BY いちご様
1.
それは冬休みも残り数日という日、野梨子が日本舞踊のお稽古に行くため家を出ると、菊正宗家の門前に見慣れた剣菱家の車を見つけた。 横には運転手の名輪が立っている。 「こんにちは、名輪さん。寒いですわね。悠理が来てますの?」 「これは白鹿のお嬢様。いえ今日は菊正宗様をお迎えに。」 「まあ、また悠理が冬休みの課題が終わらないのでしょう。」 と、休み終盤のいつものことと、微笑みながら野梨子が言う。 「いえ、本日は別の用で・・・・。 お嬢様は松竹梅様とお出かけになりました。」 「あら、そうですの。では、私はこれで失礼致します。」 「お気を付けて、行ってらっしゃいませ。」 (何かトラブルが起きたのではないといいですけれど・・・・。) そう思いながら野梨子は名輪に別れを告げた。
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********** (「悠理を守る・・・?」) 清四郎の頭の中では遠雷が鳴り出した。 それはごろごろと、不穏な響きを轟かせながら次第に大きくなっていく。それとシンクロするように、自分の鼓動がうるさい。 「えっ、それは・・・、どういう・・・?」 困惑顔を浮かべる清四郎に、百合子夫人は勝ち誇ったように続ける。 「それはね、パートナーとして・・・。 もちろん、いずれは結婚してもらいます。」 「・・・・・・」 その言葉に清四郎は自分が嵌められた事に気付くが、時すでに遅し。 頭の中は今や暴風雨が吹き荒れている。 嵐に吹き倒されそうになりながらも、体勢を立て直す。 「しかし、以前の婚約騒動の時だって悠理には相当嫌がられていましたし、それは無理かと思いますが・・・。」 あの婚約騒動は清四郎にとって、抹消したい過去だ。 剣菱の魅力と、万作おじさんに対する男のプライドを刺激され、思わず受けてしまった婿入り話。 悠理には思いっきり嫌がられ、決闘まで挑まれたものの結局はだまし討ちして、話を進めた。 あげくに大々的に婚約発表しておきながら、みんなの前で雲海和尚に無残に負け、婚約は無かったことに・・・。 自分の思い上がりと高慢な態度で、大事なものを失うところだった。 あの後も悠理や倶楽部の皆と変わらぬ付き合いが続けられている今、蒸し返したくは無い。 「そう。確かにあの時は事を急ぎすぎました。 また雲海和尚に出てこられても困りますしね・・・。」 雲海和尚の顔を思い出したのか、百合子夫人は身震いをした。 「それなら、もうこの話は・・・」 「ちょっと聞いてちょうだい。」 百合子夫人は清四郎の言葉をさえぎって話し始めた。 「・・・・・・ 悠理はまだまだ子どもです。恋愛の「れ」の字も知りません。 人を疑うことも知らず、まっすぐに育ちました。 それがあの子のいい所ではありますが、でもそれだけ世間知らずで騙されやすいということです。」 百合子夫人は頬に手をあて、溜息をつく。 「私はあの子が心配でならないの。 これから先、剣菱目当てにあの子に近づく者もたくさん現れるでしょう。 あの子がいくら子どもっぽいと言っても、世間から見れば年頃ですからね。」 それはそうかもしれない。 彼らは留年したせいで大学1年で成人を迎える。 プレジデント学園の中には、高校在学中に婚約する生徒もいるのだし、財閥怜嬢の悠理なら尚更そんな話もあるだろう。 百合子夫人は清四郎を正面から見据えて言う。 「今の状況であの子を託すことができるのは、 清四郎ちゃん、 あなただけだと思ってるのよ。 ・・・・・・ まあ、でも悠理の気持ちも大切にしなければいけないということは、解っています。 ですから、悠理がもし他の方に恋をするようなことがあれば、 この話は無かった事にします。」 悠理のことを思いやっているのか、剣菱の後継者候補を確保しようとしているのか、それともその両方なのか、百合子夫人の意図は計り兼ねたが、清四郎はほっと息をついた。 万が一とはいえ、悠理が恋に落ちるという可能性はある。 しかし、追い討ちをかけるように百合子夫人の話が続く。 「だからその前に、悠理が清四郎ちゃんに恋するように仕向けてくれればいいのよ。 悠理の意志だったら、雲海和尚も出てこないでしょうしね。」 いとも簡単に発せられた、そのあまりに突拍子も無い考えに、清四郎は開いた口がふさがらない。 美童じゃあるまいし、恋愛不適格者と言われる清四郎に何ができるというのだろうか。 悠理に対しては女性扱いどころか、人間扱いも怪しい清四郎にはどう考えても無理であろう。 「それに清四郎ちゃんだって、もう一度剣菱の経営に携わってみたいと思うでしょ?」 百合子夫人は今度は、清四郎のプライドをくすぐるような事を言いだした。 「いえ、僕はおじさんには適いません。 あの会長代理の時にそれを思い知らされましたし・・・。」 「あの時は突然全権を任されたんですもの、無理も無いわ。 豊作は全然頼りにならないし・・・。 それでもよくやってくれたと、万作さんも感心してたのよ。 できればもう少し続けて欲しかったって。 だから今度はもっと勉強して、じっくりやればいいのよ。」 百合子夫人の言葉は、まるで思考を絡め取るように頭に響いてくる。 清四郎は何も言葉を発せずにいた。 いつもなら、冷静に的確な判断を下せる頭脳が、今日は答を導き出せない。 「『できることなら何でもしてくれる』のよねえ、清四郎ちゃん。 まさか、断るなんて事はなさらないわよね。」 首を縦にふらない清四郎に、百合子夫人が駄目押しをする。 この世の中で誰がこの人に逆らえるのだろう。 もはや蛇に睨まれた蛙。 あの目で睨まれると、途端に自分の回りの空気が薄くなったようにさえ感じる。 「・・・解りました。」 清四郎はそれだけ答えるのが精一杯だった。 その言葉を聞くと百合子夫人は上機嫌になり、サイドテーブルの引出しから小型のテープレコーダーを取り出した。 今までの会話は全て録音されていたらしい。 もう清四郎には抗う気力さえ残されていなかった。 「これは、今日の証拠として残しておくわ。 もちろん悠理には内緒よ。私と清四郎ちゃんだけの秘密ね。 ・・・ ああ、これから楽しみだわ。 悠理だって恋をすれば少しは大人しくなるでしょうし、 清四郎ちゃんと悠理の子ならきっとかわいいわ。 じゃあ、悠理のこと、よろしくね。」 と、にこやかに百合子夫人は応接室から出ていった。 |
背景:PearBox様