風とミルクと生まれたての恋情と。

    BY hachi様




「へっくしゅ!」

翌朝、悠理は自分のくしゃみで目覚めた。

暖かな羽毛布団に包まれているのに、身体がゾクゾクする。頭が重くてボーッとする。息をするだけで鼻水が垂れる。
「うう〜。」
起き上がりたくても、全身がだるくて起き上がられず、悠理は枕に顔を埋めて唸った。

症状からして、どう考えても、立派な風邪だった。
原因はひとつしかない。
昨夜、クソ寒いウッドデッキに、長時間いたせいだ。



「38・4℃。きついでしょう?」
ベッドサイドに座った清四郎が、デジタル体温計の表示を眺めながら、話しかけてきた。
「当たり前だぁ・・・へっくしゅ!」
色気もクソもない盛大なくしゃみをする。悠理は、清四郎が差し出したティッシュボックスから、ティッシュを二枚引き抜き、盛大に鼻を噛んだ。

朝一番で麓の診療所に行き、診察を受けた結果は、風邪。医者は、インフルエンザでないだけ幸運だったと慰めてくれたけど、悠理はちっとも嬉しくなかった。
明朝にはここを引き払って東京へ戻るので、滑られるのは、今日が最後だった。昨日は、清四郎の態度のせいで滑走を楽しめなかったので、今日に賭けていた。
なのに、この体たらくである。
不甲斐ない自分が情けなくて、腹が立つけれど、今は身体がだるくて、それどころではない。熱のせいで眼が回るのか、部屋の中を見ているだけで気分が悪くなる。悠理は眼を閉じ、布団の中でふうふうと荒い息を吐いた。

眼を閉じていると、額に冷たいものが触れた。清四郎の手だ。
清四郎は、悠理の前髪を梳くように掻き揚げ、露わになった額に、手よりも冷たいものを押し当てた。
「魅録が今、薬局に行って水枕を買ってきますから、しばらくこれで我慢してくださいね。」
氷嚢にしては、動かしても、からからという音がしない。悠理は眼を開けて、清四郎を見上げた。
「なに・・・これ?」
「雪ですよ。」
指で触れて形を確かめてみる。雪をビニール袋に詰めたものを、タオルで包んでいるらしい。じんわり伝わる冷たさと、タオルの柔らかさが、熱を持った額に心地良かった。
「ゴツゴツした氷より、こちらのほうが、優しいでしょう?すぐ溶けるのが難点ですけど、ね。」
清四郎がいつもより優しくて、ちょっと居心地が悪かったけれど、たまには無条件に優しい清四郎というのも、珍しくて良いかもしれない。面映さを覚えながら、悠理はまた眼を閉じた。

仲間たちは、熱を出して寝込んでいる悠理のために、交代でコテージに残るらしい。午前中は、魅録と野梨子がコテージに残り、午後からは美童と可憐が悠理の看病をする予定なのだと、清四郎が教えてくれた。
清四郎だけは、ずっと残るつもりらしいけれど、どうしてなのかは、あえて聞かなかった。答を聞いて、ガッカリするのが嫌だったのだ。

悠理は、清四郎のことなんか、ちっとも好きじゃない。だから、どんな答が返ってこようが、へっちゃらなはず。

なのに、優しい答を望んでいるのは、何故だろう?


階下では、野梨子が悠理のための卵粥を作っているそうだけど、その気配は、二階まで伝わってこない。感じ取れるのは、自分の呼吸音と、清四郎の気配だけ。
悠理は、ふうふうと荒い呼吸を繰り返しながら、ふと思った。
こんな高熱を出すなんて、小学生以来かもしれない。だからこそ、心細くて、優しい答を期待してしまうのだろう。

「・・・悠理が熱を出したのは、僕のせいですね。」
清四郎が、小さな声で呟く。
そんなの当然じゃないか、と、言ってやりたかったけど、声を出すのも億劫だったので、無視して眼を瞑っていた。
「・・・寝ましたか?」
こめかみに、指らしき感触が当たる。
髪を梳くように撫でられ、ちょっと照れ臭くなった。でも、今さら眼を開けるのは、もっと照れ臭い。寝た振りを決め込んで、清四郎が去るのを待つ。

ふっ、と清四郎の指が止まった。
頬に、あたたかな掌が当たる。

悠理は胸のドキドキを耐えるために、布団の中でそっと拳を握った。
キスをされる、と思ったのだ。

「・・・辛い目に遭わせて・・・済まない。」

掠れた呟きが終わるとともに、あたたかな掌は、頬から去っていった。
清四郎は、音を立てずに立ち上がり、そのまま部屋から出ていった。
ぱたん、と小さな音を立てて、ドアが閉まる。彼の足音が、躊躇うようにしばし留まったのち、ようやく聞こえてきた。

足音が階下へと消えるのを待って、悠理はぱちりと眼を開けた。
部屋に清四郎がいないことを確かめ、ふう、と溜息を吐いて、また眼を閉じる。

―― キス、されなかった・・・

熱に浮かされた頭の中では、安堵しているようで、残念がっているような、複雑な感情がぐるぐる巻きになっている。ぐるぐる巻きの理由を考えていたら、余計に頭が痛くなりそうだ。
ぐるぐる巻きの思考と同様に、胸のドキドキは、ちっとも収まらない。
「・・・あたい、どうしちゃったんだろ・・・?」
額に乗ったビニール袋がずり落ちそうになり、慌てて押さえて、眼を閉じる。

とにかく今は、何も考えずにいよう。野梨子が作ってくれているお粥を食べたら、きっと元気になる。すべては元気になってから、考えれば良い。

そう自分に言い聞かせながら、悠理は浅い眠りへと落ちていった。



目覚めたとき、悠理はまず部屋を見回して、清四郎の姿を探した。
でも、清四郎だけでなく、部屋には悠理以外の誰もいなかった。

取り残されたようで、何だか酷く寂しい。
悠理は、まだ眩暈のする身体を支えながら、よろよろと起き上がり、廊下に出た。階段の上から、一階を覗く。すると、可憐がリビングのソファに座って、退屈そうに雑誌を捲っている姿が見えた。
「か、かれん〜 」
大きな声を出すと眩暈がするので、囁くような声で、可憐を呼んだ。声は掠れきっていたけれど、可憐はちゃんと気づいてくれ、慌てた様子でこちらへ駆け寄ってきた。
「悠理!起きても大丈夫なの?すぐに野梨子が作ってくれたお粥を温め直してあげるから、部屋で休んでて!ああ、熱があるときは、お粥より水分補給よね。まずはスポーツドリンク!」
可憐はパタパタとスリッパを鳴らしながらキッチンへと消え、すぐにスポーツドリンクを持って戻ってきた。
「・・・清四郎は?」
可憐は一瞬だけきょとんとしたあと、すぐに、ああ、と言った。
「清四郎なら、美童と一緒に買出しに出ているわ。あと三十分もしたら、帰ってくるんじゃないかしら?」
「そっか・・・」
何故かは分からないけれど、酷く落胆した。

落胆したまま、悠理は可憐に急かされながら寝室へ戻った。スポーツドリンクを一気飲みして、ベッドに潜り込む。
それからしばらくして、可憐が温めなおしてくれた、野梨子特製の卵粥を食べた。胃に食物が入ったら、何だか元気が出てきた。診療所で処方してもらった、総合感冒薬が効いているせいもあるのかもしれない。
大人しく部屋で寝ていると、美童がプリンを持って見舞いにきてくれた。可憐もちょくちょく様子を身に来てくれる。夕方近くになると、ゲレンデから戻ってきた野梨子や魅録も顔を出してくれ、まだ微熱のある悠理のことをあれこれと気遣ってくれた。
だけど―― 皆は来てくれたのに、清四郎だけは、来てくれなかった。

別に清四郎の顔なんて見たくもないけれど、さっき見せてくれた優しい姿は嘘だったのかと思ったら、無性に悲しくて、やるせなかった。



病人には、手厚い看護を―― と、いう訳でもないだろうに、悠理の部屋は、暖房がガンガンに効いていて、購入したての加湿器もフル稼働で頑張っている。
「あつい〜〜」
悠理は羽毛布団を蹴り上げて、足を出した。
熱も下がったみたいだし、こんなに部屋を温めなくてもいいのに、と、恨みがましく思う。これでは、亜熱帯地方で寝ているみたいで、余計に具合が悪くなりそうだ。
時刻は夜の二十三時。階下からは、まだ仲間たちの声が聞こえている。

取り残された寂しさ。不必要に効いた空調が齎す不快感。
そして、それを上回る、不完全燃焼のモヤモヤ。
胸に渦巻く様々な感情を持て余しながら、悠理は寝返りを打った。

そんな中、いきなりドアがノックされた。
悠理が返事をするより早く、ドアの向こうから清四郎が現われた。
その手には、昨夜と同じマグカップ。
端整な顔には、困ったような、照れているような、微妙な表情が浮かんでいた。

「気分はどうですか?」
こちらに近づきながら、清四郎が尋ねてきた。
「ああ、うん・・・平気。」
悠理は戸惑いながら、何とか平静を装って答えた。
それを聞いて、清四郎の表情が優しく緩む。
「無理はしないでくださいね。」
その声がとても優しくて、悠理は何と答えて良いのか分からなくなった。本当は、どうして来てくれなかったのかと責めて、詰りたかった。だけど、そんなことをしたら、弱いところを晒してしまいそうで、どうしても言えなかった。
「・・・うん。」
だから、そう答えるのが、やっとだった。

清四郎が持ったカップから、白い湯気とともに、ミルクの優しい匂いが漂ってきた。
「温まりますから、飲んでください。」
強引にカップを持たされ、悠理はぶう、と頬を大きく膨らませた。
「温まるって、もう暑くてイヤになってるよ!これ以上温まったら、マジで茹で蛸になるぞ!飲ませたいなら、この暑さをどうにかしてくれ!」
照れ隠しのつっけんどんな反応に、清四郎はやれやれと大袈裟に肩を竦めた。
「確かに、この部屋は暑すぎますね。仕方ないな。」
そう言うと、清四郎は窓辺へと向かった。
「換気するついでに、ちょっとだけ涼みますか。でも、ちょっとだけですよ。」
清四郎が、窓を10センチほど開けた。細く開いた窓から、すう、と冷え切った夜気が忍び込んでくる。悠理は冬の空気に顔を向けて、大きく息を吸った。
「涼しい!」
ちょっと涼しくなったところで、清四郎が持ってきてくれたミルクをひと口飲む。少し砂糖が入っているのか、ミルクはほのかに甘かった。ひと口、ひと口と飲むたびに、じんわりとした温かさが咽喉を伝って、全身へと染み渡った。

ホットミルクはとても温かくて、飲み干した頃には、額に玉の汗が浮かんでいた。
さっきよりも、かなり暑い。悠理はカップを置くと、ベッドから身を乗り出し、開いた窓に向かって、顔を突き出した。

まだ完全に回復していないのか、悠理の身体がぐらりと揺れた。
「おっと!」
危うい体勢の悠理を、清四郎が慌てて支える。

抱き合うまではいかないが、それなりに密着した、ふたりの位置。

はっとして顔を見合わせたふたりの間を、冷たい風が、つう、と抜けた。


悠理の前髪を、北国の凍てついた夜風が揺らす。
風を感じる中、清四郎の、驚いたように眼を見開いた表情が、やけに印象的だった。

ポーカーフェイスが崩れ、ありまのままの素顔を晒した清四郎が、すぐ近くにいる。
無防備で、隙だらけで、思わず触れたくなるような、清四郎が。


―― キス、したい。


清四郎の顔を間近で見つめながら、悠理は、唐突に、そう思った。

これはきっと、一昨日の夜に、清四郎が抱いたのと、同じ感情。
今、二度とは来ない、この瞬間だからこそ、たまらなくキスしたかった。
いきなり悠理を襲った衝動は、損得や後先なんて考えない、純粋な欲求の結晶だった。


悠理がくちびるを押し当てると、清四郎は、びくり、と震えた。

らしくもない動揺が、重なったくちびるから伝わってくる。


清四郎のくちびるは、ミルクで温まった悠理のくちびるに比べて、ずっと冷たい。
悠理は、ふたりが同じ温度になるまで、ミルクの味がする自分のくちびるで、清四郎のくちびるをずっと塞いでいた。

真っ暗な夜から、冷たい風が吹いてきて、急かすようにふたりの髪を揺らしたけれど、どちらもともに、ちっとも動かなかった。



ふたりの体温が馴染んだのを見計らって、悠理はそっとくちびるを離した。
そして、間近から、清四郎の顔を覗きこんでみる。
その途端、笑いが込み上げてきた。

清四郎は、熟れきったトマトよりも真っ赤になっていた。


「・・・せいしろ、真っ赤だぞ?」
ニヤニヤ笑いながら顔を見つめると、清四郎は困ったようにそっぽを向いた。
「・・・誰のせいだと思っているんです?」
大きな手で自分の口を覆い、戸惑いを露わにする清四郎なんて、滅多に見られるものではない。もっとうろたえさせてやりたくて、清四郎の腕を掴み、無理矢理に口から手を外させた。すると、迷子の子供みたいな表情が、もっと困ったように歪んだ。

そんな清四郎が可愛くて、悠理は何だか嬉しくなった。

「お前、やっぱり可愛い。」
「だから、可愛いと言われて喜ぶ男はいません。」

むすっとして、開いた窓のほうを向く清四郎。
悠理も、同じように、開いた窓から凍てつく夜を見上げた。


満天の星空は見えなかったけれど、さやさやと吹く風は、ミルクで温もった頬を心地良く撫でていき、ご機嫌な気分にさせてくれる。

「今日は滑られなくって口惜しかったけど、やっぱりスキー場ってイイよな。」

独り言めいた呟きに、清四郎が答える。

「じゃあ、悠理の風邪が治ったら、もう一度ふたりで来ましょうか。」


そっと肩を抱く手が、悠理を引き寄せる。

悠理は、温かな胸に、こつんと頭を当てて、大きく頷いた。



ふたりで眺める、山深い雪国の夜は、どこまでも澄んでいて。

悠理を、とても幸せな気分にさせてくれた。




・・・・ To be continued ?  

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 素材:アトリエ夏夢色