街を歩く人々が蓑虫みたいに分厚いコートを着込む季節。
いつもの面々は、連休を利用して、スキー場へ遊びに来ていた。
連休ということもあり、スキーハウスは人でごった返していたが、広大なゲレンデはいくつものコースに分かれているため、人ごみも分散され、思う存分に滑ることができる。
最初は腕慣らしも兼ねて、六人が揃って滑走し、昼からは腕前に合わせたコースでそれぞれ楽しんだ。
夕方までたっぷり滑り、いったんは集合したものの、元気の有り余った者は、当然のようにナイターまで居残ることにし、体力に限界が来た者は、近くの温泉で疲れを癒すことにした。
泊まる場所は全員が知っているし、最終的にはそこで集まればいいという意見で一致したのだ。
そして、夜の八時過ぎ。
山小屋風のコテージに、ようやく全員が揃った。
宴会と同義の夕食は、酒池肉林とまではいかなくとも、そこそこに盛り上がり、そこそこ以上に酒が進んだ。
しかし、いくら盛り上がろうと、スポーツを満喫したあとの肉体はボロボロである。宴会が半ばまで過ぎた頃には、過剰なアルコール摂取と、肉体疲労のダブルパンチで、早くもソファに頭を預けて寝息を立てる者が現われ出した。
「ありゃりゃ、野梨子の奴、寝ちゃってるよ。」
「野梨子にしては、頑張ったからな。」
「滑られるようになると、ぐんと楽しくなるから、野梨子も張り切ったんだよ。」
皆の視線が、野梨子の寝顔に注がれる。
当の野梨子は、ソファの肘掛に頭を預けて、心地良さそうな寝息を立てていた。
「あたしも限界が近いかも・・・寝るついでに、野梨子を寝室に連れていくわ。」
野梨子の睡魔が乗り移ったのか、可憐が欠伸する口を手で隠しながら、立ち上がった。
「ええ〜!もう寝るのかよ?夜はこれからじゃん!」
「可憐や野梨子は、お前とは違うんですよ。明日も朝から滑るんですから、早めに寝て、疲れを取らないと。それより、ほら、もっと飲みましょう。」
飲み足りないのか、可憐を引き止めようとする悠理を、清四郎がやんわり嗜めた。反論しようとする悠理のグラスに、さり気なくワインを満たして気を逸らす手法は、流石である。
悠理は、グラスという小宇宙に満ちた液体を、乱暴に、ぐっ、と飲み干し、空になったところで、それを清四郎に突き出した。
「お前も飲め!」
「じゅうぶん飲んでますよ。」
苦笑しながらもグラスを受け取ると、有無を言わさぬ勢いでワインが注がれた。
清四郎は、なみなみとワインが注がれたグラスを眼の高さまで掲げ、そっと口をつけた。
くっきり浮き出た咽喉仏が、三度、上下して、赤い液体はあっという間にグラスから消えた。
清四郎は、空になったグラスを、悠理ではなく、魅録に渡した。
「先ほどから、あまり進んでないようじゃないですか。ほら、飲んでください。」
「そうだそうだ、飲め〜!」
嫌々ながらグラスを受け取った魅録を、悠理が囃し立てる。
それを見て、傍観者を気取っていた美童が、大袈裟に眉を顰めた。
「もしかして、次は僕?やめてよ〜!」
「何を言ってやがる!?テキーラの国の生まれだろ!?注がれた酒は飲め!」
「スウェーデンはテキーラの国じゃない!」
美童が叫んでいる間に、魅録はワインを煽っていた。
ごくごくと咽喉を鳴らし、まるで麦茶を飲むような勢いで、ワインが魅録の体内へ消えていく。
魅録は、グラスをきっちり空にすると、当然のように美童へグラスを突き出した。
「お前も飲め!」
「そうだ!飲め飲め!」
「ここまで来て、飲まぬは一生の恥、ですよ。」
「お前らの前で、今さら恥を気になんかするもんか!」
「四の五の言わずに、とにかく飲め!!」
「こ、殺される〜!」
そんな遣り取りが繰り返されるうちに、魅録が潰れ、続いて美童がソファに沈んだ。
結局、残ったのは、悠理と清四郎の二人だけになった。
窓の外では、音もなく、しんしんと雪が降って、白い大地をさらに白く染めていく。
室内は暖かいが、外は痛みを感じるほどに寒いはず。
カーテンを閉めていない硝子窓は、内側からも凍っているかもしれない。
しんしんと雪は降り積もる。
二人きりになると、何だか気まずい。
先ほどまでの盛り上がりはどこへやら、沈黙が周囲を支配した。
二人は、美童と魅録が突っ伏すソファの向かいに並んで座り、友人の無様な姿をぼんやりと眺めていた。
清四郎が、思い出したようにボトルを手に取り、残り少なくなった魅惑の液体を、自分と悠理のグラスに注ぎ分けた。
「ああ、ありがと・・・」
グラスを手に取ろうとした悠理の身体が、不安定にぐらりと揺れる。
倒れそうになりながらも、寸前で体勢を保ち、何とか持ち直したのは、酒に強い体質と、卓越した運動神経がなせる業であろう。
悠理は、ワインをぺろりと舐めて、眼の縁がほんのり赤く染まった瞳で、清四郎を見上げた。
「お前、もう飲まないのかよ?」
その台詞に、清四郎は、くっ、と笑声を漏らした。
「これだけ飲んだのに、『もう飲まないのかよ?』はないでしょう?」
テーブルには、ボーリングが出来そうなほど空瓶が並んでいる。二人とも、それだけの量を飲んで起きていられるのだから、凄いものである。
清四郎が、豊穣なる液体が詰まったボトルを掲げる。
「これが最後の一本です。」
宣言するようにそう言うと、清四郎は何だか覚束ない手つきでワインオープナーを手に取った。
長い指が、オープナーきりきりとを回していく。
その様子を、悠理はどこか夢見心地で眺めていた。
もしかしたら、闇に溶けた白一色の世界と、夜の静寂が、現実感を喪失させたのかもしれない。
ぽん、と音がして、熟成した果実の芳香が弾ける。
悠理と清四郎は、順番に互いのグラスを満たして、今晩何度目かの乾杯をした。
悠理は、ソファの上で自分の膝を抱き、ワインでくちびるを湿らせた。
その横で、清四郎はいつもと変わらぬ顔色のまま、ワイングラスを傾けている。
悠理は、ワイングラスの縁を食みながら、ちらりと清四郎を見た。
思ったとおり、いつもと同じ表情で、ワインを飲んでいる。
何だか、それが妙にムカついた。
「・・・お前、カワイクないよな。」
悠理は、清四郎を横目で睨みながら、ぼそっと呟いた。
「別に構いません。可愛いと言われて喜ぶ男はそういませんし。」
そう答えると、清四郎はグラスの中身を煽った。
「どんどん飲め。」
「悠理も飲みなさい。」
豊穣の液体が、ふたつのグラスの中でゆらゆらと揺れる。
外は雪。闇との曖昧な境目まで、白く埋まっている。
ばさ、と窓の向こうで音がした。
二人は同時に窓辺を見た。
しかし、そこには静寂の夜が広がっているだけ。
樅の木の枝が、降り積もった雪の重さに耐え切れなくなったらしい。
別にタイミングを合わせたわけでもないが、二人同時にグラスを傾ける。
ごく自然に、視線が合う。
よくよく見ると、清四郎もやはり酔っ払っているのか、眼の縁が赤く染まっていた。
それに、前髪を下ろしているせいか、普段より幼く見える。
悠理は、何でも素直に思ったとおり口に出してしまう性格だ。
だから、さっきと正反対のことだって、何の躊躇いもなく話してしまう。
「今日のお前、何だか可愛い顔をしてないか?」
清四郎は、眉根に浅い皺を寄せて、顔に不機嫌を貼りつけた。
「だから、可愛いと言われて、喜ぶ男はいないと言ったじゃないですか。それに、僕は可愛くないのでしょう?なのに、何で可愛いなんて思うんですか?」
「思ったものは、仕方ないだろ。」
「でも、男に対して、可愛い、なんて言葉は使うものじゃありません。」
「面白い。清四郎が拗ねてる。」
清四郎の、むすっとした顔がまた可愛くて、悠理はくすくすと笑った。
肩を竦めて笑う悠理を、じっと見つめていた清四郎が、グラスをそっとテーブルに置いた。
「悠理。」
「ん?」
清四郎のくちびるが、悠理のくちびるに押し当てられた。
何の前触れも、予告もなく、唐突に。
悠理は驚きのあまり放心し、眼を見開いたまま、凝固していた。
思考が停止しているらしく、清四郎の顔をこれ以上はないほど間近で見て、睫毛が長いな、などと、場違いな感想をぼんやり抱く。
生まれてはじめて、男性にキスされているにしては、とんちんかんな感想だった。
ややあって、くちびるが離れた。
しかし、額は触れそうな位置にあり、二人が密着していることに変わりはない。
ようやく思考が動きはじめ、どんな事態が起こったのか、アルコールで麻痺した頭に理解が回り出す。
悠理は、清四郎の瞳を覗き込みながら、低い声で訊いた。
「・・・何?」
「何って、キスですよ。」
「そりゃ、分かるけど・・・」
一瞬、躊躇ったあと、悠理は訊いた。
「何で、キスしたの?」
清四郎は、黒く澄んだ瞳で、じっと悠理を見つめている。
夜よりも黒い瞳。
見つめ返していると、その中へ吸い込まれそうで、腰が引けてしまう。
清四郎は、悠理を見つめたまま、言った。
「しなかったら、後悔しそうな気がしたんです。」
そんな答で、納得できるはずもない。
なのに、悠理は、ふうん、と言って納得した。
「キスって、そんなもん?」
「そうじゃないですか?」
理由のすべてが曖昧模糊としていても、頭の良い清四郎がそうだと言えば、そういうものかと信じてしまう。
アルコールが齎す酩酊が原因か、それとも違う理由が隠れているのかは、分からないけれど。
でも、悠理は、清四郎のくちびるが、嫌ではなかった。
「悠理。」
「ん?」
「僕にキスされて、嫌じゃなかったのですか?」
「何で?」
ざざ、と音がして、樅の木の枝に積もった雪が落ちた。
「何でか―― また、試してみましょうか。」
清四郎の手が、悠理の手から、ワイングラスを奪う。
ことり、と小さな音を立てて、グラスがテーブルに着地する。
自由になった清四郎の手は、悠理の腰に回った。
同じく、自由になった悠理の手は、清四郎の背中に回った。
すやすやと健やかな寝息を立てる仲間たちの前で。
二人は、芳醇なワインの味がするキスをした。
酩酊ゆえの大胆にしては、甘すぎる行為。
それが何ゆえの行動かを理解するには、酔いすぎた。
ただ―― ただ、知ったばかりのキスは甘くて。
今は、痺れるような酔いに、身を任せるしかなかった。