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前編

 

BY 麗様

 

 

 

清潔な、白一色の色彩で纏められた空間。

ベッドの縁に腰掛け、白いバスローブを纏ったあたいは、両腕で自らを抱きしめたまま震えていた。

これから起こる事への不安、そして、ほんの少しの期待。

カチャ、とバスルームのドアが開く。

あたいは俯いたまま、自分を強く抱きしめなおした。

 

ギシ…ベッドがきしむ音。

あたいの隣に腰掛けた男が、そっとあたいの前髪を手で掻き上げる。

あたいは男の顔に目をやり、小さく息を呑んだ。

 

額に落ちた、黒い髪。

濡れたような、黒い瞳。

色白なのに、軟弱な感じを全く与えない精悍な面立ちの中で、仄かに赤い唇が開く。

バスローブの襟元から覗く、逞しい裸の胸。

初めて見た、"男”としての清四郎。

あたいの身体の、女の部分が強く疼いた。

 

―――男にも、色気ってあるんだな。

大きな手のひらがあたいの頬に滑り、ゆっくりと男の顔が近付いてくるのを見つめながら、あたいはそんなことを思っていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

高校、大学を卒業してからも、有閑倶楽部のメンバーとはしょっちゅう会っていた。

相変わらずの馬鹿騒ぎや、時には事件に巻き込まれたりしながらも。

今日も相変わらず皆で、知り合いの店のオープン祝いのパーティに繰り出していた。

夜半を過ぎると、まず野梨子が先に帰ると言い出し、美童が送っていった。

最近付き合い始めた魅録と可憐は、二人でいい感じになってるし。

しょうがないからあたいは清四郎と二人で盛大に盃を重ねていき、いつしか二人で馬鹿みたいに笑いながら、肩を抱き合って夜のしじまをうろつき回っていた。

 

 

きらきら光るネオン。行過ぎる車のライト。

すれ違う、にぎやかな人の群れ。

パーティ帰りの高揚した気分に街の喧騒がどう作用したものか、気付いたらあたい達二人は互いの唇を押し付け合っていた。

歩道のガードレールに腰掛けたあたいの首に、隣に腰掛けた清四郎の腕が回る。

互いに激しく貪りあっていた唇が離れた時、清四郎の瞳に情欲の炎が宿るのが見えた。

 

 

 

 

肩を抱かれて、連れて来られたシティー・ホテルの一室。

先にシャワーを浴び、ベッドの縁に腰掛けて待っていたあたいに、シャワーを浴び終えた清四郎がすぐに口づけてきた。

「ん……」

最初はついばむように軽く、次にあたいの唇を覆うように。

舌を入れられ、絡め取られて、ゆっくりとベッドに押し倒されていく。

「この男、どこでこんなことを覚えたんだろう?」と思うほどに、清四郎のキスは上手くて、あたいの身体は熱くなっていった。

 

 

唇が離れ、あたいがぼうっと目を開けたとき、清四郎がクッと小さく笑った。

「まさか、初めてですか?キスも、男も」

からかうような口調にムッとしてから初めて、自分が呆れる位に強く清四郎のバスローブを握り締めていたことに気付いた。

 

 

「…馬鹿にすんな」

「です、よね?」

清四郎が頷き、あたいの首筋をキスで濡らした。

あたいは目を閉じて頭を反らせ、身体の奥が痺れるような官能に身を任せた。

 

 

清四郎の重みが、あたいの身体にかかる。

バスローブの胸元をぐっと開かれ、露にされた肌に清四郎の視線が痛い。

鎖骨を舌で辿り、肩に軽く歯が立てられた。

「はぁっ!」

胸の先端を唇で包まれただけで、あたいの背が跳ねる。

遊んでいるかのように、ちゅっちゅっと軽く咥えられるだけなのに、あたいの口からは信じられないくらいに甲高い喘ぎ声が漏れた。

 

 

感じる。すごく。

清四郎の愛撫の一つ一つが、あたいの身体の奥にある快楽の泉を掘り起こすかのようだ。

「…ずいぶんと、感じやすいんですね」

薄く笑いながら、わざともっと大きく音を立てて胸を吸われる。

「ああっ!あっ…」

身体を捩って逃げようとするのに、肩を抑えられて身動きが取れない。

清四郎の舌が、ゆっくりと胸の上で円を描く。

「ああ……」

軽く突端を舐められて、あたいは目を閉じて喘いだ。

 

「まだまだ…これからですよ。もっと感じさせてやります」

満足げな男の言葉に、あたいの身体が期待に震えた。

 

 

 

清四郎の愛撫は、執拗だった。

思うさまにあたいの胸を味わうと、舌が脇腹へと流れていく。

うつ伏せにされ、背中の中心を舌で辿られ、あたいは身悶えた。

「ああ…ん」

甘い声が、漏れる。

うっとりと背を反らせると、浮かび上がる背中の筋に沿って清四郎の舌が下へと走る。

「綺麗ですよ、悠理…」

ちゅっ、と腰の窪みにキスをしながら、清四郎が囁く。

そんな言葉が清四郎の口から出るなんて、意外だったから驚いた。

 

 

首を曲げて清四郎の表情を伺う。見たこともない、熱を帯びたような表情。

その表情に見惚れている間に、清四郎の手があたいの足首を掴むと、押し広げるようにして、体勢を変えられた。

「悠理…指と舌と、どちらが好きですか?」

そんな、答えようのないイジワルな質問を投げかけてくるところは相変わらず。

「はぅ…」

答えずにいたら、指で狭間を辿りつつ、舌で刺激される。

1本…2本…差し込まれる指の数が増え、くちゅくちゅと音を立てながら、抜き差しされる。

清四郎の、長い指。

よく、部室で野梨子と碁を打っているときに、綺麗だと思って眺めていたあの指が、今あたいの内側(なか)にある…

 

 

「ああ…ああ…」

波のように絶え間なく訪れる快感に、あたいの身体の奥から痺れが広がる。

押し止めようと思う間もなく、あたいの身体は絶頂を迎えた。

「んっ、んんっ!」

鼻にかかった声を上げ、身体が強張り、そして、脱力。

どくり、とあたいの奥から、おびただしく体液が流れ出すのがわかる。

「ああ、ん…」

溜息と共に、快感の名残を吐き出した。

清四郎の舌がうごめき、それをすべて掬い取る。

ビクッ、ビクッ、と、身体が跳ねる。

イッたばっかりだというのに、素直すぎる身体の反応。

 

 

清四郎が顔をあげ、満足そうに笑んだ。

「そんな顔をして…気持ち良かったですか?悠理」

清四郎の身体が伸び上がり、あたいの首筋に軽く口づけつつ問われる。

さっきから、何でこの男はこんな答えにくい質問ばかりするんだろう?

 

 

あたいは答える気力もないままに、清四郎の頭を抱いて黒い髪を掻き乱した。

シャワーの名残で、まだしっとりと湿っている髪から、シャンプーの香りが立ち上る。

清四郎が、身を起こす。額に落ちた前髪から覗く黒い瞳は、どこか楽しげだ。

あたいの腰の横に膝を立てて馬乗りになったまま、清四郎がバスローブの帯に手をかけた。

すっと肩から落としたローブが、床に放られる。

バスローブを追った視線を戻すと、そこにあるのは、清四郎の剥き出しの肉体。

息を呑むほどに美しい、男の身体。

思わず両手を伸ばし、逞しい胸板に触れ、その手を肩へと滑らせた。

肩から、二の腕へ。筋肉の隆起を辿る。

 

 

「おまえ…すごい」

素直に賛美の言葉が出た。

こんなに綺麗な身体を、今までに見たことがない。

そもそも、男の身体を綺麗だと思うこと自体、考えもしなかった。

二の腕に置いた手を、また肩へと滑らせる。

そのまま、肩から胸板へ。そして、引き締まった腹筋へ。

そこで止めようと思った手を、清四郎が掴んだ。

右手が、清四郎の下腹部へと導かれていく。

恥ずかしさに頬が赤らむのを感じながらも、あたいの手は導かれるままに、視線もその後を追う。

 

 

指が熱いものに触れた。

固く立ち上がった、その存在感。

あたいは視線を上げて、清四郎の顔を見た。

どこか楽しげにさえ見える、清四郎の表情。

「どうですか?今から、これがあなたの中に入るんですよ…」

わかりきったことなのに、口に出して言われ、あたいの顔が一気に赤みを増した。

「やっ!」

恥ずかしくて、顔を横に逸らし、清四郎の手を跳ね除けた。

「いや、じゃないでしょう?」

くすくすと笑いながら、清四郎は、あたいの両膝を掴んで押し広げた。

「ほら、悠理のここは僕を欲しがっていますよ…」

熱い高ぶりが押し当てられ、ゆっくりとあたいの中に入ってきた。

 

 

「はぁっ」

押し入ってくる、存在の大きさにたまらず息を吐き出した。

ぐっ、ぐっと、リズムをつけて押し込まれる。

力を込められて完全に埋め込まれた時、あたいは甲高い嬌声を上げた。

自分の中が一杯に満たされている快感に、小さく首を横に振る。

「あ…せいしろ…清四郎」

手を伸ばし、彼の首にすがりついた。

入っているだけで気持ちいいなんて、初めての感覚だ。

これから、激しく突かれることを予感して、怖いとさえ思った。

 

 

「くっ…」

「……?」

清四郎が動きを止めたままなのを不審に思って、あたいは清四郎の顔を見た。

清四郎は目を閉じ、唇を噛んでいる。

「…清四郎?」

あたいの呼びかけに、清四郎が目を開いた。

黒い瞳が、熱情に潤んでいる。でもその目の中には、さっきまでの悔しいくらいの余裕は微塵もない。

 

 

「ああ…」

清四郎が、たまらぬように熱い息を吐き、あたいの胸に額をつけた。

「悠理、すまない。ちょっと待ってくれ…」

え?と聞き返そうとして、あたいは無意識に身を捩った。

「駄目だ、動くな!」

強い口調で腰を抑えられ、あたいは不安になる。

「清四郎?どうし…ああっ!」

尋ねる途中で一度、強く突かれ、あたいは背を反らせた。

清四郎の右腕が、あたいの背にまわり、強く引き寄せられた。

 

 

「どうして、こんなに気持ちがいいんだ?すぐにイッてしまいそうだ…」

清四郎が、あたいの胸に額をつけたままで小さくうめき、すごく緩やかに腰を動かしだした。

「あっ、あっ…」

激しい動きじゃないのに、突かれているともいえない動きなのに。

内壁を柔らかく擦られるような快感に、あたいは声を上げた。

思わず、清四郎の背に手を回して抱きつき、合わせるように腰を揺すった。

「ああ、悠理、駄目だ…」

清四郎が苦しげに呟く。

「本当に、すぐにイッてしまうぞ…」

切なげな声に、あたいの中に嗜虐的な喜びが湧いた。

 

 

清四郎の背から手を滑らせ、清四郎の腰を抱いた。

ぴたり、と彼の腰に押し付けるように、自分の腰を浮かす。

顔を離して清四郎の瞳をじっと見つめ、腰をゆっくりと大きく動かす。密着させたまま。

「う……」

清四郎がうめき、あたいを抱く腕に力がこもる。よりいっそう、腰を大きく動かしてやる。

「ああ、駄目だ。駄目だ、悠理…ううっ」

清四郎の顔があたいの首筋に埋められた。

清四郎の腰の動きが早まり、強くあたいを突き動かす。

「ん……ん…ああっ!」

「悠理っ!」

折れるかと思うほどに抱きしめられ、あたいの中で清四郎自身が大きく脈打ち、精を放つのを感じた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

脱力。

ベッドの上で、あたいは裸身をシーツで被うことも忘れて、ただ横たわっていた。

ぼんやりと、清四郎が情事の後始末をするのを横目で見る。

あたいにも、2、3枚のティッシュが放ってよこされたけど、拾い上げる気力もなかった。

 

 

清四郎が、手に持ったティッシュの塊をゴミ箱に投げ入れ、あたいに身体を向けた。

落ちた前髪の間から覗く黒い瞳は、もう普段の冷静な光を取り戻している。

それが、なんだか悔しくてさみしい。ついさっきまで、あんなに切なそうだったのに…

あたいのお腹の上に落ちたままのティッシュを見ると、少し片眉を上げ、それを掴む。

そっと、足の間が拭かれた。急に恥ずかしくなって、顔を逸らす。

 

 

くっくっと清四郎の含み笑いが聞こえ、ちゅっと音を立ててキスされた。

どさっとあたいの隣に横たわり、片手をあたいの首の下に差し入れて腕枕をすると、あたいの顔を覗き込んだ。

「悠理」

妙に優しく、名を呼ばれる。

「何?」

「脱力してますね。そんなに気持ちよかったですか?」

「…気持ちよかったのは、お前の方だろ?」

あたいの答えに、清四郎は一瞬眉をしかめた。

「ええ…まぁ、ね」

意外に素直に認めると、清四郎はあたいの髪をゆっくりと撫でた。

 

 

昔からだけど、清四郎にこうやって髪を撫でられると、あたいはうっとりとしてしまう。

大きな手の平が、髪を滑る感触。時折くしゃくしゃと掻き混ぜられて。

けれど、次に清四郎が言った言葉に、あたいの平穏な気持ちは吹き飛んだ。

 

 

「悠理…これからも、こうして時々二人で会いませんか?」

 

 

それって、どういう意味だ?疑問を、口に出す。

「何?時々会ってセックスしようってか?それって…お前のセフレになれってこと?」

「ミもフタも無い言い方をしますねぇ」

「でも、そういうことだろ」

「まぁ、ありていに言えば、そうですね」

口の端を曲げて認める清四郎に、あたいは怒りを通り越して呆れ、笑い出してしまった。

 

 

「ひっで〜。お前、よくあたいにそんなこと言えるな。お前にとってあたいって、その程度の存在だったのかよ?」

「そんなことは、ありませんよ…」

黒い瞳を伏せて、清四郎が否定する。

「じゃあ、何でそんな提案出来るんだよ」

「嫌ですか?」

「い・や!今日のことは、酔った勢い、酒の上でのアヤマチ。お前とはもう、これっきり!」

 

 

投げつけるように清四郎に伝えると、ベッドの上に飛び起きた。

そそくさとパンツを穿き、ブラに腕を通す。

ホックがなかなか嵌められなくって、イライラしてくる。

 

温かい指が背中に触れた。

清四郎が、すっとホックを止めてくれる。

「怒らせて、しまいましたか?」

「……」

ふいに涙が出そうになって、あたいは唇をぎゅっと噛んだ。

震える手を伸ばしてセーターを掴み、袖を通した。

立ち上がってズボンを穿くと、コートを掴んでドアに向かう。清四郎の方は、見られないまま。

 

 

「悠理、電話を下さい」

 

 

ドアを閉める寸前に、清四郎の声が聞こえた。 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 セフレ関係を結ぼうなんていう清四郎のふざけた提案に、ひどく腹を立てていた筈なのに。

気が付くと、あいつの携帯のナンバーを押していた、あたいはバカだ。

 

 

指定されたホテルに入ると、既にロビーの椅子に清四郎が腰掛けて待っていた。

「早いな。仕事忙しいんじゃないのかよ?」

「電話をもらえるとは思っていなかったのでね。嬉しくて早く来てしまいましたよ」

「チェックインは?」

「済ませましたよ。行きましょうか?」

当然のようにあたいの腰に手を回し、清四郎はエレベーターへと歩き出した。

 

 

ヴィィィン…

軽い音を立てて、エレベーターは最上階へとノンストップで上がっていく。

今日のホテルは、この間のホテルよりも格段にいいホテルだ。

清四郎は今、菊正宗病院で新人医師として働く身だけど、何といっても跡取り息子。収入はかなりいいに違いない。

 

 

最上階に着き、清四郎がカードキーを差し込んで部屋のドアを開けた。

壁一面の大きな窓、重厚なインテリア。

部屋の中央にあるソファ・セットの一番大きな椅子に腰掛けようと部屋を横切る。

どさっとソファに身を沈めた途端に、清四郎があたいの体に覆いかぶさるように、唇を合わせてきた。

 

 

「ちょ、ちょっと…」

服のボタンを外そうとする清四郎の手を掴んで押し止める。

「なぜ?抱かれに来たんでしょう?」

あたいの手をソファの背に押し付けると、首筋から鎖骨に舌を這わせてくる。

「あ……」

くすぐったいような感覚。身体の力が抜けてくる。抵抗しようという気が失せる。

 

 

―――そうだ、あたいはここに、清四郎に抱かれに来たんだ。

 

 

掴まれていた手が自由になっても、あたいはもう清四郎を止めようとはしなかった。

服が脱がされ、清四郎の唇がどんどん下降していく。

ズボンと共に、ショーツが下ろされるのを腰を浮かせて手伝った。

清四郎の舌と指が、あたいの股間で軽くうごめいたと思うと、すぐに固いものが押し当てられた。

この間抱かれた時には、もっと執拗にいじられたのに。

でも、理由はわかっている。その必要がないほどに、あたい自身がもう潤みきっていたから。

 

 

「ああ…」

清四郎が、吐息を漏らす。

「やっぱり、すごく気持ちがいい…」

うわ言のように呟きながら、清四郎は腰を動かし続ける。

何の技巧もなく、まるで始めて女を抱いたかのように、ただ激しく突いてくる。

「あ、あ、あ…あっ、ああっ、ああっ!」

それなのに、あたいは絶え間なく嬌声を上げながら、ただ清四郎の首にしがみついていた。

まるで、初めて男に抱かれ、その激しい情熱を持て余すがごとく。

 

 

「悠理、悠理っ!」

清四郎があたいの名を呼び、あたいの頭を抱く。

低く呻き、動きが止まる。

「あ……」

あたいは無意識のうちに、清四郎の髪を掻き乱した。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

広いベッドルームの広いベッドの中で。

あたいはぼんやりとカーテンに映るスタンドライトの灯りを見ていた。

灯りの中に、部屋の観葉植物の葉の影が揺れる。

さっきまで、清四郎に抱かれている時も、あたいはあの影を眺めていた。

 

 

「さっきは、あなたのことを考えずに動いてしまった…」

すみません、と詫びながら、清四郎はあたいの身体を隅々まで愛撫した。

「もう会わない、なんて言われたら困りますから」

そう言って、何度も何度もあたいを絶頂に追いやった。

 

 

胸元で、清四郎が身じろぎする。

行為の後、清四郎はあたいの胸に顔を埋めたままで眠ってしまっていた。

あたいが手で掻き乱した為に、普段は幾筋かを残して後ろに撫で付けられている前髪が、全部額に落ちている。

黒い髪の下に、髪よりももっと黒く見える長い睫毛が影を作っている。

彫刻刀で切り出したみたいに高い鼻。少し薄いけど形のいい唇が僅かに開き、寝息が漏れる。

何故か、泣き疲れて眠ってしまった子供のようだと思った。

 

 

―――疲れているのかな。

 

ふいに、埋もれていた記憶が浮かび上がってきた。

婚約騒動の時、いきなり剣菱経営の全権を任され、疲れきってソファでうたた寝をしていた清四郎の顔。

涙が浮かびそうになり、思わず清四郎の額に唇を押し当てた。

胸が、痛い。

 

 

自分の感情の揺れに戸惑い、胸が痛む理由を考えている時、清四郎の携帯が鳴った。

どうしよう…と思っていると、清四郎がむくりと起き上がり、携帯を耳に当てた。

 

「もしもし……はい…はい、わかりました、すぐに行きます。ええと…30分ほど」

 

ピ、と通話を切ると、申し訳なさそうな表情であたいを見た。

「すみません。緊急のオペが入って…」

「ん……」

 

すっと長い足をベッドの下に下ろすと立ち上がり、清四郎はバスムールに入っていった。

シャワーの水音はすぐに止まり、清四郎は真っ白なバスタオルで身体を拭きながら出てくる。

あたいはシーツを身体に巻きつけてベッドの上に起き上がり、清四郎がソファに投げ捨ててあった服を身に着けるのを見ていた。

ネクタイを締めながら、あたいに向かって歩いてくる。

 

 

「悠理は、ゆっくりしていってください。お腹が空いたら、ルームサービスでも取るといい」

そういうと、あたいの頬に手を伸ばす。どこか寂しげな表情。

親指で、あたいの唇をゆっくりとなぞると、ふ、と微笑んで唇を重ねてきた。

ほんの一瞬、軽く触れるだけのキス。あたいの胸が、ずきん、とまた痛んだ。

 

 

「また、電話を下さい」

 

 

何故、そんな顔をするの?

名残惜しげにあたいの頬から離れようとする手を、掴んで引き止めたい衝動に駆られる。

「清四郎!」

思わず、部屋の扉に手をかけているあいつの名を呼んだ。

清四郎が振り返る。あたいは自分が何を言いたいのかがわからない。

 

 

「また…」

 

 

それだけを言って片手を上げたあたいに、清四郎は微笑んで頷き、そっと部屋から出て行った。

残されたあたいはベッドの中で、今日会ってからの清四郎が言った言葉や、仕草や表情の一つ一つを思い出していた。

時折疼く胸や、熱くなる身体を両腕で抱えたまま。

 

 

 

 

 

 

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