BY いちご様
2.
自宅に戻った清四郎はベッドに仰向けに寝転がり、今日何十回目かの溜息をついた。 百合子夫人には逆らえないが、別に従うこともない。 先程了承したのはとりあえずその場を納めて、善後策を練ろうと思ったからだ。 テープレコーダーまで用意していたとは思っていなかったが・・・。 ふと自分の将来のことに思いをはせる。 確かに医者になるという選択肢はある。育った環境上、医学に関する知識も既に豊富だ。 しかし、そうなると必ず姉の和子が目の上のたんこぶとなる。 あの世界は年功序列。 残念ながら後から生まれた清四郎に一生勝ち目はない。 あの姉にこき使われながら働くのは勘弁願いたい。 菊正宗病院ではなく他の、そう例えば大学病院などで、という考えもあるが、派閥やら何やらが煩わしい。 他に興味を引かれるのはやはり経営である。 自分で起業するのもいいが、世界に広がる剣菱グループの魅力は言うまでもない。 剣菱での会長代理の間は、時間に追い立てられ無茶もしたが、今度こそはという気持ちもある。 できることなら剣菱で己の力を試してみたいとは思うが、それと悠理の話は別次元のもの。 自分さえその気になれば普通に入社して、頂点を目指せばいいだけの話だ。 百合子夫人の言葉が思い出される。 悠理が恋をする・・・、か。 色気より食い気の悠理が恋をする日なんてくるのだろうか。 以前の婚約騒動の時、悠理の事を「女に見えない」と言ったのは自分自身だが、それでもあの時、婚約を決意した。 悠理とならば結婚していいと思ったのだ。 あの時なぜそう思ったのだろう。 今になって、あの時、悠理と夫婦になるという事に何の違和感も持たなかった自分に気が付いた。 何かとても大切なものを見落としていたような気がしてくる。 抹消してしまいたい過去として思い出すこともしなかった。 今まで疑問に感じなかったが、あれが野梨子や可憐だったらどうしていただろう。 同じように話を受けていただろうか? いや、それは無いと確信できる。 野梨子や可憐には抱かない感情が、悠理に対しては確かに存在する。 初対面でけり倒されたあの日から、いつも心のどこかで気に掛かっていた。 悠理が派手にケンカをするようになった中学時代は、影でその動向を見守った。 仲間となってからも、ずっと面倒をみてきたし、何かあれば真っ先に助けた。 茅台の所で、悠理にかけられたギロチンの刃が落ちた時は、体中の血が凍ってしまったかのようだった。 呼吸の仕方を忘れ、肺にうまく空気が取り込めなかった。 悠理が助かったと解った瞬間、なんとも言えない安堵感が広がった。 体が震え、涙さえ出そうになった。 あんな思いは、もう2度としたくない。 百合子夫人に言われるまでも無く、悠理を守るのは自分でありたい。 ケンカっ早くて大食いで、女らしさのかけらも無いが、 弱い者に優しくて、仲間想いで泣き虫で甘えん坊の悠理。 あいつに泣かれるのは弱い。 あいつが泣きやむのならどんな事でもしてやりたい。 あいつにはいつも笑っていてほしい。 そう、できれば自分のそばで。 清四郎はその想いがどういう感情からくるのか、 まさかという想いと共に、心の中に答が導き出されていった。 そしてその気付かされた想いは、 戸惑いと喜びと共に、自然に自分の心に受け入れられた。 しかし、それと同時に相反する絶望的な思いにもとらわれた。 悠理の清四郎に対する想いも、清四郎には手に取るように解るからだ。 婚約候補に清四郎の名前が出た時に、思いっきり嫌がってくれた悠理の声がよみがえる。 もしも、この想いを悠理に告げても、また剣菱目当てとしか思われないであろう。 ましてや今の状態で、悠理が清四郎に恋するようになるなんて考えられない。 清四郎は再び深い溜息をついた。
********** 「あー、もう、わっかんないよーー。」 生徒会室に悠理の雄たけびが響く。 悠理は冬休みの課題を結局魅録に頼り、ほとんど丸写しして済ませた。 が、プリントを3枚行方不明にさせてしまい、 始業式の今日、やり残したそのプリントをやっているところだ。 期限は今日中。 頼みの綱の魅録は、今日は族の集まりがあるとかで早々に帰ってしまったし、他の3人も悠理の課題に付き合うほど暇ではない。 面倒を見てるのは卒業するまで勉強を見ると言った清四郎だけだった。 清四郎が読んでいた新聞を閉じ、悠理の後ろに回り覗き込む。 「この問題はこれと同じ解き方だから、この公式に当てはめればできるから・・・。」 シャーペンで問題を指し示しながら教える。 「えー、なんだよ、この公式い。 こんなの知らなくても、世の中生きていけるじゃん。 だからさ−、答教えてよ! ね、清四郎ちゃん。」 シャーペンを鼻の下にはさみ、手を合わせながら見上げる悠理。 清四郎は大きく溜息をついた。 「悠理、確かにこの公式を知らなくても世の中渡っていけるかもしれないが、この公式を使う問題が解けなければ、大学部には受からないぞ。 大体、この冬休みの課題は内部入試の為のものだったんですよ。 それを魅録に写させてもらうなんて・・・。 内部進学はハードルが低く設定されているんだから、ちょっとは自分でやりなさい。」 清四郎はいつもは自分を頼ってくる悠理が、今回は魅録を頼ったことが、なんとなく面白くない。 「だって、時間が無かったんだもん・・・。」 「はいはい。 今日はまだ時間がありますから、せめてこの3枚だけでも、しっかり自分でやって下さい。」 一月下旬には大学部への進級認定試験が控えている。 いくらエスカレーター式とはいえ、テストはある。 それなりの成績をあげて欲しい学校側の配慮で、この課題が出されていた。 つまり、この課題程度の問題ができれば入試も大丈夫ということだ。 解らないと騒ぐ悠理に根気強く教える。 今までは留年とコンピュータの約束で悠理の勉強を見てきたが、 今は清四郎自身が一緒に大学部に通いたいので力もこもる。 いつもなら覚えの悪い悠理にいらいらするのだが、 今はこんな時間も貴重な一時だと思う。 先日気付いた気持ちのせいか、悠理がかわいく見える。 たとえ、シャーペンで頭をかきむしっていようとも・・・。 清四郎は生まれて初めて味わう、この不思議な感情に、戸惑いながらも少しずつ慣れていった。 ポーカーフェイスの清四郎、態度の変化はほんの微々たるものだったが、悠理の野生のカンが、いつもと微妙に違う清四郎の変化を感じ取る。 新学期早々、課題の提出に付き合わされ、機嫌が悪くなりそうなものなのに、ぐうの音も出ないほどのイヤミが出なかった。 さっきだって、頭から叱るのではなく、言い聞かせるような言い方だった。 何か違和感を覚え、こっそり顔を上げ清四郎の様子を伺う。 はす向いの席で新聞を読んでいる清四郎。 物事の総てを見透かしてしまいそうな深い黒い瞳。 切り取ったような通った鼻筋。 薄くきれいな唇。 (男の癖にホントきれいな顔だよな・・・。) さぐりを入れるつもりが、しばし清四郎の顔に見入ってしまった。 悠理の視線に気付いた清四郎が、新聞を下ろしふっと微笑んだ。 「僕の顔を見ても答は書いてありませんよ。」 微笑まれてしまい、悠理は見つめてしまっていた自分が急に恥ずかしくなった。 それを誤魔化すようにわざと大きな声を出す。 「解ってるよ。 腹減ったー!まだ昼も食べてないんだぞ。」 時計は12時を30分ほど過ぎていた。 「どこまでできたんですか?」 テーブルの向こうから悠理の手元を見る。 「まだ、ここ・・・。」 悠理は俯き中途の場所を指し示す。 「思ったより進みましたね。じゃあ、一旦お昼でも食べますか。」 いつもの清四郎なら、まだここか、とイヤミの一つでも言っていただろうが、まだ時間もあるし、誉めた方がお互いの精神衛生上良いと判断した。 「うん、お腹すいたし喉も乾いたー。」 「はいはい、外に出るとそれだけ時間がかかりますから、何か買ってきますよ。」 「あ、じゃあ、あたい菜楽中華店のスペシャル弁当と、春巻弁当と、餃子弁当な。」 悠理は指折り数えて弁当を指定する。 「3つも食べるんですか?」 「だって、勉強すると腹が減るじゃん。」 「ダメですよ、満腹になると眠くなるでしょうが。2つにしてください。」 確かあそこの弁当はかなりの量だったはず。 「えーーー、そんなのやだ。食べなきゃもたない。」 足をバタバタと鳴らし駄々をこねる悠理。 「解りました。じゃあ、3つ買ってきますけど、お昼は2つ、残りを食べるのは課題が終ってからですよ。」 清四郎は妥協案を提示する。 「ん、わかった・・・。」 「じゃあ買ってきますから、その間に課題を一問でも進めといて下さい。」 そう言うと清四郎は部室を出ていった。 パタンと閉まったドアを眺め、悠理は清四郎のさっきの表情を思い出し、胸がドキドキした。 なんであたい胸がドキドキしてるんだろう。 でもいつもはイヤミや意地悪ばかりなのに今日はちょっと違う。 なんでだろ。 清四郎の態度のほんの少しの変化に、まるで化学反応を起こすように、悠理の気持ちも少しずつ変わり始めた。 |
背景:PearBox様