「清四郎!」 悠理の声に振り返ると、まるでスローモーションのように悠理の体が海に吸い込まれていくところだった。
「悠理!!」 追いかけるように海に飛び込んだ。 真っ黒な海面、悠理の落ちたところに、その存在を示すかのように白い泡が立つ。 そこを目指して水を掻く。 あのドレスではさすがの悠理も泳げないだろう。 ましてやかなりアルコールも入っている。 間に合ってくれ。 見当をつけて潜るが真っ黒な海は悠理を飲みこんでしまったかのようにその存在を隠している。 一旦息継ぎの為に海面に浮上すると、頭上から光が照らされる。視界の端に魅録の姿を認め、光に導かれるように再び海に潜る。
照らされた光の中に悠理がいた。 ふわりと海に漂っている。意識は・・無い。 その顔はドレスが反射しているだけではなく青白い。 心臓を鷲掴みされたような感覚に襲われる。 必死に悠理の体を手繰り寄せ抱きかかえると海上をめざす。 モーターボートに悠理の体を引き上げ、岸に急がせる。
悠理の呼吸は止まっていた。頬をたたくが覚醒しない。 気道を確保し人工呼吸を繰り返す。 「(死ぬな、死ぬな、悠理。)」 僕は悠理を失う恐怖と戦いながら悠理に息を送り続けた。 悠理の冷たい唇に熱を分けるように口付ける。 時間の感覚が無くなる。
どのくらい経ったか・・・、ほんの短い時間だったのかもしれない。 肺から海水をげほげほと吐き出し、悠理が息を吹き返した。 真っ青だった頬に唇に赤味がもどってくる。 うっすらと目を開いた。 「悠理!悠理!」 必死に呼びかける。 「せ・・・し・・・」 とつぶやくとまた気を失った。呼吸がぜいぜいしている。 肺に入った海水が出きっていないようだ。 体温も下がっている。
岸に着くと悠理を毛布にくるみ抱きかかえてヘリへ急ぐ。 魅録に菊正宗病院への連絡を頼み、ヘリポートの使用許可を取る。救急車を待つより直接連れていった方が早い。 操縦士にそれを告げると、ヘリは東京湾上空に飛び上がった。
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菊正宗病院の屋上には連絡を受けた医師達が待機していた。 僕は悠理をストレッチャーにそっと降ろし、状況を説明する。 悠理はそのまま処置室に運ばれた。
僕と魅録が処置室の前で待っていると、可憐がやってきた。 剣菱家にも連絡済みで、もうすぐ五代が来ると言う。 剣菱夫妻も豊作氏も不在だった。 しばらくして、処置室から和子が出てきた。当直でいたらしい。 「姉貴、悠理は?」 「心配ないわ。呼吸も安定してきているし。」 その言葉に一同はほっと胸をなでおろした。
「ただ、肺に重油が入ってしまったらしくて、肺炎を起こしかけてるから、しばらくは安静にして様子を見ないとならないわね。」 そういえば、2,3日前に東京湾で船同士の接触事故があり、 重油が漏れ出したとのニュースがあった。 「あんたも一回家に帰って着替えてらっしゃい。その格好じゃ迷惑よ。」 言われてみれば、水浸しのひどい格好だ。 きれいになったと言われてはいるものの、東京湾。おまけに重油が漂っていたのだ。 解っていても動こうとしない僕に可憐が言う。 「その格好じゃ悠理の意識が戻った時に病室に入れないわよ。 あんたがいない間は私達がついてるから、ちゃんと着替えてらっしゃい。」
家に帰りシャワーで海水を洗い流し、着替えて再び病院に向う。 アメリカには他の人に行ってもらうよう連絡をとった。 今は悠理のそばを離れたく無い。
病院に戻ると、悠理は個室に移されていた。 病室の前には魅録と可憐がいた。 「まだ眠ってるみたいだけど、大丈夫そうだから私達は帰るわね。 今、五代さんが中にいるわ。 清四郎、悠理とちゃんと話し合いなさいよ。 悠理があんたを引きとめようとした理由を考えなさい。」 「じゃな、また見舞いにくるよ。」 魅録は清四郎の肩をポンとたたき帰っていった。
病室に入ると点滴を受けながら眠る悠理の横に五代がいた。 清四郎に気が付くと会釈をして、荷物を取りに一旦帰ると病室を出ていった。 悠理の傍らに腰をおろす。 酸素マスクを付けているせいか、先程より呼吸は楽そうだ。
悠理の顔をながめながら、今までのことを思い返す。 悠理から初めてキスされたのがもう1年以上前のこと。 それ以前から他の4人は付き合っていて、残ったのは僕ら二人。 僕は僕で色々と忙しくしていて、淋しがり屋の悠理が一人取り残されるのがいやで僕と付き合い出したと思っていた。 1年経っても愛を告げる言葉は二人とも言った事が無かった。 『友達以上、恋人未満』 そんな関係だった。
剣菱に入ってからは一層忙しくなり、会う機会も減っていった。 もともと悠理とは趣味も思考も違う。 悠理はたまたま僕がそばにいたから付き合おうと思ったのではないか? そんな疑問が常に胸の中にあった。 悠理が恋をしたら、悠理に本当に好きな人ができたら、 身を引くつもりだった。
そんな時、仕事の移動中に悠理と霧島氏を見かけた。 僕と一緒の時より楽しそうな悠理。 だから、霧島氏と何かあったと知った時、別れを決意した。 やはり僕とのことは本気ではなかったのだ、悠理を縛り付ける訳にはいかない、と。
頭ではそう思っていても、まだ迷いはあった。 それは一つの賭けだったのかもしれない。 悠理に否定して欲しくて口から出した別離の言葉。 だが・・・。 悠理の沈黙に絶えられなくてその場を逃げた。
しかし、あの海の中で横たわる悠理を見たとき僕の中に起きた激しい衝動・・・。 悠理を失いたくない。 お前のそばにいたい。 僕のそばにいて欲しい。 他の人と幸せになんてもう思えない。
寝顔を見つめ、頭を撫でる。昔よくしていたように。 悠理、君は僕を呼び止めて何を言うつもりだったんだ? 僕を必要としてくれるのか?
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目を開けると白い天井が見えた。 ここは? ああ、病院か。 あたい海に落ちたんだっけ。 なんだかうまく息ができない。 体が重い。 左手が動かない。 首を動かすのもつらくて、目だけを左に向けると点滴のスタンドが見えた。 ああ、点滴のために固定されているのか。
「気が付きましたか?」 覗き込んできた顔は・・・清四郎・・・? 清四郎だ。 アメリカに行くって言ってなかったっけ? 前髪が降りているので別人みたい。
「・・・せ・しろ、」 口の中が乾いて張りつく。 声が出ない。
清四郎がナースコールを押しながら言う。 「ここは菊正宗病院です。 もう大丈夫ですよ。 でも肺炎を起こしかけてるので、あまりしゃべらない方がいい。 呼吸が苦しくなりますからね。 五代さんがいたんですけど、荷物を取りに戻ってるところです。 今夜は僕がついてますから。」 「ん」 酸素マスクから常に空気が吹き付けられてしゃべりにくい。 でも清四郎が一緒にいてくれると言われて安心する。
ドクターが来て、体温や血圧を測り、聴診器をあて、異常無しと酸素マスクを外していった。 カーテンを開け、清四郎にもう大丈夫と言葉をかけていた。 左手の固定は外されたが、点滴はそのままだった。 これ付けてる間は何も食べられないんだよな・・・なんてぼーっとした頭で考えた。
ドクターが出ていって、再び二人きりになった病室。 もう真夜中なのだろうか・・・・。 あたいは海に落ちる前に言い掛けた言葉を、どう伝えようか考えていた。
どう伝えたらいい? あたいと清四郎の想いに差があるなら、あたいの想いは迷惑なの? でも、このまま終りにはしたくない。できない。 まずはあたいの想いを伝えなきゃ。 そばにいて欲しいって。
不意に、 清四郎があたいの右手を両手で包み込むように握った。 顔を見上げると、清四郎の目が涙で潤んでいて驚いた。 清四郎が泣いてる・・・?
「悠理、本当に良かった・・・。 呼吸が止まってた時はどうなることかと思いましたよ。」 清四郎の声が震えていた。 普段感情を表に出さない清四郎が。
「ごめん。」 心配させた事で心が痛んだが、その反面嬉しくもあった。 あたいのこと心配してくれるの?
「全く、あなたから目が離せませんよ。 僕がいなくなったら、誰があなたを助けるんですか?」 その言い方はいつもの清四郎だったけど、眼差しは優しい。
「悠理、さっきはあんな事を言いましたが、撤回させて下さい。」 あたいは声が出せず、清四郎の顔を見上げただけだった。 「あなたを失うかもしれなかったあの時、強く思いました。 そんな事には耐えられない。 僕はあなたを失いたくない。 ・・・これからもずっとそばにいたい・・・と。」 清四郎の漆黒の瞳が真っ直ぐにあたいを見つめる。
大好きな清四郎の顔を見ていたいのに涙で視界がぼやけてしまう。 嬉しくて嬉しくて・・・。 「ずっと一緒にいてください。 あの時、悠理が僕を呼び止めたのは、僕と同じ気持ちだと思ってもいいですか?」 あたいは頷くだけで精一杯だった。 「うん・・・、うん。」 あふれた涙が目尻をつたう。 その涙を指で拭いながら清四郎の大きな手があたいの頬に添えられる。
「悠理、愛してます。」 ゆっくりと清四郎の顔が近づいてくる。 唇が触れる寸前「あたい・・も」とささやいた。
END
(みゆきさん『湾岸24時』参考)
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