

ごうごうと燃え盛る炎の中でも、悠理の細い呟きが届いたのか、黒猫は、金色に輝く眼を細めて、にゃあ、と一声、低く鳴いて、応えた。


それが、最後だった。

ゆりとクロの姿は、うねる炎の渦に、消えた。



「ゆりちゃん!クロ!」
「悠理!駄目だ!」
炎に向かって手を伸ばす悠理を、清四郎が逆方向へと引き摺る。
悠理は必死にもがいたが、清四郎は、決して手を緩めようとはせず、そのまま屋外まで引き摺り出された。

「悠理・・・大丈夫か?」
崩れ落ちそうになる悠理の身体を、清四郎が支える。
そこで、緊張の糸が切れたのだろう。悠理の瞳から、涙が吹き出した。
「・・・ゆりちゃん・・・クロ・・・」
悠理は激しく嗚咽しながら、清四郎にしがみついて、その逞しい胸に顔を埋めた。



駆けつけた警察官と救急隊員が、皆を取り囲む。
警察官は、無線で消防車の現在位置を確認し、救急隊員は、担架に乗せた忠助を、救急車に運び込んでいる。
騒ぎを聞きつけた近所の住人も集まってきて、その場は一気に騒然とした。



慌しい空気に包まれながら、六人は、ただ、燃え盛る宮乃松邸を見つめていた。


炎の中、健司の思い出を抱いて、幸福そうに微笑むゆりと、クロの幻影を思い浮かべながら。

 

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  photo by hachi