星とココアと曖昧な感情と。

   BY hachi様




昨夜の雪模様が信じられないくらい、爽やかに晴れ渡った空。

一面の雪が陽光を反射して、サングラスなしでは眼をやられそうなほど眩い。


「うーん。」

心浮き立つ快晴の空の下、悠理は、リフト乗り場に向かうスキーヤーを妨害するかのように、往来の真ん中に座り込んでいた。

タマフク柄のウエアに、ネコ耳のイヤーマッフル。ご丁寧なことに、ヒップにはちゃんと長い尻尾がついている。傍らに投げ出しているボードも、ウエアとお揃いのタマフク柄だ。
邪魔そうに横を通り過ぎるスキーヤーやボーダーは、悠理の可愛くも奇抜なスタイルに、一瞬ぎょっとしたあと、見なかった振りをして前を向く。
眼が合ったら、威嚇されて引っ掻かれるとでも思っているのだろう。

「うーん。」

人々の視線にまったく気づいていない悠理は、今日、何十回目かの唸り声を上げ、首を大きく右に傾げた。

―― キス、したよなぁ?

確かに、した。
どうしてしたかは―― まったくもって分からないけれど。
昨夜、悠理は確かに清四郎とキスをしたのだ。
それも、二度。一度ならず、二度も、である。

酔っ払っていたとはいえ、昨夜の記憶はばっちりあった。
いっそ記憶がなくなっていたほうがマシだった、と思わせるほど、はっきり覚えている。
酒の上での失態は多いが、まさか、『あの』清四郎とキスをするなんて、人生最大の汚点、取り返しのつかない大失態、後悔のてんこもり、である。

しかし。

悠理がこんなに悩んでいるというのに、清四郎のほうは、いつもとまったく同じ態度。
今朝、悠理と対面しても、眉ひとつどころか、表情筋ひとつ、ぴくりとも動かさない。
清四郎のそんな態度が、さらに悠理を悩ませていた。



長いキスのあと、悠理は清四郎の顔を見ることが出来ず、そっぽを向いたままワインを飲み続けた。どちらも喋らなかったから、最後のボトルが空になるまで、そう長い時間はかからなかった。
ワインがなくなると、本当に手持ち無沙汰となった。沈黙が息苦しいほど重い。
そんな中で、清四郎が、向かいのソファで泥酔する魅録と美童を見つめながら、このままでは風邪を引いてしまいますね、と理由をつけて悠理の隣から立ち上がった。
清四郎は、二人を乱暴に揺すって起こし、寝惚け眼を擦る彼らと一緒にリビングルームから出て行ってしまった。
最後に、おやすみ、とだけ言い残して。

ひとり残された悠理も、釈然としないまま寝室へ戻り、ベッドに潜り込んだ。
花も恥らうファーストキスのせいで、ドキドキして眠られないかな、と思ったが、ものの数分もしないうちに熟睡していたのだから、悠理も悠理である。


そして、朝。
清四郎は、何事もなかったかのように、いつもと同じ態度で悠理に接した。あまりにも変わらないので、こちらはまさしく狐に抓まれた気分だ。お陰で、キスしたという実感なんて、ちっとも湧いてこない。

「うーん。」
こう呟くのも、いい加減に飽きてきた。
仲間たちは、石仏と化した悠理を置いて、さっさとリフトに乗って山頂へと消えていった。悠理もこんなところで唸っていないで、仲間たちの後を追うべきなのだが、何だかそんな気が起きない。

それに、である。

清四郎だって共犯者(?)なのだから、悩む悠理を置いて滑りに行かなくても良いではないか。
自分をこんなに悩ませている男が、人の気も知らず楽しんでいるかと思ったら、無性に腹が立ってきた。
「・・・ちくしょー、清四郎の馬鹿野郎。」
久々に、唸り声以外の声を発した、その瞬間。
悠理の眼前に、黒い塊が突っ込んできた。
「うわ!」
叫ぶと同時に、エッジが雪原を切る音がし、舞い上がった雪で目の前が真っ白になった。

「こんなところで何をしているのですか?はっきり言って、すごく邪魔になってますよ。」

頭上から降ってくる声に、悠理は眼を開けた。
見上げた先に、青空を背負った清四郎の顔があった。

清四郎は、サングラスを額に押し上げて、悠理を見下ろしながら、やれやれ、と呟いた。
「飲みすぎて辛いのなら、こんなところじゃなくて、暖が取れる場所で休んだほうがいいですよ。」
「・・・あんな量で二日酔いになるもんか。」
「はいはい、分かりました。とにかくここは邪魔になるし、危ないから、移動しましょう。」
当たり前のように手が差し出されので、悠理は思わずその手を掴んでしまった。

清四郎は、スキー板を履いたまま、片手で軽々と悠理を引き上げた。
ほぼ同時に、悠理の背後で、カッコいい、と小さな感嘆の声が上がる。何事かと振り返ったら、大学生らしき若い娘の三人組と、ばっちり眼が合った。どうやら清四郎を見て、カッコいい、とどよめいたらしい。
「ほら、行きますよ。」
ごく自然に、悠理の背中に手が回る。悠理が食べ過ぎで苦しんでいるとき、清四郎は必ずこうやって保健室まで連れて行ってくれるのだ。
すると、背後でまた女子大学生たちの声が上がった。今度は、派手な落胆の声だった。

次の瞬間、それまでは気にならなかった周囲の視線が、いきなり気になりだした。

―― もしかして、恋人同士とかに、見えてる?

そう思ったら、どうにも落ち着かなくなった。
清四郎の手を振り払い、マッハのスピードでボードを引っ掴む。
「滑ってくる!」
そう叫んで、悠理はリフト乗り場へ向かって駆け出した。
「悠理!」
背後で清四郎が叫ぶ。しかし、悠理は構わず走り続けた。
人の波を掻き分けて、ICカードのリフト券でゲートを突破し、いざ乗り場に駆け込む。
悠理の計算では、そのままリフトに乗り込み、清四郎を振り切るはずだった。
しかし、悠理の計算は、最初から無理があった。

「お嬢ちゃん!ちゃんとボードをくっつけないと、リフトには乗れないよ!」

このゲレンデでは、ブーツの片方をボードと固定しないと、リフトには乗れないことを、すっかり忘れていた。
慌ててボードとブーツをくっつける。
しかし、その間に、案の定、清四郎に追いつかれてしまった。
「悠理。」
はっとして振り返ると、仁王立ちした清四郎が、すぐそこにいた。
「・・・どうして逃げるんですか?」
恫喝しているんじゃないかと疑いたくなる声音で問われ、悠理は泣き笑いの顔で清四郎を見上げた。


うぃんうぃんうぃん・・・
その名も忌々しいペアリフトが、悠理と清四郎と沈黙を乗せて、ゲレンデを遡っていく。
悠理は進行方向から一ミリも顔を動かさず、一秒でも早く山頂駅に着くのを、ひたすらに願っていた。
一方の清四郎は、涼しげな顔をして、下界をゆくスキーヤーを見下ろしている。
数時間前に、悠理とキスをした男の態度とは、とてもじゃないが思えない。

―― もしかして、清四郎のほうが、飲み過ぎたせいで、昨日の記憶が飛んじゃってる?

もしもそうならば、清四郎の態度がいつもと同じなのも、理解できる。いくら性格が悪くても、清四郎だって人の子だ。酒で記憶をなくすことくらいあるだろう。
我ながら素晴らしい発想だと、リフトの上でにんまり笑い、悦に入る。

ペアリフトは、何事もなく進んでいき、山頂駅が近づいてきた。安全バーを上げて、着地態勢を取る。
ボードが雪面に着く。リフトから立ち上がり、いざ雪原へ、というそのとき。

「昨日のことで悩んでいるなら、許してください。」

「ぎゃ!」

驚いてバランスを崩した悠理の横を、スキーを履いた清四郎が、颯爽と滑り降りていく。
足を踏ん張って、何とか転げずに済んだ悠理は、あっという間に小さくなっていく後姿に向かって、思いっ切り叫んだ。

「覚えてるんなら、最初からそう言いやがれ!!バカヤロー!!」



その日は、さすがにナイターまで滑る気力は、誰一人として持ち合わせていなかった。
そう表現するには語弊があるかもしれない。驚異的な体力を自負する悠理は、二日連続のナイターくらい、へっちゃらだった。しかし、清四郎のオタンコナスのせいで、せっかくスキー場まで来ているのに、心から楽しめなくなってしまったのだ。

コテージに戻ってきてから、悠理は清四郎をずっと無視し続けた。
夕食中は清四郎のほうをちらりとも見なかったし、そのあと、皆で寛いでいるときも、ずっと魅録と喋っていた。
だけど、それでも清四郎の態度は、いつもとちっとも変わらない。
まるで、悠理となんか喋らなくても、まったく平気とでも言うように。


「・・・せいしろーの、馬鹿野郎。」

皆が寝静まったあとの、静かな時間。
悠理は鼻の頭を真っ赤にしながら、ウッドデッキに立って、凍てつく星空を眺めていた。

今晩は、昨夜とは打って変わって、空は晴れ渡り、満天の星が宝石のように煌いている。
「星が瞬く」という表現は嘘じゃなかった、と感心したくなるくらい、綺麗な星空だ。
だけど、そのぶん空気はキンキンに冷えている。息をすると鼻がもげそうだし、吸い込んだ空気で身体の中心から冷えていくようだ。

ずず、と鼻水を啜り、カーディガンの袖で頬っぺたを包む。嫌になるくらい寒いのに、どういう訳か、室内に戻る気が起きない。煌く星空を眺めていても、心のモヤモヤはちっとも晴れないというのに。
もう一度、鼻水を啜って、闇の広がる森へ向かって白い息を吐く。吐息はふわりと広がったあと、闇に溶けて消えた。
「・・・清四郎の、馬鹿・・・」
先ほどと同じ呟きを繰り返したら、涙が滲んできた。慌てて目元を擦り、涙の痕跡を消す。
今、涙を零したら、清四郎のために泣いているみたいじゃないか。
だけど、いくら我慢しても、涙は溢れてこようとする。悠理は夜空を見上げ、涙が零れないよう、息を止めた。

息を止めて、数をかぞえる。
七つまで数えたところで、背後の扉が開いた。

振り返って、はっとする。
だって、そこに居たのは、清四郎その人だったから。

清四郎は、マグカップをふたつ持って、悠理に近づいてきた。
ほら、と両方のカップを差し出され、面喰らいながらも、ふたつとも受け取る。
カカオの甘い芳香が、真っ白な湯気と一緒に、悠理の冷え切った鼻腔を擽った。

「何しに来たんだよ?」
涙で潤んだ瞳を隠すために、そっぽを向いて、問う。
「コテージで凍死しそうな馬鹿を、救出に来たんですよ。」
「馬鹿って言うな!」
ムッとして振り返った悠理の肩に、フリースのパーカーがふわりとかけられた。
「え?」
驚いて、悠理は振り返った。
「ここで凍死したくないでしょう?」
すぐ近くで、セーター一枚になった清四郎が、悠理を見つめながら、微笑んでいた。

どきん、と心臓が鳴る。
どうすればいいのだろう? 清四郎から、眼が逸らせない。

清四郎は、悠理の手から片方のマグカップを取って、ココアをひと口飲んだ。
「ほら、冷めないうちに、悠理も飲みなさい。」
「あ、うん。」
促され、悠理もマグカップに口をつける。
ココアの芳香とともに、甘味が口いっぱいに広がり、ミルクの温かさが、冷え切った身体にじんわり広がっていく。
「おいしい。」
自然と口から出る、素直な感想。
「よかった。」
それを聞いた清四郎が、安心したように笑った。


ココアの香りと温かさに、かちんかちんに固まっていた心が、ゆっくりと解けていく。
清四郎なんか、永遠に無視してやろうと思っていたのに、隣にいても、ちっとも嫌じゃない。それどころか、今、こうやって一緒に満天の星空を眺めていることが、とても嬉しい。

たった一杯のココアがくれた、摩訶不思議な魔法。
この魔法が効力を発揮しているうちに、勇気を出そう。

「・・・清四郎、さっきは無視して、ゴメン・・・」
ココアの湯気よりも儚くて、清四郎にまで届きそうにない、小さな呟き。

「もう、いいですよ。」
でも、ちゃんと清四郎には届いていた。

悠理は、ほっ、と安堵の息を吐いた。
その吐息も、きっとココアの香りに包まれているだろう。

「悠理。」

名前を呼ばれ、彼を仰ぎ見る。
清四郎は、自分のカップをウッドフェンスの上に置き、悠理の手からもカップを取って、同じようにフェンスの上に置いた。
清四郎が何をしようとしているのか、見当もつかない悠理は、きょとんとして、彼を見上げていた。

両肩に手を置かれ、引き寄せられる。

何をされるのか、ようやく悟ったときには、清四郎にくちびるを塞がれていた。


「・・・んっ・・・」
抗おうとしたのは一瞬だった。
ココアの芳香に包まれた、清四郎の吐息が、悠理から抵抗を奪ったのだ。

甘い香りが、重なったくちびるから、全身に広がる。
ココアの魔法か、悠理の身体から力が抜けていく。
脱力した身体を支えるために、悠理は清四郎の背中に両手を回した。

重なったくちびるが、清四郎の、悠理、という囁きを受け止めた。
だから、悠理も、くちびるを重ねたまま、清四郎の名を囁き返した。


どうして清四郎とキスをしているかなんて疑問は、まったく湧いてこなかった。

今の悠理にとっては、こうしていることのほうが―― 当然だった。



凍てつく空気。満天の星空。カカオの芳香。

真冬の夜に包まれながら、ふたりはずっと啄ばむようなキスを繰り返していた。





・・・・ To be continued ?
 

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