僕の両手に残るもの

       BY こたん様

3

 

 

我々(僕と友人の代わりにセンター長になる四十六歳の、鋭い目が印象的な中肉中背の男)が派遣されたのは、小さな商店街の一角にある三階建てビルの二階だった。ビルといっても各階に一社しか入れない、極めて小さなビルで、しかも最上階には三十代後半の世慣れしたような女性が独りで暮らしていた。時々、決して普通の関係とは思われない男性が訪ねて来ていた。彼女が何の仕事をしているか全く分らないし、我々には興味が無かった。

街はいつも閑散としていて、少し歩けば住宅街になり、また少し歩けばそこはもう郊外と言って良かった。だからと言って我々広告代理店には仕事が無いわけでは無い。むしろこういった場所だからこそ、仕事に溢れていた。郊外を利用して建てられた工業団地や流通団地があり、各社からの広告の依頼があった。営業するにも、車での移動が首都圏と違って自由が利いた。だから我々男二人、てんやわんやすることが少なくなかった。

始めは何とか雑務を分担して、掃除をしたりお茶を入れたり、ごみの日にごみを分別して捨てに行ったりした。しかし仕事が増え始めると、そっちのほうまで手が回らなくなった。我々二人の机の上は山のように書類でいっぱいになり、ごみは悪臭を放ち、流しは珈琲のこびりついたカップが散乱していた。顧客が来ると、近くの喫茶店で打ち合わせをした。

僕は時々休みを利用して事務所の掃除にやって来たが、CMの取材や収録、キャンペーンなどが度重なると休みなど存在しなくなった。やっと得た休日は、昼過ぎまでベッドの中にいた。このままでは、いつ一階のアダルトビデオ店に腐った床が落ちないとも限らないので、我々は本社に女性事務員を入れるように申請書を提出した。

 

我々営業マン二人だけでは、

1.         財政上の事務及び総務的処理に手が回らず、

2.         顧客管理及び社内管理は以ての外、

3.         よって効率よく仕事をするには、心配りある女性事務員が必要である。

 

そうしてやって来たのが一年間契約の女性だった。

彼女は二十代前半の、じっとしているといるのかいないのか分らないほど大人しい女性だった。話しかけるといつも顔を赤くした。電話を取っても同じだった。その上意見を求めると、口先が引きつっていた。彼女は仕事に関して、効率よく働く人間ではなかったが、一所懸命なのは充分伝わった。何をやるにも時間が掛かったが、最後まで愚痴ひとつこぼさずやり遂げた。それに彼女の入れる珈琲は、僕の恋人が入れてくれるのより遥かにうまかった。そのことを言うと、やっぱり顔を赤くして僕から顔を逸らし、でもとても嬉しそうに微笑んでいた。

我々の事務所は彼女の出現によって、見違えるほど綺麗になった。床には塵一つ無く、ごみは周期的に捨てられ、珈琲カップは真っ白に漂白されていて、毎朝うまい珈琲が飲めた。それでも我々の机の上だけは、いつも書類やメモが散乱していた。

 

形の上では、我々の仕事は何とか売上達成に向かっていた。このまま行けば悪くない数字であろう。事務の女の子は、月ごとに慣れないパソコンで売上表を作ってくれた。

しかし彼は日ごとに悪化していった。それは目に見えるように分り、彼女にも同じように映っていた。何が原因なのかは僕には分らない。もちろん彼女にも知る予知はないであろう。彼は仕事ができたし、強引なほど契約していった。時々僕や彼女にも辛くあたる事があった。僕は彼を知っているし、彼女は不安げにじっと耐えていた。それまで我々は、うまく行っているように思えた。彼の悪化の原因は、派遣される前からあったのかも知れない。彼が仕事に夢中になるのも、もしかしたらそこにあるのかも知れない。

僕は彼を、深い海の底に落ちようとする彼を止めることは不可能な気がした。もう誰も止めることは出来ない。

 

 

4

 

 

僕が派遣先に引越しをしてしばらくは悠理から連絡はなかった。僕も思った以上に忙しくて、メールすらできずにいた。

広告マンなんてもちろん、今までやったことなんかない。

商品の広告文を考えたり、テレビ・ラジオのCMコメントを考えたり、新聞広告、チラシ、ハウジングギャラリーの企画・・・考えられない量の広告・広告・広告・・・

センター長に毎晩遅くまで広告について学び、地方テレビ局や新聞社、印刷会社、デザイン制作会社、コピーライターを毎日巡り、新規顧客と契約する。

一ヶ月に何度か広告代理店の本社に会議やCM素材を取りに行く事があった。また剣菱本社での仕事の打ち合わせに行く時もあった。そういう時間を利用して、僕は剣菱邸で僅かな時間を悠理と共用した。

彼女は始め、あの夜の出来事を無かった事にしようと言った。お前は情緒不安定だったのだし、あたしだってどうかしてたんだ。でも僕には、無かった事にできない感情が彼女に対してすでに生まれていた。無かった事として忘れてしまうなんてあなたにはできますか?もし互いに惹かれるところが無かったら、あのようにはならなかったでしょう。僕の中に生まれた感情を消し去るなんて、できない。

彼女はぶっきらぼうでかなり緊張していた。でも僕の言葉とその行為によって、新しい表情と感情と肉体が表れた。二十年以上の彼女との付き合いの中で、全く別の彼女を見出せた僕は素直に喜ぶ事ができた。そしてそんな彼女を見つめている時だけ、亡くなった友人の事を忘れられた。

悠理も時間が取れた時は、剣菱の運転手に送られて僕のマンションに来たり、新幹線と電車とバスを乗り継いで来る事もあった。

互いに時間を確認し会うのだから、月に何度も会える訳ではない。そんな時は普通の恋人達が行う事を、その短い時間の中で凝縮して行った。食事をし、語り合い、時々喧嘩をし、ブランケットを分かち合う。だから帰る時は、彼女はぐったりと疲れていた。

でも全く知らない互いを発見できた事に、僕達は幸福を覚えた。

でもやはりそんな生活は長くは続かなかった。

 

 

マンションに着いたのは、もう夜の十一時を過ぎていた。 CMの打ち合わせで、顧客とうまく行かなかったのだ。彼らと我々企画・制作とは、一つの物事について考え方が違う。逆の意味で我々は、顧客よりも現実的なのかも知れない。僕はむしゃくしゃした気持ちのままシャワーに入り、缶ビールを立て続けに二本飲んでベッドに潜り込んだ。

トイレに行きたかったのだろう。海で泳いでいる夢を見た。頭はまだ夢の続きを見ようとしていたが、体はトイレに向かっていた。その後キッチンに行き、水をコップで二杯飲む。これではまたトイレに起きかねない。僕は無意識に壁の時計を見た。もう朝の四時だった。そしてその真下にある電話を見ると、留守番電話のランプが点滅していた。帰ってから一度も電話のことを気にしていなかったのだ。留守番電話には一件だけメッセージが入っていた。僕の恋人からだった。不規則な時間の僕に気をつかってマンションの電話に入れたのだ。

『帰ったら電話ください。何時でも待ってるから』

早速彼女の携帯に電話してみた。十五回目のコールで彼女は出た。

「今何時だと思ってんだよ?」

きっとブランケットの中から応えているに違いない。彼女の声はくもっていた。

「朝の四時です。」

「常識的に普通、こんな時間に電話しないよな。緊急じゃあないんだろ?」

「だって何時でも電話して下さいって、あなたは留守電に入れていたじゃありませんか。」

「あのさ・・・」

彼女はゆっくりベッドから起き上がるように言った。

「あのさ、たいてい十二時過ぎれば諦めるよ。それにあたしはお前と違って、八時三十分に仕事が始まって、五時に終わるんだよ。何も無ければさ、母ちゃんにそうしてもらってんだよ。お前が疲れているのは分るよ。でも、とばっちりはごめんだ!」

ブツン、という音をたてて電話は切れた。確かにそうだ。でも僕としては、冗談のつもりだったのだ。僕は大きなあくびをした後、再びベッドに潜り込んだ。

 

 

日曜日、僕は悠理と久しぶりの休日を過ごした。僕達は一ヶ月に一度のペースで会っていた。その日、僕達は普通の恋人がそうするように映画を観て、品の良いスパゲッティ専門店で昼食を食べ(いささか味付けが濃かったが)、ドライブを楽しんだ。夕方には、テレビドラマのような海辺の夕焼けを眺める事ができた。日中と打って変わって、その時刻は肌寒く、僕達はしばらく寄り添っていた。

「大学の時ちょっと付き合っていた男から電話があってさ。」

彼女が帰りの車の中で言った。それまで僕達は、とても良い感じでデートをしていたし、どうして彼女が急にそんなことを口にしたのか僕には分らない。彼女の雰囲気に酔った気紛れだったのかも知れない。

「男って分らないよな。どうして今になって、電話の通じてしまった昔の女に会いたがるんだろ。今更どうしようも無いのにさ。」

今更別れた男について言う彼女の方がおかしい、と僕は思う。相手にしなきゃいい、相手にするから男はその気になるんだ。でも、僕は何も言わなかった。少なくとも僕は彼女が気に入っているし、彼女がその、別れた男の話をしたところで、どうしたいなんて思ってもいないだろうと知っていたから。やきもちを焼いて見せたところで、きっと喧嘩になるだけだ。

夕食は僕のマンションで食べる事にした。近くのスーパーで買い物をして、僕達はあれから余り会話がないまま部屋に着いた。彼女が簡単な夕食位なら作れるようになったと言って支度をしている間に、僕はシャワーに入った。悠理の癖がうつったのか、顔を洗い、髪の毛を洗い、身体を洗う。いつも同じ順番に洗っていく。そうしないとうまくいかないのだ。ひとつ順番を変えると、どれかを抜かしてしまう時があるのだ。

シャワーから出ると、キッチンからフライパンで溶けるバターの匂いがした。Tシャツに綿の半ズボン姿でキッチンに行き、冷蔵庫から缶ビールを取り出してテーブルに寄りかかり、彼女を横目で見ながら飲んだ。

「あたしにも一本ちょうだい。」

彼女は缶ビールを片手に、無言でさやえんどうを炒めていた。キッチンは、ジュウジュウという音以外何も聞こえてこなかった。その沈黙と蒸し暑さが、僕に重くのしかかってくるようだった。

 

「お前って昔っからそうだよな。」

悠理が突然、夕食のテーブルで呟いた。

「えっ?」

彼女はナイフとフォークを皿の上に、ハの字に綺麗に置いた。まるで初めてのテーブルマナーの講習を受ける生徒のようだ。きっと百合子おばさんの仕業だ。料理もテーブルマナーも。

「何て言ったんです?」

僕もワイングラスを置いた。

「お前っていつもそうだ。あたしに関心なんて無いんだ。いつもなんでも知っているかのようにして、あたしの事を気にも止めてくれないじゃないか。あたしはいつも淋しかったんだそ。何を言っても見透かしている振りをしてさ。いつも、いつもいつも。だからもう嫌なんだ。疲れた。こうしている今も、きっとお前はあたしを見透かしている振りをしているんだ。本気にしていないんだ。」

僕の恋人は両手で顔を覆い、声を殺して泣き始めた。

 

 

 

 

 NEXT

 作品一覧

 

背景:13-thirteen